8

 新宿東口駅前の赤信号。その前に立つ人々はまったく動かない。まるで人形のように、顔の表情を固め、身じろぎもせずに立つ。僕は、その様子を見て思ったのだった。

 もし、今、この瞬間で、このまま世界が止まったとしたら、今、人々の顔に浮かぶ幸せな表情、不幸な表情、それらがそのまま永遠になったら、もしこの瞬間が永劫になり、その後の永遠の幸せか、不幸せかが決まるのなら、――随分と不公平なものだなと。

 止まった街。信号待ちの間に一瞬現れた、そんな街の様子を、僕はぼんやりと眺めながら、永遠何ていう非現実的な妄想に捉われていると、——信号が変わり、人々は動き出す。

 僕は、その世界の突然の始動についていけずに、立ちすくむ。

 僕だけが止まる。

 どうにも浮かない顔をした僕だけが交差点に立ち止まっていた。僕だけが永遠——時の止まった世界にいた。僕だけがその中に、まだ捉われていたのだった。

 金曜日の浮かれた街。それは、もうすぐ二十世紀も終わるかと言う年末のことだった。

 まだまだ底知れず、失われた未来へ向けて落ちてゆく途中の日本であったが、それに気づかずに馬鹿騒ぎするような余裕のまだあった頃の、——街の週末の賑わいだった。

 僕は、そんな華やかな街の中を通り抜け、歌舞伎町のど真ん中にある大型クラブに向かっていたのだった。

 その日、そこでは、海外から来日した大物DJをメインアクトとするパーティが行われる予定であって、僕は、新宿駅から、上機嫌の酔っ払いの群れの中を抜け、無言でもくもくと進み、歩いて十分もかからずに今晩のパーティの会場のある、雑居ビルに到着するのだった。

 もう十二時が過ぎ、目的のパーティはもう始まっているはずだったが、そのビルの前には、会場にまだ入りきれない長い客の列が、路上までずっとつながっていた。

 その列を見て、僕はため息をついた。何をするにも混んでいて、待たなければならない街——東京。その鬱陶しさに、僕は学生時代にすんだあの街のことをふと思いだし、それにつられて思い出すあれやこれやを、——すぐに心の奥に封じ込める。

 列は、少しずつなら、動き始めているようだった。とは言え、入り口から九階まで続く階段に沿って、ビルの中へも続いているはずの列がはけるまでは、まだだいぶ時間がかかりそうであった。

 しかし、僕は、それも東京に戻ってきた僕の宿命と考え、ごちゃごちゃとした歌舞伎町の街並みを眺めながら、列が進むのを待つ。

 三月にしては季節外れに寒い、みぞれ混じりの小雨の降る夜だった。荒涼として、しかし魅惑的な街。

 ——光、そして闇。

 アスファルトの上の黒い水たまりの上に、毒々しい極彩色のネオンが映り、人がその上を踏む度に、それは揺れゆがむ。

 街。そして人。

 楽しそうに笑いながら歩いてゆく若者の集団。苦々しい表情を浮かべながらも口元がにやけているような中年男性。

 呼び込みが手を叩き声を張り上げている。チンピラ風の男が、普通そうに見えるが随分と目つきのするどいおじいさんに必至で土下座をしている。

 ぼろぼろの服をきた浮浪者がビルのあいだから一瞬明かりの元にでてすぐに消え、――雨が窓に吹き付けていた。

 現実。そして幻想。

 流れる雨と一緒に夜景も流れていっているかのように見える。風景が溶けて行っているかのようだった。雨に流れるように世界が崩れ落ちて側溝の中に流れてゆくかのよう。

 ――僕もその世界と一緒に暗闇の中に吸い込まれる。

 僕は目を瞑る。

 そして……。


 フラッシュライト、また暗闇、そしてレーザービーム。

 僕は暗闇を射抜く赤い線を見つめる。

 僕は踊っていた。僕はフロアにいた。僕はステップを踏んでいた。そこには身体だけがあった。

 踏み下した足が、フロアに弾かれてまた宙を浮く瞬間、その時だけ外の世界を感じた。

 音楽は外から聞こえて来るのでなく、自分の心の中で流れているかのようであった。

 午前一時過ぎに入ったフロアだったが、休む暇もなく一心不乱に踊り続ければ、いつの間にか朝近くになっていた。ダンサーズハイなのか、身体は疲れきっているのに、心は軽く、まるで宙を舞っているかのようだった。

