11
声に言われて振り返り見た、長い砂浜のあちらこちらから、雲の隙間より漏れる太陽の光に濡れた砂が温められて、陽炎が立ち始めていた。
それは幻想的な光景だった。世界は歪み、ゆらゆらと揺れた。それはとても美しく、しかし不安定にな様子に見えた。輪郭のはっきりとしないこの目の前の世界は、そのまま何物にでも変わって行くように思えた。
——すると、
「その通り」と声。
砂浜に湧き上がったその幻影は、たちまち街に姿を変えて行くのだった。
陽炎の中、街が何個にも分かれている姿が、今、僕の目の前に現れていた。
それは、まるで、ひどくピントのぼけた写真のようであった。街は、何重にも重なった像となり、どれが本物か分からなかった。――幻影に本物があるとするならばだが。
今、ここでは、僕の目の前では、何もかもがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。時間も空間も、過去も未来も、宇宙の果ても心の中も、嘘も真も。すべての物が、全ての可能性がそこに渦巻いていた。
僕は、朝近く、まだ薄暗い空に、ブラックホールの蒸発を見ながら、なかなかやってこない始発バスを待っている。
雪の降るその駅前のターミナルを、季節外れのへそだしの、ピッチリとしたTシャツ姿の女の子達が歩き去ると、吸い掛けのタバコを踏み潰すした徹夜開けのサラリーマンが恐竜に踏み潰される。
その横、真っ赤な噴火の光に照らされながら、バスの待合のベンチでセックスしている中年のカップルは、飛び散るマグマに溶けながら絶頂に達する。
それを見た、アンドロメダ星雲にいる、僕に良く似た男が、浮かない顔でガードレールに座り、次々に落ちてくる、彗星の光に照らされながら、やるべきことが見つからないと、退屈を嘆いていた。
つられて僕の憂鬱もどこまでも広がった。
宇宙の終わりの暗闇の中、冷え切った空間の中、僕は一つの原子になっていた。ちっぽけな弱々しい波になって無の中にポツンと在った。
その、全ての夢の枯れた漆黒の空間は、すべての終わりの様でもあるが、逆に何かの始まりを待っているようでもあった。
そして、僕は、何年も、何万年も、何億年も、何兆年も経った。
しかし、それは同時に刹那のことでもあった。
永遠が空間に詰まった。
無限が瞬間に詰まった。
僕は待ち、望んだ。
そして真空が揺れ、グルーヴが始まった。
光るミラーボール。
熱狂が始まった。
そこはクラブSの中だった。
閉店してから、——開くはずのない扉を開けてその中に入った。
封印された奇跡の場所の中に僕はいた。
「君は待った。そしてそれは在った」
例の声の言う言葉とともに、ドラムロールが始まった。
ブレイク。
僕はすぐさまその中で踊りだした。
在りし日のSのフロアと同じように、そこには何でもあった。
僕はしばしの全能感に心が満たされた。
淀みなく、つながってゆく、止まらないビートの中で僕は踊り続ける。
また、声が聞こえた。
「夢中で踊るのも良いけれど、早くしないと、ここからの出口がしまっちゃうぞ、——もうこれが君の最後のチャンスだ」
僕はそう声に命じられるまま、良く知った後ろ姿の男に続いてドアを開け、クラブSの外に出た。
すると、そこには、仲間達がだべっていた。
サキもマイも、DJの終わったヒラヤマもいた。
そこはまだクラブSがあった過去、――僕の学生時代のある日のようだった。
ヒラヤマは僕に話しかけてきた。
「どうだった今日のパーティ」
「良かったよ」と僕。
ヒラヤマは自慢そうな表情で頷きながら、
「今日の客は良かった」と言う。
「最高の盛り上がりだったよ」と僕も言う。
「こんな日がずっと続けば良いのにね」と横から会話に入ってきてマイ。
サキはその横で何も言わずにうなずく。
「でももう終わりだね」とまたマイ。
終わりと言う言葉に、僕はどきりとする。
――でも終わりなのは今日のパーティ。僕らの夏はまだ続いていた。
しかし、Sから漏れていたベースの音が止み、楽しそうに話す人の声が聞こえ、ドアが開き帰る人々が中から現れる。
ヒラヤマは出てくる人に挨拶をするために入り口に駆けつけ、マイは店員達に挨拶するためにかもう一度Sの中に。
その祭りの余韻に浸る入り口を幸せな気分で見つめていた僕へ、
「おい、ユウ」と言うサキの言葉に振り返る。
少し怒ったような、少し悲しそうな目をしながら彼女は言った。
「今日は送って行ってあげるわ」
「送るって、今日つれてきた新しい友達はどうした」
「あれは、……期待はずれだった」
さてさてこういうときに男はどういう表情をしたら良いのかと、迷い、僕は、少し神妙な表情をしながら、
「それなら、みんなでどっか行こうか……海とか」と言う。
