10
マイが死んだと聞いたのは、そんな話には似つかわしくない、さわやかな十月の良く晴れた休日のことであった。
それは、関東に戻って二年以上が過ぎ、いつの間にか、あの街のことはまるで夢か何かみたいに思えるようになってきた頃のことであった。
その時、当時実家に住んでいた僕は、二階の自分の部屋で、カーテン越しの柔らかな陽の光を浴びながら気分良く畳の上にごろ寝していたのだったが、「電話よ」と階下より母親が呼ぶ声がする。僕は、その、少し焦ったような様子を、なんだか不審に感じながらも、昼寝からいきなり起こされて寝ぼけた様子のまま、めんどくさげに重い腰をあげると、ゆっくりと階段を降りて、玄関にある電話機のところまで行くのだった。
すると、母親は、
「誰かが死んだらしい」と僕に受話器を渡す時に言う。
「えっ」と僕は言いながら、少し緊張し、妙な予感に捕われながら受話器を受け取る。
電話先の声はヒラヤマだった。そして、彼から出て来た名前は、
「マイが死んだ。ユウもう聞いてたか」
僕はびっくりして一瞬声を詰まらせながらも言った。
「なんで」
「分からない」
電話をかけて来たヒラヤマも知ってるのはそれだけだったようだ。
実はマイはこの一年くらい、体の調子が悪いとかで、あまり仲間内に姿を見せなくなっていた。僕は、そのことを、この時のヒラヤマの話で初めて知ったのだが、――でも二ヶ月前にはとても元気そうな姿で彼のやった野外パーティーに現れたと彼は続けて言う。
まだ調子は悪そうだったがいくらなんでも死んでしまうような様子には見えなかったと。
「なにか病気だったのか」
僕はマイがSのフロアで倒れた時のことを思い出しながら言った。
「分からない……と言うかそれはユウが知ってるかもとか思ってたけど」
「知らないよ」
僕はそう答えた。マイが倒れ、僕に抱きついた時のことを頭に浮かべながら、——少し嘘をついた。僕は、マイが何か健康に問題を抱えていたのは知っていた。
しかし、とは言っても、
「おまえの方が知ってるかと思ってたんだけど」
「いや、最後に話したのは……」
それ以上何かを知っているわけでもない僕は、その後、何か言い出そうとして喉の奥に言葉がひっかかり。うめき声のような音を出す。……
すると、電話の向こうのヒラヤマは、何も言わずに僕の言葉を待ち、やっとのことで、
「……いやなんでもない」と言った僕の言葉に対して、
「なあユウ。ショックだよな」と 優しい声で言うのだった。
僕は、その声に、喉のつかえがとれたように、
「ああ」
「――まずは深呼吸しろ」
僕は、言われた通りに息を吸い込み、吐き終わる。
すると、
「落ち着いたか」
「ああ」
少し冷静になった僕に、
「よし。じゃあ話を続けよう、 なんか言いたいことはないか」
そうヒラヤマが問いかけてくるのだが、
「言いたいこと? こんな時に……、いや、そういえば……」
僕は、また声を詰まらせかけながら言う。——その瞬間、僕は思い出したのだった。それは、この突然の知らせの一年くらい前、マイからかかってきた電話のことだった。
*
それは、ある日曜の夕方だった。休日でもわざわざ集まって行われた会社の同期同士の飲み会が終わって、僕がちょうど家に帰ってきた時のことだった。
その日は、家族もみんな外に出かけていて誰もおらず、——電気が消されて真っ暗な玄関に、僕がドアを開けて入ると、そこには、けたたましくも厳かな、電話のベルの音が鳴り響いていたのだった。
僕は、その、まるで、その後に神託でも下りそうな荘厳な様子に、少し怖い感じがして、電話を取ってもよいものかと迷う。しかし、とは言え、——そんな非現実的な妄想もほどほどに、電話は、出かけている親からの帰りの連絡か何かだろうと思いながら、僕は受話器を取るのだった。