 汗だくの体は、重く、辛く、足を一歩踏み出すにも苦労するくらい。息があがり、腕は持ち上がらない。でも踊るのをやめられなかった。なぜなら何もかもが踊りの中にあった。それが僕の全てなので、——そうするしかなかった。

 巨大なスピーカから放たれるベースに震える空気の中、僕は、たぶんつかぬまの気持ちと知りながらも、それゆえに尊い全能感とその喜びに、声が枯れるばかりの歓声をあげていた。

 まぶしいフラッシュライトが点滅した。万歳をしながら僕はDJの名前を叫んだ。同じようにフロアじゅうで万歳をしながら叫んでいる人々の顔が、瞬間瞬間の表情が目に入った。今日のパーティの頂点だった。声が枯れるまで、いや、声が枯れても僕は叫んだ。

 そして、僕は、忘れていた。その瞬間以外の全てを。嫌なことも、大事なことも。

 僕は、叫び、叫び、叫び尽くし、全てを忘れ、踊った。酒さえ飲まず、水のペットボトルを握りしめながら、ただ踊る、それでよかった。それしかなかった。その時は、僕は、——そんな状態だった。

 学生時代が終わり、東京で勤め始め、均質で、何でもある、次から次へと物と情報が入ってくるこの首都で、この街にあわせて暮らすならば、それしかなかった。

 僕はいつの間にかそれに慣れてしまっていたのだった。

 素早い変化が作る、どうしようもない平板と言うものに。――あまりにも物にあふれ、その価値が見分けのつかない程等価になってゆく、その乱雑さゆえの凡庸に陥っていたのだった。

 だから、今日もまた僕は踊った。踊って、踊って、踊り尽くす。その中で、何も考えられなくなってしまった後でないと、——自らを燃やし尽くしてしまってからでないと、自分自身が現れなかったのだった。

 疲れ果て、自分で、自分のことが考えられなくならないと、その本物の自分は、現れなかったのだった。

 だから、僕は踊らねばならなかった。僕は踊り、その自分がいる、本物の世界に行く道を探し、それは手を伸ばせば届きそうな、ほんの目の前にあることに気付くのだが……。

 ——しかし、今日もまたパーティは終わる。

 フロアからはプレイを終えたDJにむかって拍手が向けられていた。

 気づくとずいぶんと人の数も減っていた。そろそろ始発も走り出していたのでどんどんとみんな帰り始めていたのか、ダウンライトが点灯して、少し明るくなったフロアには改めて見てみると、残っているのは、せいぜい数十人しかいないようだった。

 そんな閑散としたまわりを見渡しているうちに、興奮も冷めて落ち着いてきた僕は、――思い出したのだった。

 そう言えば、今日このパーティに来るような話をしていた、ネットで知り合った連中は来ているだろうか、と。

 いるならば挨拶くらいはした方がよいのか。

 そう思うと、僕はざっとフロアを見渡すのだった。

 フロアのあちらこちらで、たばこの赤いひかりが揺れた。笑い顔。音楽は止まってもまだ踊っている外国人達。

 さらに横に、スポットライトに照らされた女の子とその横の男が楽しそうに話す。女の方は目印と言っていたストライプの入った赤い服を着ている。男はやはり目印に聞いていた黄色いキャスケットをかぶり、……この二人なのだろうか?

