14
海。クラブSの跡からもう二時間以上も走り、サキが言うには、もう少しで今日の目的地に着くということだったのだが、その前に電話では伝えきれなかった話をしてしまうということで、小さな海水浴場を見下ろす高台の小さな公園で僕らはバイクを降り、その奥にあった小さな東屋の日陰の下に座った。
目の前には夏の風景が広がっていた。水蒸気にかすむ水平線上をゆっくりと動く船の上に白い雲が空高く棚引いていた。遠くにぽつんぽつんと見える島々は緑。子供たちの遊ぶ砂浜は銀色に輝き、鮮やかな色彩のパラソルがその中に点在して、――歓声が聞こえる。
波の音と混じり、ビーチボールが宙を舞う、絵に描いたような夏の風景、――その中へ、きわどく肌を露出した若者の集団が僕らの前を歩いて向かっていた。
少し太った男と女が集団の最後尾で手をつないで、その前には、男と女が三人ずつ、女はみんなぴったりとしたビキニのトップにトロピカルなフルーツ柄のフレアーのスカートをはき、男は良く焼けた上半身をこれ見よがしにさらして頭にはタオルを巻いていた。
自らの中には行き先のない程の過剰なエネルギーを、夏より吸収した、——その若者達は、生命を、ぎらぎらと外に輝かせることで放出しているかのようだった。夏が、生命が、熟れ、性と過剰に満ちていた。
暑い空気が、焼けた肌の上に汗を流がしていた。女達の胸元から、腰にかけて、光が反射してきらきらと輝いていた。最後尾の男は軽く女の尻に触れていた。女は僕がそれに気づいたのを意識しているのか、目があったら、うらやましいかとアピールするような感じの笑みを投げてくる。
そして、その集団は、この高台から下の海岸へ降りるらしい道へとそのまま歩いて行った。
僕は、彼らに、目の前を通り過ぎられただけで、なにかひどくエネルギーを吸い取られたような気がした。それはサキも同じだったらしく、
「やっぱり若いわね」と彼女も思わず漏らす。
それが僕らの会話の始まりだった。
「張り合う気なの、――人妻が」
サキは僕を少しきつく睨んだが、すぐに顔を緩めると、
「まあそうだよね、自分が歳を取ったのは自覚してるわ。ああいう時代はとっくに終わって、――でも今も良いものよ」と言う。
「それはよかった」
僕は本心でそう答える。
すると、優しげににっこりと笑いながらサキは言った。
「二十歳越えてから成長するなんてないだろうと、あの時は思っても無かったけれど、こうやってみると私も変わったわ、いろいろなことが冷静に見れるくらいにはなって、でも変わらないのは……」
「どうせ……僕と言いたいんだろ」
サキは頷いた。
「まったくそうね。鈍くて、デリカシーに欠け、ロマンチックな所が無く、――相変わらず私とタイミングが悪い」
口調とは裏腹にサキは満面の笑みを浮かべながらその言葉を言い、僕もそれに笑顔を返した後、
「いやサキも変わらないとこあるよ」と僕は言うと、
「何? 口の悪いとこ?」
僕の軽口を予想してかあらかじめ防衛の憎まれ口をサキは叩くが、
「……やさしいところ」と僕はかえす。
すると、僕の、心のまま、本心を何も隠さない言葉に、虚をつかれたのか、サキは、少し顔を赤くして、
「何を言ってるのよ」どぎまぎした様子で言う。「――人妻をくどく気なの、ユウくん、もしかしてこの十年で性格変わった? なら今日、この後に……連れて行くのも考えを改めないといけないけど」
「いや、変わんないさ」と僕がこたえる。「相変わらず弱虫だ」
サキはまた頷きながら僕に近づいて来て、人差し指で僕の額を軽く押す。
「まあ、そうでしょうね。も今日はもう一歩進んでみましょうか」
僕は頷き、そして、
「ところで――」
「何?」
「サキはだんなとはうまく言ってるようだね」
「なんで?」
「悪口をいわない」
「は? 私はそんな基準で見られているわけ!」
「……と言う、今の言葉にテレがあるから」
サキは、少し恥ずかしそうに下を向く。
「まったく……五年前にユウと再会してたらね。でも今はもうだめよ。――私にも裏切れない人ができたと言うわけ」
「なるほど、妬けるね」
「うらやましい?」
「ああそうだね」
