12
僕は、この街を去ってから十数年も経った後、またクラブSの前に立っていた。いや、正確にはクラブSの跡であった。
クラブSのクローズの後に、その同じ場所に入ったと聞くイタメシ屋も潰れ、今は空き家となったいるその入り口の前であった。
僕は、昔、誰に言われたのか忘れてしまった助言に従って、――せめてもの笑顔で、その場に立っていた。
あの頃の自分から見たら、きっちりと十数年の歳を取って、だいぶくたびれた様子だったろう僕は、目的の建物の前の、人気のない夜の細い通りを、少し怖々と、ゆっくりと見回していた。
そこは、Sがもうない他は、恐ろしいほど、何も変わっていないように見えた。風景は当時のそのままで、変わったのは僕だけのように思えた。
これは、間違い探しの問題だなと僕は思った。二枚の同じような絵を比較して、人物が持っている花の色が、片方がピンクで、片方が黄色だとか、子供のクイズによくあるような、――たぶん違うところはいろいろあるのだろうが、ぱっとは思いつかない過去と今の違いだった。
絶対に昔は無かっただろうと思うもの、例えば、近くの電柱にくくり付けられている少し錆の浮いた自転車でさえ、なんとなく、昔からそこにあるような気がしてしまった。
周りの店もそのままだった。向かいのコンビにも、パーティの終わった後に友達とだべった、近くのファミレスも、そのままそこにあった。
ピカピカと光る看板や、ガラス越しに見える真新しそうな内装は、当時のものをそのまま使っているとは思えなかったけれど、その歴史の無さも含めて、それこそが、当時のままであった。
まったく、不思議なほど変わっていなかった。新たな店が次から次へと入れ替わる繁華街でもなく、開発の進む郊外でもなく、とっくに開発の終わったマンション街と繁華街の間の、微妙な場所にSはあったから、ここは変わらないんだろうと僕は論理的に考えることもできたが、それだけでなく、何か時間を止める魔術がここで働いているのではないか、と思うほどここは当時の雰囲気そのままだった。
僕は深呼吸をした。その空気も、匂いも、やはり、変わっていないように思えた。耳を済ますと、扉から、バスドラムの音が漏れて来ているように思えた。当時のまま、その扉を開くと、果てしない熱狂が始まるのだと思えた。
誰か友達が中から出てきて、タバコの火でもつけながら、僕を見つけて「あれ、久しぶり」とでも言って来そうな。
僕は扉に向かって近づき、思わずそれを開けそうになった。
――しかしそのドアにはノブが無かった。
クラブSのドアを開くはずのノブ、金色の、天使をかたどったドアのノブがない。
ノブのないドアは開く訳は無かった。しかし、僕は、一歩踏み出して、扉に不自然なほど近づいた、その位置のまま、伸ばしかけた手をどこにやることも出来ずに、固まりながら、ただ立ちつくしていた。
僕はため息をついた。太陽がまぶしかった。東京に比べれば涼しい北の街の夏とは言え、夏の盛りの太陽は、まだ午前も早い時間だが、それなりにきつく僕の顔を照らす。
ならば、
「いい加減暑くなってきたし、もう出発しようか」
振り返り、サキに向かって頷く僕であった。
今日の始発の新幹線で北上してこの街に着いた僕は、既にこの場所に到着していたサキに二言三言挨拶をすると、じっと開かない扉を見つめてしまっていたのだが、
「うん。そろそろ行こうか」
自分を後ろからじりじりと照らす朝日の鋭さに、サキに同意をするのだった。
サキの前にはには白いバイクが止めてあった。
それを見て僕は言う。
「僕の乗ってたバイクだね」
「電話で言っておいたでしょ。私が買っておいたって」
僕の方を振り返らずにサキは言う。もしかして少し恥ずかしがっているのかな、とその口調から僕は推察するが、こちらに向き直った時の彼女はそんな表情はおくびにも出さず、
「あなたがこの街を離れる時にバイクを売った店をたまたま通りかかったらこれが置いてあったから、さすがユウが乗っただけあって安い値段がついていたので買ったのよ。言ったでしょ……」
「サキはバイク乗れたっけ」