  僕は二人に、声をかけて確かめようかと思って足を踏み出した。

 ――その時だった。

「ユウくんかい?」

 呼びかける声に振り向けば、そこには学生時代の知り合いが立っていた。

 僕は意外な人物の登場に少しびっくりしたが、

「ああ、お久しぶりです」

「ケンタだけど覚えてる」

 僕は、

「はい」と頷きながら言ったのだった。

 その男——ケンタ——は、僕の昔のクラブ仲間だった。彼は、僕が大学二年生のときに東京から転勤で来た建設会社勤めのサラリーマンで、クラブSでたまに会ううちに、少しずつ話すようになったのだったが、——多少仲良くなったかなと言うあたり、一年ちょっとでまたすぐに転勤していなくなった男だった。

 そのケンタは言った。

「こんなところでねえ」

「びっくりしました」

 僕は確かにびっくりした。でも、それがあまり肯定的な感情ではないことを僕の表情から読み取るにはまだ薄暗いフロアであった。一方、ケンタは旧友に会えたのが嬉しいのか、随分と弾んだ口調で言った。

「こっちに来てたんだね」

「大学終わってからずっとこっちですよ」

「そうだね、……大学だ。あのころは大学生だったんだよね」

「ええ……」

「そうだね君はもともとこっちの人なんだよね」

「ええ……」

 少し沈黙があり、僕は、うつむいて、遠くを見るような目で床を見ていた。次に話す言葉を考えあぐねていたのだった。

 しかし、

「どう、こっちでもいろいろ行ってる」

 ケンタが当たり障りのない会話を始めてくれた。

「クラブですか」

「そう」

「いろいろ行ってますが……」

「が?」

「昔みたいには」

「そうだろうね、学生の時みたいにはね」

「ええ、まあ」

「俺があの街に行った時もそうだったよ。学生の時みたいに平日も入り浸るわけにはいかなかった。少し物足りなかったけど、でもその方が良いよ」

「ええ……」

「俺らは踊って暮らせる訳じゃない。こう言うのはバランスが大事だよ。よく働き、良く遊ぶ。疲れたら休む」

 ケンタの同意を求める視線に、僕はあいまいに頷く。

「それが長続きの秘訣だよ。バランスが」と続けてケンタ。「世の中と折り合いをつけていかないとあっという間に息切れしてしまう。二十代で青春が終わっちまうなんてまっぴらだと思わないかい」

「そうですね……」

 ケンタの言葉に反論したいわけではないが、同意もしたくない。そんな曖昧な感情の中、歯切れの悪い返事を返す僕だった。

「それに、東京はいいだろやっぱり。あの街でも、……何だっけあのクラブの名前」

「クラブSのことですか」

「そうそれ。あそこも良いクラブだったけど」

「東京にはかなわないだろやっぱり」

 その言葉に下を向いた僕の動作を同意と取ったのか、ケンタは満足そうな口調で言う。

「やっぱり過去は過去だ。現在に俺は生きたいね。いつまでも」

 彼の言葉に僕はなぜか自分が糾弾されているような気分となって、

「でも……」

 反論の言葉を考えながら彼を睨むが、にこやかにほほ笑んだケンタは、僕の言葉が届かぬうちに立ち上がる。

「……別の友達見つけたんでちょっと挨拶してくる、ちょっとここにいてよ」

「はい……」

 ケンタはフロアの反対側に走って行って、隅で別の誰かと話していた。

 パーティが終わり、音楽は終わってしまっていたが、照明のミラーボールはまだ回り続けていた。

 光がぐるぐると回り、その下で、いくつもの人生が回り続けている。僕の頭の中も記憶が、過去の場面場面がくるくると回る。

 思い出す。ケンタ。別に嫌な奴ではなかったが、どうにも、少しずれた感じのする男だった。

 仕事や学校であっていたら間違い無く良い奴であったが、Sの中で会うには何か物足りない、そんな男だった。

 何も捨てないように行動するために、何も得ていない。なんでも映し撮ろうとするそんな男。なんにでも過不足なくバランスが良さ過ぎて、そのせいで、ひどく平板に見えてしまう男であった。