「本気で言ってないでしょその言葉」
「いや、僕はいつも本気のつもりだよ。……でも」
「でも?」
「そのせいで自分についている嘘が分からない、――なのでいつも失敗する」
サキは顔をあげ、僕をじっと見つめる。
それは今まで見たうちで一番の優しい顔で、
「なら今日は私が見ておいてあげるわよ、あなたが嘘をついていないか」と言う。
「ありがとう」と手を差し出しながら僕。
その手を、しっかりと握りながらサキは言う。
「良いのよユウ、こえれは私のやり残したことでもあるのだから。私は、——今日は昔の私なのよ。あなたと同じように、やり残したことをやりにいくのよ。今日は私は、前の私と思って接していいわ。ただし……」
「ただし?」
「我が家のコンプライアンスに違反しない程度でだけど」
僕らは笑った。そのまましばらくの間、海を、砂浜にあふれる生命の躍動をただ眺め、北の海の夏、吹いてくる風の意外な涼しさに気持ち良くなりながら、――何も言わずそこに座っていた。
しかし、
「そろそろ、マイが生きていることを知った時の話を――」と言ってサキが話し始めたのは、この間たまたまカンノと言う旧友にあった時の話なのであった。
*
カンノと言うのは、ヒラヤマと一緒にDJをやっていた男であった。彼も、Sで出会った他の友人達と同じように、毎日のように。いつもSにやってきては、僕らとだべっていた奴だったが、二十ちょっと過ぎに早くも結婚して、子供ができてからはぴったりとクラブには来なくなってしまった男であった。
今なら僕らの方が軽率で軽薄な生であったことが分かるけど、——その頃の僕らからすると随分早くに老けてしまった思えた男であった。僕には、カンノのDJの才能はヒラヤマよりも高く思えていただけに、その早い引退が残念に思ったものだった。
彼は、今では、電気工事の会社に務めていて、昔の細面のクールなサブカル青年の影も形もないおっさんになっているそうだが、僕のことも仲間のことも良く覚えていて、あの時代の思い出をとても大事にしているとのことであった。
で、そのカンノと、サキがたまたま会ったのは、最近のこと、——ヒラヤマが来日した大物DJのツアーの前座で、珍しく大箱で回すというので、彼が調子に乗って、もうクラブに行っていない昔の友達を半ば無理やり召集をかけた時のことだった。
そこで思わぬ再開をした二人は、パーティも半ばも過ぎ、ちょっと評判倒れの、その時の外タレDJのプレイに飽きて、昔話の方に夢中になっていたのだが、途中、そういえば、とカンノから突然マイの話が始まったそうだ。
「この間、と言ってももう数年前になるけど、マイをびっくりしたところで見たよ」
「何をいってるのマイは死んだのよ」
「死んだ? 俺は確かに見たよ」
「どこで?」
「地下鉄の北の終点の近く、丘の上の病院に工事で行った時のことだったよ。配電板がショートしたとかで会社に依頼が来て、その日近くで別の工事を終えたとこの、俺が呼ばれて病棟の奥まで通された」
「病院?」
「ああ。病院。でも、その病院の中、俺が、その日行ったのは、普通の病棟ではなかった。……普通でないというのは、……身体の病棟ではなかったということで」
カンノは自分の言葉が少し差別的に聞こえなかったか気にしていたようで、少しあわてたような口調になったと言う。いや、カンノ自体は、ダウン症の子供を抱え、苦労して子育てをした男のはずで、もともと正義感も強く、決して差別心等持つような奴ではない。その彼からぽろっと出てくる「普通」と言う境界は、妙に毒々しいリアリティを持って僕の頭の中に現れる。
「続けて」とサキは言ったそうだ。
「……俺は看護師に案内されて、病院の奥へ奥へと歩いて行った。守衛室でもらったカギの束をじゃらじゃらさせながら歩く、ヤンキー上がりっぽい茶髪の看護師につれられて、病院の奥へ、奥へ俺は向かった。気さくなその看護師は、俺に病院の設備をいろいろと案内しながら歩いて行った。内科、外科、泌尿器科、皮膚科、眼下、耳鼻内科。良く分からない検査器具や、どこが悪いのか知らないが点滴をつけたまま歩いている病人たち。彼女は大きく腕を降りながら、指差してその内容を説明してくれた。……