「今は乗れるわ。それで問題ないでしょ」
「そうかな……」
僕は、少し目が怒った、と言うか問い詰められて困ったのを怒ったふりでごまかそうとしてる様子になりかけているサキを見て、言葉を止める。
なんとも、強気だが、可愛らしい様子の彼女だった。
ああ、彼女は、変わってないな、僕はそれを確認して、嬉しくなる。
サキが会話を続ける。
「それでどうするの。私が運転してユウを後ろに乗せるのでも良いけど」
「いやさすがにそれはかっこ悪いよ。免許証は持って来たから、僕が運転するよ」
サキは少し不安そうな顔。
「大丈夫? バイク運転するなんて久しぶりじゃないの」
「そうだけど、大丈夫だと思うよ、こういうのは身体が覚えているもんだから」
「そうならいいけど、だめそうなら言ってね。いつでも変わるから、それに……」
「それに?」
なんだか不穏な表情のサキ。
「気にすることはないわよ。恥ずかしくはないわよ。生理現象なんだから」
「何が」
「後ろから私に抱きついて勃起ちゃっても気づかないふりしてあげるわ」
「ばか……何を言って……」
僕が反応に困ったたような顔になるのを見て、サキは悪戯っぽい表情になりながら、
「なに、ずいぶんあせっちゃって、冗談よ」と言う。
「冗談でももう少しこっちが反応できるようなものにしてくれ」と僕。
「あら、おばさんの下品な話にどぎまぎするような歳でもないでしょ、あなたも」
「そりゃ君と同じ歳だからな」
「あら、女の歳をそんな簡単に指摘するとはずいぶん失礼な人ね」
言葉につまり、じゃあどうしろと言うんだ、と言うような顔になった僕を見て、サキは笑う。つられて僕も愛想笑いをする。
そして、
「ともかく、じゃあ、出発しましょう」
僕は渡されたヘルメットをかぶり、次に手渡された鍵を、十年以上がたっても忘れない、何遍も繰り返し身体がまだ覚えている手慣れた動作で差し込むと、――もう足が自然に上がっていた。
僕は、最小限の身体の動きでシートにまたがり、セルを回す。少し頼り無さげにエンジンがかかり、止まりかけるところを、かぶらないように少しだけアクセルをひねると、小気味良いエンジンの音。
――前と同じだった。
こんな時間がたっても変わらないその感覚。
いっきに時間が巻き戻される、心はあの頃に引き戻される、
「タイムマシンのようだね」と僕は言った。
「このバイクがと言いたいの」とヘルメットをかぶりながらサキ。
「そうだね。いっきに自分が若返ったような気がしてしまったよ」
「まあでも、今日はそうなんじゃない、そこから走り出さないと行けないのよ、私達は」
「そこからって何処からだい」
「ここから、それは」僕の後に乗り、ヘルメットをかぶりながらサキが言う。「十年以上前のあの頃からよユウ。――私達はそこから走り出さないといけないの」
僕は頷き、そしてバイクをスタートさせた。久々に乗ったバイクに、うっかりアクセルをひねり過ぎて、ウィリーしそうな程に急加速をしてしまうが、するとすかさず、サキはしっかりと僕にしがみついてきた。
それに気づいて、僕はあわててアクセルを戻し、昔のカンを取り戻すまではと、ゆっくりと走らせ始めるが、――サキはずっと強く抱きついたままだった。
海に向かう直線道路、僕らは、スピードの中、一つになり、休日の午前のまだ車の少ない街中を、駆け抜けた。
陳腐な表現しか思い浮かばなかったが、僕らは風のようだなと思った。
午前の太陽に照らされた街の中でリアルなその表情を見せているビルの間。いつも夜に活動した僕らの記憶よりも、ビルの壁は、汚れ、崩れ、干からびていたが、それらは老いるがゆえに本物に思えた。
雨の茶色い筋、表面のモルタルが崩れ、石の出ている角。
――を駆け抜ける風。
思い出の中の街は、もっと非現実的で、幻想的であった。
だが、今、本物の中を駆け抜ける、僕らは本物であった。本物として、本物に会うために朝の街を走り出したのだった。
そして、しばらくそのままビルの間を走り、周りが臨海の工場地帯になったあたりで、サキが言う。
「思い出す?」