だが、電話の相手は家族の誰かでは無かった。
「ユウくん知っている?」
マイであった。名乗りもせず——そんな必要もないけれど——唐突に話し出したマイであった。
「知ってるってなにを?」
「それじゃ知らなさそうね」
「何も思いつかないよ、もしかして、誰か結婚するとか」
「そうサキが」
僕の声が一瞬詰まると、
「嘘よ、びっくりした?」とマイ。
「本当は、私が」
「嘘でしょ」と今度は冷静に僕。
「びっくりしてくれないのね」
「二度もひっかからないよ」
「じゃあサキのは本気で心配したと。メモメモ……」
「で、本題は」
「もう少し……」マイは一瞬口ごもりながら言う「別の話しようか……」
「別の話? 何?」
「楽しかった?」
「楽しかった? それは感想それとも……」
「質問。——楽しかった?」
「何が? それって、今日の僕の行動を報告させたいわけでないよね」
「多少興味はあるけど」
「またサキに言うとかそういうこと」
「なるほど隠したいことしてたと」
「いや……」僕はわざとらしいため息をつきながら言う。「——そうじゃなくて、僕がそっちにいた時のことだろ。楽しくなかったわけはないじゃない」
すると、
「戻りたいと思ってる?」
マイは少し真面目な口調になって続けて言う。
それに、
「もう一度繰り返すことができたらと思うよ。今は……」と僕が答えかけた言葉を、
「——楽しくないの?」マイが遮って言う。
「いや、楽しくないわけではないよ」
「じゃあ、思わせぶりに、言ってみただけ? 会社もちゃんと行ってる」
「まあ、無断欠勤とかはしてないよ。そりゃ、——学生時代に甘く思ってたのとは……。でも、何とかなるよ。なんとかやってるし、もっと良い職場あれば乗り換えるし」
なんだか本題ではなさそうな、近況の報告を続けてさせられる僕。
「そうなの? 仕事ってそんな気軽に乗り換えて良いもんじゃないと思うけど……」
何かを言わなけれなならないのに、なんとなく、それを遠回しにして避けているような、マイの妙な様子だった。とは言え、
「意外と古くさいこと言うんだね、世の中は変わったよマイ。情報テクノロジーは世の中を変えるよ。もう古くさい会社組織なんてこの後意味なくなるんだ。同期でも何人も転職して……」
その話に僕はもうっちょっと付き合うのだが、
「いいわ、それはまあ、私がとやかくいうことじゃないとは思うわ。で、それは置いといてだけど……」
「何?」
「仕事は予想どおりあまりまじめにやってなさそうだとすると、楽しいのはそれ以外? やっぱり、彼女でもできた?」
いつまでも進まなそうなマイの話に、
「マイ、今日の用件は……」
拙速に事を進めようとする僕。
しかし、マイはまだ、それを話あぐねているようで、
「もうちょっと教えて。戻りたいと本当に思う? この街に、Sに」
まだ迂遠な質問を続け、
「思うよ」
僕もそれにしょうがなく付き合うのだった。
しかし、
「でも東京の方が何でもあるんじゃないの。そっちの方がすごいパーティがばんばんやってるし」
「なんでもあることで逆にないものもあるよ」
「そうかな」
「無限に選べるのなら、人間はなんにも本気で選ばないよ。あの時は僕にはあそこしかなかった。そしてそこに皆がいた。それがかけがえのないことだったんだよ」
もう少し会話を続けるうちに、
「そうだね……」
ついにその日の会話の核心に至るのであった。
「——何か良くないことがあったんだね」
「そう」
マイは、一気に暗くなった声で言った。
「なんだい」
僕は、ひどく悪い予感がしながら、電話越しにもわかるマイの落ち込んだ様子に、元気付けようと、なるべく平静を保った様子で言った。
しかし、
「閉まっちゃうのよ」
「どこが」
「Sが……」
僕はその店の名前を聞いた瞬間、思わず息を飲み込むと、