 そして、そんなケンタを見ていると、僕は、少々、いやな感じが、――予感がしたのだった。あんな平板な鏡のような男には、それこそ鏡のように、僕の今がそのまままに映ってしまわないかと思ったのだった。

 心に隠している悪意が、そのまま彼の薄っぺらな表面に現れて、それを僕は見せつけられることになるのではないか。そんな風に僕は思ったのだった。

 だから、僕はこのまま彼と話さずに消えてしまった方が良いのではと思った。知り合いとずっと話し込んで帰ってこない彼を、十数分ほど待てば、仁義は十分果たしただろうと、挨拶もせずに、こっそりと帰ろうとした僕だった。

 ——しかし、


「なつかしいねえまったく」


 結局、僕はケンタと、その知り合いの二人と一緒に、帰ることになった。僕がフロアから離れ、エレベータを待っているとき、運悪く、また彼らと合流してしまったのだった。

「悪いねユウくん、待たせちゃって。でもせっかくだしもう少し話そうよ」

 ケンタは、そう言いながら横を向き、一緒にやってきた残り二人にこびを売るように会釈をしながら言った。

 降りるエレベーターの中で紹介された二人は、ケンタが言うには、当時はまだ珍しかった、インターネット上のクラブ情報サイトをやっている人たちとのことで、色々情報を知っているから僕も知り合いになっておいた方が良いと彼は言った。

 しかし、その過大な紹介ほどには彼らは事情通な訳ではなさそうで、ケンタは、彼らから来週のパーティの情報を得ようと、ずっと話しかけるが、二人の方は来週の情報はあまり持っていないようで少し困ったような顔をしていた。

 その気まずい沈黙はエレベータの扉が開くことで破られた。

「やっぱり、すっかり朝だね」

 僕らは、もう日が昇り、明るくなった街へ出るのだった。雨はやんでいたがまだ肌寒く、空はどんよりとした灰色であった。早朝営業が始まった性風俗店の呼び込みの声が響いていた。噴水の周りにはこの寒空の下でも酔っ払いが転がり、その横でカラスが嘔吐物をついばんでいた。

「あんまり清々しいとは言えない朝だけど。これも味わい深いというものだね」

 ケンタは今で言うキメ顔でそんなことを言う。僕は、聞こえないように小さなため息をつきながら、あたりの風景を見渡した。

 朝日の元で、ネオンは輝きを失った街は、その本当の姿を見せていた。闇で隠れていた表面を見せるのだった。薄汚れた壁や、染みのできた看板。どことなく汚れた空気、疲れた顔の通行人。水溜りに落ちたピンクチラシと転がるペットボトル。夜が終わり、現実が僕らを取り囲み始めていた。

 そして、

「そういえば」と同行の二人のうち背の高い方が言ったのは、そんな現実に僕らが完全に取り囲まれた頃、もう靖国通りも近くでのことだった。「山梨の廃校でやるパーティが。——再来週なら、おもしろそうなのが」

 その情報に。ケンタの目が輝き、もっと教えてほしいと言う表情となり、

「それもっと詳しく教えて欲しいんだけど」と言うと、

 頷く背の高い男。

 そして、

「じゃあ、道端で話し込むのもなんだし、——一晩踊って腹も減ってるし」

 と、僕らは、歌舞伎町出口に近いハンバーガーショップに入ることになるのだった。

 僕は、流れから、惰性でここまでついて来たが、店の入り口で、また小さなため息をついた。どうせ行く気もないパーティの情報なんてどうでも良かったし、朝日を見たら、現実に引き戻されたのか、なんだか急に一晩の疲れがどっと出て、歩いていても目をつむりそうなほど、もう耐えられないくらい、眠くなってきたのだった。

