2.異変

異変は、ある日突然起こった。


彼の力が使えなくなったのだ。

もちろん、彼に人をたばかる術などない。本当に、使えなくなったのだ。


村の長老、そして男たちは慌て、うろたえた。気の短いものなどは、彼を怒鳴りつけ、殴りつけた。

食事も満足にもらえない日々。

彼はもう、立ち上がる力さえなくなっていた。白すぎる肌に刻まれた痛々しい虐待ぎゃくたいあと

昼の陽光は肌を容赦なく刺し貫き、彼はその苦痛に唇を噛み締めた。


------------夜になれば……


夜。それは彼にとって、昔も今もかけがえのない時間。ただ違うことといえば、彼が『月』ではなく、『芙蓉』を待つようになったことか。


繰り返される苦痛の日々の中、彼はただ芙蓉を求め、待ち続けた。

しかし、そんな彼の期待を裏切るかのように、芙蓉が彼のもとを訪れることはなかった。


そうして幾日いくにちたっただろう。

折れそうなほど細かった月が、また再び丸く大きくなっていた。


芙蓉は来ない。


彼は初めて知る『絶望』に、打ちひしがれた。それまでは何かに『期待』することすら、知らなかった彼。

ただ『月』を眺め、それに満足していた。

しかし、それは芙蓉が現れたことで変えられてしまった。


『人と触れ合うこと』の心地よさ。

投げかける言葉を返してくれる人がいるという『幸せ』。


それを知った後では、知らない頃の自分に戻ることなどできない。『孤独』に戻ることなどできようはずもない。

彼はもう食事をすることさえ、どうでもよくなっていた。指一本動かすのすら、わずらわしく感じる。


ただ、芙蓉を待ち続けた。


抱きしめたぼろ毛布は、少しの温かさも与えてはくれない。

芙蓉のあの笑顔、小さな手、まっすぐ彼を見つめてくるまなざし。

彼は毛布をきつく抱きしめ、床にひたいを擦り付けた。


「芙蓉……」

小さく呟くように、その名を呼ぶ。

会いたかった。

男たちのように、殴ってもいい。

女たちのように、嫌悪する視線を投げつけられても構わない。

それが芙蓉によって与えられるものならば、彼は喜んで受け入れるだろう。

ただ一目でも、芙蓉に会いたかった。

彼の心の中は、それでいっぱいだった。


「芙蓉……」


彼はまるでそれしか知らぬかのように、ただ、芙蓉の名を呼び続けた。

暗い夜のとばりに彼の声が吸い込まれてゆく。いつしかその頼りないささやきは、低い押し殺した嗚咽おえつへと変わっていた。


初めて流す、痛みからではない涙。


彼は泣きながら、ただ芙蓉を呼び続ける。

小さな幼子が、母親を求めて、すすり泣くかのように……

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