「——Sが……無くなっちゃうってこと」
狼狽を隠せないまま、言葉をつかえさせながらに言うのだった。
すると、
「そうよ」僕のこの動揺を予測して心の準備をしていただろうマイは、暗い口調ながらも、随分と落ち着いた様子で、
「なんで……」と言う僕の質問に、考えられる限りの理由を話してくれるのだった。
あの街にも、クラブがいっぱいできて、東京から有名DJが良く来るようになったり、そんな他の箱にも固定客ができたりで、客の入りが少しずつ悪くなってたこととか。
——この頃の高校生とか大学入り立てくらいの年代には、Sはかえって昔はやったクラブと古くさく思われて思われて避けられてるとか。
そんな理由を他にも何個か。
「でも……」
僕はマイの言葉に反論するように言った。
なるほど、マイの言ったSの無くなる理由は、どれもがありそうな話ではあったが、しかし、そのどれもが、僕には——たぶんマイにも——しっくりと来なかった。確かに、僕があの街にいた最後あたりは、Sの客は少なめになっていたけれど、
「オーナーはまだまだ頑張るよと言っていたじゃないか。やり方を少し工夫すればまだまだ盛り返せるって」と僕はマイを問い詰めるように話す。
しかしいくらマイを糾弾したところ、Sは終わってしまう、その事実が動くはずもなかった。
マイは幼いだだっ子をいなすように興奮した僕の言葉にやさしく相づちをしてなだめようとしているが、僕は、――それでもマイを論破したならばSが終わらないかとでも思ってるように、意味のない反論を続けるのだった。
僕は、この後の人生で、良いものが良いものだと言うだけでは生き残れないことを何度も知ることにはなるのだけれど、――まだまだ若いこの時の自分には、それはただ単に納得がいかないことでしかなく、まるでマイが悪いかのようにさえ聞こえる悪口とも愚痴ともとれるような言葉を、ずっと続けるのだった。
しかし、そのまま十分近くにもわたって、もうへ理屈も考えつかないほどに続けた僕の繰り言のような言葉がついに途切れた時に、まるで何かの判決を下すように厳粛な声で、
「でももう決まったの」とマイは言うのだった。
その有無を言わせないような響きを持ったマイの言葉を聞き、僕は、ついには反論をあきらめて
「終わるのは何時」と言うと、
「一ヶ月後くらいかな」とマイ。
ならば、
「その日そっちに……」
その話を聞いて、じゃあ当然、その日はSに行かなければと僕は思い、言うのだった。
しかし、
「だめだよ」
僕の言葉を遮って、予想外の言葉を放つマイ。
「だめ? 何が」
僕は、マイの言っていることの意味が分からなくて、——何がダメなのか、その真意が分からずに、混乱しながら言う。
だが、その答えは。
「ユウくんはその日に来ちゃだめなの」
「待ってよ、なんだいそりゃ。それじゃあなんで電話かけてきたんだい、僕にその日に来るように言うためじゃないの」
さらに予想外のものなのだった。
「他の人が、ヒラヤマくんとかが、先に電話して来たら、きっと盛り上がってクロージングパーティにこっちに来ちゃう約束しちゃって、――私が来ないほうが良いと言ってももう聞いてもらえないでしょ」
「それはそうかもしれないけど、——なんで行っちゃ駄目なんだ、Sが閉まるなら、僕もその場に、——最後にちゃんといて……」
「そうして最後のパーティにやって来て、そしてユウくんのけじめがついて、すっきりとあなたの青春時代が終わってこの街の思い出も消えて行く。ユウくんとってはその方が良いと思うのだけど……お願いがあるの」
「……お願い?」
僕は、マイが少し泣き声になっているのにこのあたりで、気づいた。
「覚えておいて。この街のことを、Sのことを、みんなで過ごした時間を。そして……」
「……マイ」