 だから、やはり、ここは、無理矢理にでも、先に帰ってしまおうかと思い、その旨、言いかけるが、そんな乗り気でない僕の空気をさっしてか、

「やっぱろせっかくだからもう少し話そうよ」とちょっと強引に誘ってくるケンタ。

「僕は……」

 正直、あまり気乗りしない、旧友との思いがけない懇親の機会であったが、その時、ひどく消耗していた僕は、断る理由を考える方がかえって面倒くさかったので、なんなら店で居眠りでもするつもりで、結局、僕は、彼らについて行くことにしたのだった。

 僕らは一階でハンバーガーのセットを買うと二階に上がる。店内はこんな時間にもかかわらず結構混んでいたが、僕らは窓際に小さな丸テーブルの席をなんとか確保することができた。

 そして、座るなり、

「こっちがユウで俺の昔のクラブ仲間で……」

 ケンタが改めて僕を紹介する。すると、彼の知り合いの二人は、顔には作り笑いっぽい微笑みを浮かべながら、それほど興味なさそうに手を差し出して来る。

 僕らは順番に握手をして、

「こちらが情報サイトを運営している二人で名前は……」

 その後はケンタと二人の間で、最近の東京のクラブミュージック事情の交換が始まるのだった。

 近県で行われる野外パーティの情報。新しくできたレコード屋にあった希少版の話。パーティオーガナイザーのドロドロの裏話。

 今の東京のクラブにそんな詳しいわけでない僕からすると、彼らの話は実感をもたぬまま僕の中を、何も残さずに、ただ通り過ぎていった。

 この間青山で。六本木で。渋谷で。いや王子や蒲田でも。彼らの語る場所も人も僕にはなじみがないものばかりだった。

 クラブSがあったあの街での学生時代が終わり、こっちに戻って来てからは、東京のクラブカルチャーの波には乗れないまま、散発的に、有名どころのパーティに行くだけの僕には、この場には居場所がないように思えた。なので、僕は、また、つい、ため息をつく。しかし、話しに夢中な彼らはそれに気づかない。

 僕は、フライドポテトをほおばりながら、いつの間にかまた窓の外を見ていた。向かいのビルでは、まだ十代に見える若い女が窓際にいて、妙にカクカクとした踊りを踊っているのが見えた。

 あの踊りは何かの練習なんだろうか? 同じ階についているビルの壁の看板を見れば、そこはかなりきわどいサービスをするキャバクラのようだったが、彼女はそんな店の格好には見えない地味なトレーナー姿であった。

 あるいは、もう店は終わって、ショーの練習でもしているのか? もしそうなら、——場所に不釣合いな、純朴そうな顔に見える彼女が、中途半端に腕を上げ、ギクシャクと腰を振りながら踊る姿は、妙に痛々しい感じがした。

 僕は、そんな窓の外の様子を見ながら、ひたすらにポテトを口に放り込んでいたが、それを食べ終えると、僕を見つめる視線を感じて、テーブルに向き直る。それは、ちょうど話題が途切れてみんなが無口になった瞬間だった。

 僕は、多分その時、詰まった会話を打開する、何か気の利いた言葉を期待されたのだと思う。だが、そうは言っても、ぼうっと窓の外を見ていて、彼らの話をろくに聞いていなかったので、僕は、何を話して良いか分からずに、無口でその場に固まる。

 すると、目があったケンタは、話題に困ったのか、

「どう最近昔のあの街の連中と連絡取っている」

 残りの二人にはあまり関係のない会話を始めようとする。

「いえ」

 僕はこの会話の流れに悪い予感がして、顔をしかめしながら答える。

 だが、ケンタは、僕の不安げな顔に気づかずに話を続ける。

「そうだよな、離れちゃうとどうしてもな」

 僕は、少し俯きながら言う。

「ヒラヤマとなら一応連絡先の交換くらいは……」

「ヒラヤマって誰だっけ」

「DJで……」

「DJ? ああ、思い出したよ。Sで良く回してた奴、——ああ、思い出した。良く……追っかけていただろあの子を……」

 ああ、やはり。その話は避けられないのだった。

 僕はこの後の展開が読めて、うんざりとした気持ちになりながら言う。

「マイ?」

「そうそう。どうしているかな」

「マイが?」

「かわいい子だったよね……ちょっと変わった感じだったけど。まあ、ああ言うのに見た目で引かれる男の気持ちも分るものの、——個人的にはやっぱり良く分かんないね。でも、まあ、そりゃ、そんなのは人の好き好きだと思うけど……君はどう思うかな」