その日の目的の配電盤がある病棟は、病院の一番奥にあるようだった。別棟となるそこに向かう長い、白い渡り廊下は、窓からさんさんと降り注ぐ太陽の光に照らされてキラキラと輝いていた。人っ子一人いない、その静かな廊下を、俺は無言で歩いた……うん、……そして、——俺は病院の一番奥の仕切られた一角に通された。
俺を案内してきた看護師は『よろしくお願いしますね』と言うと、その一角に入る厚いガラスのドアを開け、中にいた、少し歳を取った不機嫌そうな看護師にカギの束を渡すと、外に出てカギを閉めた。
――ガチャンと……本当に鍵がガチャンと言う音をたてて締まるのを聞いたのは、それが人生で初めてで最後で……。俺は、オートロックで隔離された、『普通ではない』部屋に入ったのに気づいた。そして……」
カンノは、ここで一度口篭ったと言う。自分が言う言葉が差別的に聞こえないか、心の中で一度唱えているのように見えたそうだ。
「……ベルがなった。手で振るハンドベルだ……音のなる方を見て見ると、むすっとした顔をした看護師が、古く汚れた青銅色のベルを振っている姿が見えた。
それは食事の合図のようだった。看護師の前に腰高くらいのワゴンが運ばれていて、その上にはおにぎりとか手でつまめるような食べ物が乗せられていた。ベルの合図で患者達が集まってきた。うつろな表情をしているもの、ぎらぎらとした目をしているもの、その姿は様々だったけど、俺や看護師の姿などは目に入らないかのように、患者たちは食べ物に向かって群がって行った。――どこからか動物の声のような叫び声が聞こえてきた。ベランダでじっと空を見ていたおばさんが、俺の方を見て笑った。つま先立ちで歩くおじさんが俺に軽くぶつかりながら通り過ぎていった。『なみあみだぶつ、なみあみだぶつ』と聞こえる声に振り返ってみれば俺に向かって手を合わせているおばあさんがいた。その後ろから、猫背で、小走りでやってきた、物言わぬ一群が最初に食べ物に到達すると、競うようにワゴンの上に手を伸ばした。『大丈夫ですよ。急がなくても良いですよ』と看護師が叫ぶように言うが、両手に掴めるだけ掴んだおじさんから、看護師が取り上げた手のおにぎりにそのままおばさんがかぶりつく……」
そんな、確かに普通ではない病院の中の話を聞いて、
「その中にマイがいたの?」
サキは不安そうに言ったそうだ。
しかし、
「いや、違う」
「じゃあ、看護師としてマイが現れたとか?」
「いや、それも違う、彼女は……」
言いにくそうに、言葉を濁らせるカンノ。
「続けて」
サキは、少し緊張した面持ちで会話を続けることを要求する。
「ああ、じゃあ続けるよ。……」カンノは、こんなことを話し始めてしまったことを後悔するような、気乗りしない表情で話を続けたそうだ。「ワゴンの上の食べ物は、少しこぜりあいがありながらも瞬く間になくなって、そうすると、集まっていた患者たちもまた、——瞬く間に散っていった。すると、『電気屋さん……』少々呆気にとられていた俺は、別の看護師に声をかけられ振り向いた。そこにいたのはカギの束を受け取った、歳をとった看護師だった。彼女は、俺が立ち止まってぐずぐずしているからか、少し苛立っているような口調で言った。『配電盤はこの奥ですので……』俺は、我に帰り、自分の仕事を思い出した。そうださっさと修理をすましてしまおう。そう思い、俺が着いて来るか確認もせずに振り返り歩き出した看護師に着いて、病棟のさらに奥に歩き始めた。
途中の廊下で、遠い目をして、何事かぶつぶつとつぶやいている男とすれ違った。叫び声を上げている病室の前を通り過ぎた。俺が通り過ぎる瞬間その声はさらに大きく、犬の遠吠のようだった。俺がその様子に少しビビっているのに気づいて、『もうちょっとですよ』と今度は優しい顔で看護師が言った。