いつのまにかマイの方がひどく混乱してる様子に、一気に冷静になる僕であったが、まだ、何をどう話せば良いのか、まだ話の筋がつかめずに、
「——私のことも。そのためには終わりの日にSにいてはいけないの。馬鹿なこと言ってると思えるかもしれないけど」
「落ち着けよマイ」
とりあえずの、相槌のような言葉をかける程度しかできないでいる。
しかし、
「落ち着いているわよ。いろいろ考えたのよ。頼むのはユウくんしかいないの。変なお願いだって分かってる、でもだめなの」
今日「それ」を告げるために僕に電話をかけてきたマイは、混乱しながらも、
「なぜ僕が……」
「ずるいよね、私。こういうのユウくんが断れないの知ってて頼んでるんだ」
言わなければならない言葉を、——強い決心の感じられる口調で言うのだった。
僕は、その様子に気圧されて、一瞬言葉をつかえさせながら、
「——でも、なぜ……僕が行っちゃいけないんだ」と言うと、
「ごめんなさい。わけが分からないよね。でもだめなの。私は覚えていてほしいの。今の私と、そしてSで過ごした日々を。へんな役目押し付けちゃってと思うけど、あなたはSが終わるのを見ないで、ずっとSが終わらない世界に生きてほしいの。私はそこにずっといるのだから」
マイのその言葉に、僕はすぐには何も言えずに、息を飲み込んだ。何か言おうとして頭の中に浮かぶ言葉に手を伸ばすが、それはもう少しで手が届きそうなのにするりと僕の手をくぐり抜けて行く。
だから、先に話したのはマイだった。
「来ちゃ駄目よ。」
「マイ」
「覚えていて。私のことを。Sとこの時代のことを。……良い? ユウくん。もしパーティにやって来たら、私は、理不尽だと思うけど、あなたのことを少し恨んでしまうかも。なので来ちゃ行けないの。お願いよ。私はあなたを信頼している。あなたしかこれを頼めないの。だから、それだから、お願いしているの、なぜなら。——私はあなたが……」
「マイ」
「そろそろ電話を切るわね」
僕が次の言葉を言う前に、マイの電話は突然切れた。僕は受話器を置くとそのまま呆然とその場に立ち尽くした。
僕は、今のマイとの会話の意味が良くつかめないまま、なんとか彼女の言葉を理解しょうと、心の中、何度も何度も、出口のない迷路をぐるぐると回った。
しかし、いつまでも、僕は答えを見つけることができないまま、じっとその場に立ち尽くした。それはそのまま終わること無く続いて行くように思えた。
僕は目の前の壁のシミをじっと見つめた。シミは揺れ姿を変え踊り始めた。それは自分の心の揺れに会わせて踊っていた。ぐるぐると回った。それは出口のない迷路のようだった。
しかし、その迷路は、すぐに、また突然かかってきた電話により消えるのだった。
今度はなんだかひどく鬱陶しそうな音で鳴るベルの音。僕は、その音に我に返り、もしかしてマイがまたかけて来たのかと期待しながら受話器を握るのだが、——それはヒラヤマからのものであった。
なので、僕は、
「ユウ、知ってるか、Sが……」
ヒラヤマが言いかけた所を、
「――行かないよ」
叫んで僕は電話を切る。
そして、僕はため息をつく。その時、僕は、自分の今行った、後戻りのできない選択に気づき、後悔とも使命感ともわからない不思議な感情にとらわれるのだった。
僕は、何故か涙があふれて来るのを止めることができないまま、「マイ」と僕はもう一度つぶやくと、突然の電話で届けられた、理不尽で理屈の分からない今日の会話を、何度も頭の中で何度も繰り返し思い出すのだった。
それはマイによって届けられた、反論不能なもの、
——まさしく神託のように僕には思えたのだった。
ならば、それに僕は逆らうことはできない。
それは、ただ在るのであった。
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