国道と交差する、大きな交差点で止まった時、中腰になって、顔を僕の前に突き出しながら彼女は、僕に話し掛けてきたのだった。
僕は問い返した。
「何を?」
「この道、パーティが終わったあとに皆で海に行ったこと。あの時もこうやってユウの後ろに乗った」
僕は頷いた。その日、皆で笑いながら海に向かった日のことを僕は思い出した。
サキは親が出張で使っているとかで車には乗ってこなくて、なので僕のバイクに乗ることになったのは、――この同じ道。
確か徹夜の一夜漬けで学校の試験を受けた後にそのままSに来て、また徹夜で、眠気にふらふらになりながら海に行き、その後はみんなでぼうっとして過ごした日のことだった。
僕は海に着くなり寝てしまって記憶のその後は曖昧なのだが、――ぼんやりと覚えているのは、薄目越しに見た青空。梅雨の晴れ間のよい天気で、寝ている僕を覗き込む笑顔。
波の音。風の音。
何もせずとも楽しかったあの頃。
流れる時間。――あの日。あの時。
確かにみんなそこにいた。僕らはその瞬間を過ごした。
あの頃の思い出。それは信号が変わって走り出すと僕の後ろに、長く、長く、棚引いている。
遠くから風が運ぶ。思い出の匂い。潮風。その中を抜けながら、いつのまにか市街を抜け、港へ向かう広い道路へ出て、バイクのスピードがさらに上がる。
目の前には、倉庫や工場、草がぼうぼうの空き地なんかが続く、殺風景な風景の中を、僕らは前よりも早く駆け抜ける。
心がついてくるよりも素早く、思い出を探して、スピードが上がり、道路のでこぼこの度、僕の身体は揺られ、シートの上を滑り、次第にサキに身体に近づいてゆく。
海から風が来る。それが彼女の首筋を撫で、匂いを、感情を運ぶ。
風が吹く。炎天下に皮のジャケットを羽織り、汗を掻いている彼女の匂いに、香水の甘い匂いが、良い皮の匂いと混じり、風が僕の中を通り抜ける。
サキの胸の鼓動が、僕の背中に伝わる。彼女の息をする振動が、バイクの振動と合わさって僕の心も揺らす。光、カーブミラーに反射した光が目に入り、僕は目をつぶった。その瞬間、かつてのクラブSで笑うみんなの顔が思い浮かんだ。
サキ、マイ、ヒラヤマはDJブースの中で腕を組んで難しげな顔をしているが、口の端が、笑う。
笑い、笑い、笑い顔。
満面の笑顔のダンサー達の中で僕は手を上げて踊っている。
ドラムブレイクが始まる、僕はその絶頂の瞬間を思い出す。
風と、思い出と一緒に走る。今、僕は、その中に、十年以上を、この瞬間から今まで。
……まったく、ずいぶんと時が経った。
僕らは歳をとった。みんな離れ離れになり、殆どの奴は今どこに行ったかも分らない奴も多く、――でも僕は今サキと一緒にいた。
不思議だった。こうしてみるとなぜ今まで離れていたのか。僕の背中にぴったりとくっついた、彼女の息を、鼓動を僕は感じていた。
僕らは離れていない。今、それなら僕らを包んでいるこの世界ももう僕から離れていない。
そうだ僕は、僕だけでない。今。僕は僕以外の世界があることを感じる。
港が見えてきた。そこには大勢の人と物が出入りしているフェリーがとまっているのが見えた。沖には、ゆっくりと動く漁船や、観光用の派手な船がいるのが見えた。
海が光っていた。青かった。晴れた空と海との境目が分からなくなるような、両方とも区別がつかないくらいの真っ青だった。
青、一面の青だ。その中に僕の心は飛び込み、強い光の中の中に包まれて、瞬く間に、港を通り過ぎた。
目の前には、信号のないまっすぐな海際の道が続く。
「これから飛ばすよ。しっかりつかまってて」
少し後ろを向きながら僕は言う。
サキはさらに僕を強く掴む。
「ええ、急いで行きましょう」
僕は軽く頷き、バイクのスピードを上げ、光の中に溶け込んで行く――僕らは一つであり、全てであり、光であり、思い出に追いついて見えるのは、光る海。太陽の光の照り返す、――僕は思わず目をつむり、その瞬間、僕は全てを理解し、高揚した気持ちで目をあけて……。
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