彼女が示す指の先は廊下の突き当たりの窓の横、開いた窓から吹き込む風に、レースのカーテンが揺れる横の、クリーム色の箱だった。まだその窓までは少し距離があったが、そこから風が吹いてくるのが俺の頬にも感じられた。その吹いてくる風の匂い。――いや匂いと言うより感触。俺は、その懐かしい感触が何なのか、咄嗟には思い出せなかったけど、その鮮烈なイメージに、——はっとした俺が目の前を凝視すると、その窓の前には、カーテン越しの柔らかい光に照らされた、いるかいないか気づかないくらい……、存在感というか、生気が抜けたような、——か細い少女がいた。
いや、それは、少女ではなかった。良く見るとその顔は疲れきった老婆のようにも見えた。もう一度見るとまた少女に、さらにもう一度見ると老婆に。俺はその女の横に着くと、彼女の顔をじっと見た。知っている誰かに似ているように思えたのだが、まだ思い出すことができなかった。俺と目があうと、彼女はにっこりと笑うと『カンノくん』と言った。その瞬間その顔は俺の知っている彼女の顔となった。『マイ』と俺は言った。
彼女は何も答えなかった。俺を睨むように見ていた。そして、また少女の顔になり、そのすぐ後に老婆の顔になった。それにびっくりして、俺が思わず顔を背けると、『電気屋さん』俺のひどく焦ったような顔を見て、不思議そうな表情の看護師と目があった。『配電板はここですから』と彼女は言った。
俺は、看護師から鍵を渡されながらも、あわてて振り返り、マイがいたはずの場所を見たしかし、そこにはもう誰もいなかった。俺は鍵をもったまま、ただ呆然とそこに立ちすくんだ。『電気屋さん』看護師が言った。『どうかしましたか』俺は、まだ呆然としながらも、無意識のうち、首を横に振る。すると、『ああ、それなら。では修理お願いします。あっ、……あと、すみませんが、——私にもどれがこの配電盤の鍵なのか分からないんですよ』俺は、手に持った鍵の束を眺めながら、『いえ、試してみます』と言った……」
*
カンノの話しはそこまで。――彼はその後、配電盤の修理を終えると、忙しそうな病棟の看護師たちに、よそ者にいつまでも構ってる暇はないとばかりに、さっさとその病棟を追い出され、マイに見えた女の姿をもう一度確認できないまま会社に帰ることになったと言う。
「それで、私はカンノくんに、——話を全部聞いた後に、本当にそれはマイだったかともう一度聞いてみたわ」とサキは、カンノから聞いた話しを終えると言う。
「それで?」
「『正直良くは分らない』と……」サキは、首をかしげながら言う。
「じゃあそのカンノの見た女がマイかどうかは本当は分らない?」
「いや本当よ。確かめたのは後で別の手段でだけど、私の直感もその時この話はマイに違いないと伝えていたわ。……でも」
「でも?」
「カンノくんに私は『この話はあまりしない方が良い』と言ったわ。——だいたい、まず、カンノくんは、マイが死んだ、……ということになっているのを知らなかったから、それを話すところからだけど、——それを聞いてカンノくんちょっと驚いていたわ」
「確かに、最後の方は、あいつ、僕らとあんまり接点なかったからね、——誰も教えてなくてもおかしくはない。で、……死んだと聞かされたカンノは、自分が見たのは幽霊かなんかだと思った?」
「まずはそう言う反応をして……でも、もし。『そこにいるのが本当の生きているマイだったら? なぜ彼女は死んだことになっているのだろう?』って私が言ったら、……すぐに、カンノくんははっとした顔になって、——分ってくれたわ。『特にヒラヤマとか口の軽い奴には言わない方が良い』って」
「ああ確かにその方が良い……、ヒラヤマに限らずに、こんなことは気軽に、言いふらしちゃまずいことだと思う。でも……、カンノも、——本当にマイだったかさえ半信半疑のような状態ならば、他の誰にも聞かずに、君はどうやって、病院にいたのがが本当にマイなことを確かめたんだ?」
「ああ、それはとても単純なことよ」サキは頷きながら、自分の行動を、——その正しさを信じきれないのか、やたらと慎重な口調で言った。「……マイの母親に直接聞いてみたのよ。私のことは、なんだかんだで、信用していたし……」
ああ、なるほど、
「女同士だし、君は地元で誰でも知ってるような良い家の娘だしね」