すると、
「お前は相変わらずだな」とサキ。
「何が」
「その察しの悪いところが次々に女の子を紹介してもすぐに別れてしまう原因、と思うけど……」
「僕が……」
「でも、こんな夜にはそういう人と帰るのが疲れなくてよさそうね。――マイもヒラヤマくんも、今日は、この後、東京から来たゲストDJと打ち上げよ。海に行きたいならそっち周りで送ってあげるわ」
「いや海に特に行きたいわけでは……」
「じゃあ山ね……分かったわ、行くわよ」
サキに腕を引っ張られ、僕は、クラブ脇の路地に路上駐車していた、真新しいベンツに乗る。
「また車変わった?」と助手席に腰掛けながら僕。
サキは肯きながら言う。
「どっちにせよ勝手に乗ってきた親の車よ。父親だって会社の必要経費の社用車を見栄で新しくしてるだけで、大した話じゃないわ」
「この不景気にうらやましいことで」
「でも、何時どうなるか分からないって親は言ってるけどね」
「少なくとも今はうまくやっているだけすごいじゃない」
「でも、何時まで続くかしら」
「大丈夫じゃないの。サキんとこは老舗の建設会社だし」
「老舗だと言うだけで安心な商売なんてもうないのよ、……はパパのこの頃の口癖だけど」
僕は無言で、否定するような、肯定するような、あいまいな動作で首を動かす。
すると、
「……まあそれはなるようにしかならないけど、それより心配なのは」とサキが言い、
「心配なのは?」とオウム返しに僕。
「こんな車に乗るような生活を続けたい訳じゃなく、言うなれば」とエンジンを掛けながらサキが言う。「この夏が何時まで続くのだろうかということよ」
「そりゃ夏はもう一ヶ月もたてば終わるよ……と言う意味ではないよね」
「君にしては察しが良いようで」
車はゆっくりと走り出した。
ちょうどSの中から出てきたマイとヒラヤマが手を振っていた。
路地を抜け、ポツリポツリとビルの窓に電気の点いたオフィス街を抜け、車は、朝のまぶしい光りの中、弱弱しく光る繁華街のネオンの中を抜ける。
そして郊外へ続く幹線道路に入ると、そのまま丘の上の住宅街へ。
僕らは、住宅街の外れ、市街を見下ろす公園の脇で、何も話さずに朝焼けの街を眺めていた。
無数の窓が赤く染まる。無数の生活を照らすその光りは、フロントガラス越しに、同じように僕らを照らす。
僕らは、しばらく何も話さずに美しい赤い街を眺めていた。一度会話を止めたら、もう一度話し始めるタイミングがつかめなくなってしまったのだった。
しかし、話しはしなくても、二人とも相手の言いたいことは分っていた。言わなければ分っている、言葉にすると嘘になるその感情を、沈黙により守ろうとしていたのかもしれない。
これはこれで幸せな状態だった。もしこれが永遠に続くなら、これも悪くないのだが。……
――しかし沈黙に耐え切れずサキが言う。
「私達っていつもタイミング悪いわよね」
僕は答えて言った。
「ああ、そうだな」
「今日も愛とか語るタイミングじゃないわよ。情けない男一人振ってきた後ではね」
「僕が告白もしてないのに、先にごめんなさいか」
「私のこと嫌い?」
「そうは言ってない」
「じゃあ好きね……でもごめんなさい」と言いながら舌を出すサキ。
「そう言ってないって」
僕の少し困ったような口調に、サキは悪戯っぽい笑いを浮かべながら言う。
「もうからかうのやめるわ……そろそろ帰ろうか」
僕は肯きながら、
「いつか……何もかもがうまくタイミングが合えば良いね」と言った。
「ええ」とサキは車をまた動かし始めながら言った。
開けた窓から、夏の夜の心地よい風が入ってくる。見下ろす街の上には明るい太陽の輝く、光の満ちる朝。
僕は、その後、サキに送ってもらってアパートに戻り、満たされたような、何か足りないような、微妙な感覚を楽しみながら眠りに落ちた。
徹夜で踊り通して疲れきった身体は、あっという間に眠りに落ちた。深く、重く、どこまでも落ちてゆくかのような眠りだった。
深く、深く、長い眠りだった。
ひたすらに眠る、僕は、何時終わるのか、始まりさえ忘れてしまうような、永い眠りの中に入り、――そしてそのまま十数年が経ち、同じような夏の朝。
僕は、今住んでいる、都区内のアパートに目覚ましのように鳴った携帯電話を寝ぼけ眼で取り、——しゃべるのは眠る前と同じ相手。
サキであった。
そして、
「マイは生きているわ。だから、ユウ、あなたはこの街にまたこなきゃいけないの」
彼女は、その衝撃的な事実を、感情を無理やり押し殺したかのような淡々とした口調で、——言ったのだった。
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