僕がクラブSの入り口をくぐりフロアに入った瞬間、その真ん中には、鍛えられた身体を、しなやかに、優雅に動かし始めたダンサーの姿があった。彼がその漆黒の身体を、大きくくねらせながらながら踊り始めたとたんに、緊張し沈黙していたフロアの空気は一変した。

 彼の、左右に大きく伸ばした手は、回り、美しい弧を描いた後、突然止まり、そしてまた、動きだし、すっと伸びた手が空間を掴み、たぐり寄せてフロア全体を揺らした。まるで、このフロアそのものが踊り出したかのようだった。

 その男が踊っていたのは、当時はやったヴォーグというダンスだった。しかし、そのヴォーグという踊りが、音楽に合わせてゆっくりとおしゃれなポージングを決めて行くだけのダンスのことだと思っていた、――そんなダンサーしか見たことの無かった僕にとっては、その時見た彼の踊りは衝撃的であった。

 ビートにあわせてすばやく動く身体は、時間が止まったかのように空中で静止し、また突然動きだす。静と動。その繰り返しが、世界を大きく揺らした。

 空間は彼の作り出す滑らかなグルーヴに満ちて、そして、僕らは、そのグルーヴに身も心も任せて躍り続けた。その日のフロアの祭司は、まぎれも無く彼――DJではなく――であり、そのダンサーの作り出す躍動の中で僕らは踊った。流れる音は全て彼に集まって、その後で世界に放たれ、——世界が揺れた。

 僕らは、ニューヨークから来て数ヶ月の間だけSに滞在した、その男の虜だった。彼の作り出す躍動と静寂に酔った。僕らは、彼の創造した世界の中にあった。僕らは、踊りながら、じっとその男のことを見つめていた。その男、インターネットで検索すると数秒で出てくる彼のプロフィール、——エイズでもうすでにこの世から消えた彼のことは、僕らは忘れない。

 そして、その彼の踊りを思いだしたことに導かれるように心の奥から引き出されるされる記憶。

 その夜の、その後のこと。

 僕は……

 ——忘れない。


   *


 その日、クラブSは、漆黒のダンサーともに、夜半も越えて大いに盛り上がっていたのだが、そのダンサーがいつのまにか店の奥に消えたまま戻ってこなければ、みんなを動かしていた糸が切れたかのように、全員の足が止まる。——あっという間に閑散として来たフロアであった。僕も、同じように踊りを止めると、体の奥から、どっと湧き出してきた疲労と喉の渇きに耐えかねて、ラウンジへと場所を移動するのだった。

 すると、バーで注文の順番を待っていた僕の前にさっと現れたマイは、笑顔でグラスを手渡し、

「お疲れさま。今日も夢中で踊ってたね。ユウくんの姿みてるとこっちも楽しくなってくるよ」

 いつも通りの笑顔で、僕の目をじっと見つめながら言うのだった。

 そして、

「ありがとう」

 僕は、マイから渡されたドリンクを、喉の渇きにまかせて一気に飲み干し、——それはとても美味しくて、——美味しすぎることが不安にさせるのだった。

 そのドリンクは、僕がこの間おごったののお返しにということだったのだが、僕のあげたものよりも、ずっと美味しくて、その美味しさこそが僕の顔の表情を少し曇らせるのだった。

 マイは、いつも、貰った物よりも、必ずそれ以上の物を返して来る。僕は、それが心配なのだった。

 僕が笑いかければ必ずそれ以上の素敵な笑顔を返してくれるし、彼女が落ち込んでいる時に慰めたならば、逆の時には、それ以上の、全身全霊で僕を元気付けようとする。

 彼女は、自分よりも多くを人に与えないと気が済まないのだった。

 ——何でも、際限なく自分を与えようとするマイ。

 それは、もちろん彼女の美点で、彼女をより好ましくしているのは間違いない。だが、そんなことでは、与えすぎた彼女は、

「すりへってしまわないだろうか」

 僕が顰め面で、マイには聞こえないような小声で言うと、

「何か言った」

 マイは何か自分のせいで僕が困っているのかと不安げな顔になるのだった。

 でも、

「いいや」

 ——そうではなくて、と。

 僕は――そちらはそちらで本気で心配している――大学を終えるのに必要な単位が足りないかもしれないことをふと思い出してしまっていたのだとマイに言い、そのまま始めた大学批判から始まる、世間が悪い系の話はあっさりとたしなめられたならば、――その後、会話は、どうでも良いような、とりとめのない話となって行く。

 僕らは、甘いハウスミュージックに合わせて、自分たちの語る何かが欠けた言葉を、この場に流れるグルーヴによって補いながら語る。

 その頃、僕らは、いつもそんな風であった。そんな、生硬なるも、真剣に、その夜を過ごしていたのだった。

 欠けた所ばかりの僕らを満たしてくれる空間。むせ返る音の匂いに満ちたクラブS。その時代、たまたま目の前にあった奇跡の場所で。僕らは、あの頃、いったい幾晩、そうやって、青臭い会話をしながら、ふわふわとした浮遊感を楽しんでいたのだろうか。

 僕らは、その頃、そんなふうに生きていた。

 それで全てだった。

 ——それが全てだった。

 他の全ては夢であった。

 いや、夢こそが現で、それがクラブS。

 浮き世の騒がしさより逃れてこの場に集まった僕ら。

 ――夜を忘れるなら?