僕が、マイの母親に聞いても、たぶん何も答えてはもらえなかっただろう。
しかし、サキであれば、むしろ、
「まあ、それはどうでも良いことだけど、今回は、それが役に立って。それに……」
母親は、それを話せる相手をやっと見つけたと言うことなのかもしれない。
つまり、
「私がカンノくんからマイのことを聞いた頃は、もう彼女は病院から出ていて、——外にいる所を他に見ている人もいたので、……私には変に隠すよりも、言っておいた方が良いような気になっていたみたい」と言うことなのであった。サキは、さらに話を続けた。
「……私は、そのまま、マイの母親から話を聞いたわ。一度話し始めてしまえば、――隠していたことへの罪の意識もあったのか、――そのつっかえが取れたことで、マイの母親は奔流のようにいろいろなことを話し始めた。それは懺悔のようでもあり、告発のようでもあり……」
「告発? 誰を?」
「それは自分自身のようでもあり、マイのようでもありでも強いて言うならば……」サキは、一瞬口ごもり、苦しそうな表情を浮かべるが、——しかし、すぐに、決心したような表情で言う。「時代かしら」
「時代?」
「私らの過ごしたあの時代よ。彼女は、あの時代のことを次から次へと悔やむように話を続けた。病気の話だけでなく、育て方や果ては経済の話。母親は、泣き出してしまっていたわ。そのほとんどは私には全く関係のない話だし、彼女も、私を告発しているつもりはないのでしょうけど、私はその言葉を聞き流すことはできなかった。なぜならそれは、私達の時代だから」
僕は、サキの言葉に、黙って頷いた。
——サキは決心して言ったのだった。時代が母親に告発されているのならば、その責任が、その時を生きたものとして自らにあり、それを自分は受け止めなければならないと。ならば僕もそれに頷くしかなかった。
あの時代。落ちていく日本の無重力が作り出す浮遊感を楽しみながら、日々を過ごしたあの若き日々。それは自分にとって、何物にも代えがたい、かけがえのない日々であるのだが、それは、別に天国でもなければ地獄でもない。
あの時代は、人間の長く滑稽な歴史の中で何度も繰り返されてきた、この浮き世の騒がしき一幕に過ぎないのかもしれない。あの時代は、僕にとっていくら特別に見えるのだとしても、あえて特筆するべきものでも、それを告発しなくてはいけないものではないかもしれない。……
しかし、——僕は思った。
あの時代に生きた僕らは、——僕らなりの取るべき責任があの時代に対してあるのではないか。僕らは——僕は——それを果たさなければならないのではないか、と。
少なくとも。
「……最後に、マイの母親は涙声で語っていたわ。彼女に会いに行ってやってもらえませんかって。それで、私は教えてもらった場所に先週会いに行った」
目の前には、今、果たすべきことがあり、
「そして僕に電話をかけて来たの?」
サキはそれを僕に教えてくれたのだった。
「そう、今のマイを見て、あなたはにここに来なければならない、私はそう思ったので、あなたがまだかろうじて連絡を取り合ってたヒラヤマくんに番号を聞いて、そのまますぐに電話をかけたのよ」
僕が、東京のアパートで、昼過ぎまで寝ていた先週末に取った、サキからの電話の内容は極々簡潔な物だった。
——マイは生きている、すぐさまユウは戻ってこないと行けない、詳しいことはこっちに来たら話す。そう言って告げられたのは、次の日曜の集合時間と待ち合わせ場所だけ。
「それだけでユウはやってくるのは分かっていたし、それ以上複雑な話をしたら、……話し過ぎてしまったら、余計なことを話し過ぎてしまって二人とも感情が抑えきれなくなってしまったら、――何もかもが台無しになるかもしれない。そんな風に思ったの。……へんな風に力が入って、私達が二人ともやるべきことが、向き合うべきものが見えなくなるのではないかと思ったの。――そうは思わない?」
サキは電話の内容のそっけない理由を語る。
僕は同意の頷きをして言う。
「……思う、いやサキの判断を、――僕は疑わないよ。……きっとそれが一番良かったんだと思うよ」
すると、