「それは……」

 僕は、言いかけた言葉を飲み込むと、

「……なんにせよ、懐かしいね。でもどうだい、過去は過去だと思わないか。過ぎてゆくものは、——過ぎてゆくためにあったんだ。そう思うことに俺はしているよ」

 ケンタは、まるで僕が言いかけた言葉は知っているよとでも言いたげな目線を送って来ながら言う。

「過ぎてゆくね……」

 少し皮肉っぽい口調で僕は言うが、その仕返しのように、まるで説教するような口調でケンタが言う。

「考えれば、俺にとってあの女の子は、あの街そのもののような気がしてくるね。過ぎ去った過去であり、通りかかった自分に、ちょっと奇妙なスパイスを人生に与えてくれたけれど……」

「今の自分には重要なものではない?」

「そうそう」君もやっぱりそうだろと言う表情でケンタが言う。「あそこもそうだよなクラブSも。懐かしい思い出の一時期だが、そこに帰ろうなんて思わないよな」

 僕は何も答えずにもう飲み干していたコーラの残った氷を食べた。

 すると、

「あれ、もしかして、……帰りたいの?」

 ケンタは僕の憮然とした様子を面白がっているようで、ちょっと挑発的に感じられなくもない口調で言った。

「いや、過ぎ去ったものがなんだったのか考えていると……つい」

「考えても過去は変わらないぞ。いろいろ後から考えても、あったことはそのままのことでしかない。時間の無駄だ」

 説教っぽいケンタの言葉。

 しかし、

「変えたいのでなく、過去は本当にあったのだろうかと思うことがあるんですよ」

 僕の、あからさまに弱っているような言葉を聞いてか、少し言いすぎたとでも思ったのか、一転して元気づけるような口調に変わって、ケンタが言った。

「なんだいそれ、ユウはこの頃疲れてるのか。過去はちゃんとあったことは俺が保障してやるよ」

 無言であいまいに頷く僕。

「それでも不安なら、あの街もずいぶんと変わっただろうけど、試しに行って見ればいいじゃないか。Sが今もあるかは知らないけど、マイにでも会ってくれば良いじゃないか」

「いやだめですねそれだけは、無理です」

「無理です? なんで、なにか君は合えなくなるようないやらしいことでもやらかしたのかい。彼女に? おいおい君は見かけによらないエロ……」

 ケンタは少しちゃかしたような表情で、僕をからかおうと、さらに言葉を続けようとするが、僕は彼の言葉を遮りながら言う。

「マイは死にましたよ」

 あたりを沈黙が支配した。マイに関係ない二人も含めて僕らは黙りこんでしまった。

 ケンタが困ったように咳払いをした。息を飲み、乾いた喉を僕は鳴らした。

 また僕は窓の外を見た。例の女は踊るのをやめて、タオルで顔を拭いていた。彼女はここからは見えない誰かに話しながら、にこやかに微笑んでいた。

 僕はまたテーブルに向きなおると、残りの氷を一気に口の中に放り込んだ。ケンタが咳払いをする。僕が紙コップの縁をつぶす。僕らは黙っていた。誰もまだ話し出せなかった。

 もう一度窓の外を眺める。向かいのビルの窓は閉まり、女の姿はもう見えなくなっていた。

 潮時だった。

 僕は言った。

「そろそろ帰りましょうか」

 その言葉に、ケンタが何か言いたそうに口を開きかけた瞬間、僕は席を立った。

 残りの二人に軽く会釈をすると、ケンタが慌てて僕に続いて席を立った。

 しかし、僕は、ケンタに追いつかれないように、走るように店の外に出て行くのだった。

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