 あるのは永遠。

 なので、もう真夜中をとっくに過ぎ、火曜の朝も間近。

 世の良き人々はもうとっくに眠る時間でも、まだまだここの夜は終わらない。

「そろそろまた踊ってくるよ」

「私も」

 ビート鳴り響くフロアは、——いつのまにか午前三時。

 そこは、少し前までいた、美容師の集団が帰ってしまってからは、僕とマイだけのガランとした寂しげな様子だった。

 けれど、――それで十分だった。トライバルなビートにあわせ、一心不乱に踊るマイの、瞬間瞬間を、フラッシュライトが切り取る、その瞬間瞬間の、彼女の仕草に僕は見とれていたのだった。

 僕は、他には何も考えることなく、マイの動きの一つ一つをただ見つめていた。

 ここには、その瞬間瞬間には、——無限と永遠があった。ここには求めるもの全てがあった。

 ここは求めるものしかない完全な世界だった。

 フロアと音楽、照らす光、マイだけが目の前にあった。

 それだけで良い。それだけが全てだった。

 マイが、にっこりと笑う。その姿に、僕は溢れ出る愛おしさを抑えきれず笑みを返し、そして握手をしようと伸ばした手。……


 ――宙を掴んだ。


 僕は、倒れて痙攣をしているマイを見下ろして、何をすれば良いか分からなくておろおろとしていた。

 僕は自分でも意味の分からない、言葉にならない言葉を叫んだ。

 音楽が止まり、店のスタッフが駆け出して来るのが見えた。

 誰かが「舌かませちゃだめだぞ」と叫んだのに振り返ると、目があったバーの店員が手を口に入れる身振りをするのが見えた。

 僕は、その意味が良く分からなかったが、彼は今すべきことを伝えてくれたのだろうと、真似をしてマイの口に手をいれる。すると、強く噛まれるが、気が動転しているので痛いどころではなく、まわりに集まったスタッフに向かって必死に叫んだ。

「救急車を早く、早く——」

 しかし、

「救急車を……」

 僕は、マイが痙攣しながら首を横に振るのを見て声を詰まらせるのだった。

 それでも僕が、振り返り、

「救……」

 また叫ぼうと口を開きかけた時、マイは僕にしがみつき、震えながら、

「ユウくん……」

 弱々しい声で言うと、言葉を一度止めて、そのまま少し、——十秒ほどのことであっただろうが、僕にはまるで永劫のように感じられた時間のあとに、

「救急車は呼ばなくて大丈夫よ」

 マイは、まだ少し痙攣しながらも、僕の胸に埋めていた顔を上げて、ニッコリと笑いながら言うのだった。

 そして、彼女は、多分、当に悲壮な表情になっていた僕の顔に、やさしく手を触れながら続けて言う。

「ありがとう」

 僕は、正気の戻ったマイの目を見ながら、少し安心して頷き、そのまま彼女を抱きかかえてソファーに移動する。そこに彼女を寝かして、

「ユウくん。私はもう大丈夫よ。こういうの前にもあったんだけど、収まったらもう大丈夫だから。心配しなくて良いから。それより顔が汗でびっしょりよ」

 僕は自分の顔から背中にかけて汗でグショグショになっているのに気づく。

 駆け寄ってきた店の女性スタッフがマイの手を握る。

「私が見てますから」

 彼女の言葉に、僕は軽く会釈をすると立ち上がり、店のトイレへ顔を洗いに行く。

 ドアを開け中に入り、洗面所で顔を洗い、目の前の鏡を見ると、――そこには見慣れない顔の自分ががいたのだった。


   *


 鏡の中の僕は言った。

「こんにちは」

 そこにいたのは僕であった。鏡に映った僕が自分であるのは、当たり前の話である。しかし、そいつはどうみても僕そのものであったが、何か、言葉にできないような妙な違和感があった。

 だから僕はそいつに言ったのだった。

「お前は誰だ」

「自分に誰だとは変なことを言うね。俺は君に決まっているじゃないか。君自身だよ。ただし鏡の中の君だ」

 いかにも胡散臭い口調でそいつはしゃべった。

「鏡に僕が映るのは当たり前だ。でもお前は僕じゃない」

「俺が僕でないとはまた変なことを言うね」

「お前は僕じゃない」

「じゃあ何なのかな」

「お前は……」

 僕は答えを頭の中に探して、見つからずに言葉を止める。

「さてさて、俺は誰なのかな。でもそれってずいぶんとへんな質問じゃないかな」

「何が」

「誰だなんて、それは君が自分を誰なのか分かっているような口ぶりだ」

「どういう意味だ」

「君は鏡に映った自分が誰なのか分からない、それはそういう意味なんじゃないかい。鏡はただ君の姿を返すだけだ」

「だからなんだ」

 僕は声を少し荒げる。

「だからなんだといわれても説明しようがないね。俺が言ってるのはそのままの意味だ。それ以上でも、それ以下でもない。俺は鏡に映った君で、それ以上でもそれ以下でもない」

「ならもう黙ってくれ」

「ああ、――それは良い提案だ。俺は黙る。言葉で僕は語らない。言葉は君が考えるんだ。それが俺が言いたかったことだよ。しかし……」

「しかし?」

「その前に君が最後に俺が言うべきことを言わせてくれ」

「……何を」

「助言だ」

「助言?」

「ああ助言だ。そして助言などいつも陳腐なものだ。さあそんなしょぼくれた顔をしてないで、もう一度顔を洗って外に出ろ。笑顔を忘れずに」

「それで……」

「それで終わり。そして、そして、こんなしょぼくれた顔の君のことなんて忘れろ」

 そして、僕は言われた通りにした。

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