「そうありがと。――でもこうやって面と向かってもあなたにちゃんと状況を伝えられる自信はないわ。……やはりマイに会うしかないのだと思うけど、……相手の家族の手前、ユウには最低限の予備知識はつけておきたいの、びっくりして相手に驚かれたりしたり、構えられたりしたら、ユウは向き合えなくなるかもしれない」
サキの言った言葉の中に紛れ込んでいた単語に僕は反応する。
「家族?」
「そう――まず予備知識の一つ目は、彼女は結婚した。今愛する人がいるわ」
僕はゆっくりと頷いた。
「……あまりびっくりしないわね」
「そりゃ君が結婚するくらいだからね」
サキはぴくりと眉を上げて、
「そりゃよかったわね」と言う。「本来ならその軽口を叩いたことをすぐに後悔させてやるとこだけど……ぶしつけな発言は今日だけは勘弁してやるわ、何しろ今日はあなたが主役なんだから、心をなるべく落ち着かせといてあげる」
「そりゃどうも」と少し冷たい感じのサキの口調に少し背筋をさむくしながら僕。
「なので、特に追求は無しで、……次の予備知識は、マイの状態だけど……あまり良くはないわ」
僕の顔色はすぐに暗くなり、サキはすぐにそれに気づく。
「……命に別状があるとかじゃないのよ、それは安心して。……でも」
「でも?」
「たぶん私達が誰なのか分からないくらい彼女の心は……いえ分からなかったのは私だけで、ユウなら……私があなたを呼ぶ気になったのはそういうことなのだけど、ともかく……」
「良くはないか」
「そう、かなり」
「なら、それ以上悪くなることもないだろ。――そんなことに会う前から悩んでてもしょうがない、実際に会ったら、僕と気づかないマイにやっぱりショックを受けるかもしれないが、……でも今それをくどくど考えていてもしょうがないだろ」
僕の言葉に、サキははっとしたような表情になり、
「あら?」と言う。
「『あら?』って何?」
「会わない十年でずいぶんポジティブな考え方ができるようになったのね、感心したわ」
「そりゃだらだらした人生なりにいろいろ経験もするさ。サキも結婚……」
僕の言葉を、睨みつけて途切れさせてから、サキはぐっと顔を僕の胸の辺りに近づけて、
「でも女の匂いはしないようね……そう言う経験ではないようで」と言った。
「あのね、さっきまでバイクでしがみついていたサキの匂いがついてると思うけど、そういうのは女の匂いでないんだ」
――と言ってしまった後、怒るかと思って身構えた僕に、サキは悪戯っぽく笑い、そのまま胸に額をつけると、
「それじゃ女の匂いにして欲しいんだけど」と。
「はあ?」
「言わせないでよ……抱きしめて」
僕が躊躇していると、サキは逆に僕を強く抱きしめてくる。そのまま数秒間たって、僕もいつのまにか彼女を抱きしめていた。
おそるおそる回した僕の手は次第に本気で力がこもっていった。僕の胸に顔をつけたままのサキをじっと見つめ、動くことができず、そのまま時間が止まったかのような数分間が過ぎた。
しかしいつの間にか聞こえて来たサキの声が泣き声と分かり、不安になっていると、……それはいつのまにか笑い声となり、僕が訝しげに眉をしかめた頃、サキは顔を上げる。
僕は思わず抱きしめていた手を離す。
すると彼女は僕の首に肩を回し、僕をぐっとひきつけて、――あやうく唇が触れそうな程、僕の顔に近づいて、——しかし、ぎりぎりに避けると、そのままほっぺたを僕のほっぺたにくっつけて、
「おしまい」と言うのだった。
そして、すました顔になったサキは、僕から離れると、立ち上がり、
「この辺が、我が家のコンプライアンスの限界なのかな……いや少し越えちゃったかな」と言いながら、楽しそうに笑う。
僕もつられて笑いながら立ちあがり、
「それじゃ行くか」と言う。
すると、
「ええ……それで最後にもう一つ予備知識だけど」とサキがさらに言い、
「何」と僕。
「いろいろあったようだけど、マイは今は幸せよ、それは心配しなくてもよい」
「ああ……」僕は言った。「それが聞ければ十分だ」
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