5
ぼうっと砂浜に立ちつくしていた僕は、しばらくして、ハッと我に返れば、自分が、じっと波打ち際を見つめているのに気づいた。そして、その視線の向かう先を、あらためてしっかりと見たならば、僕は、足元に、いろんなものが流れ着いているのに気づいたのだった。
それは、良く知らない国の言葉が書かれている瓶や包装紙。船の一部だったらしい船名の書かれた塗られた木切れ。
等々。
ここには、僕以外、動くものはまったく見あたらなかったけど、もしかしたら海の向こうには、他の人間の住む普通の陸地があるのだろうか。それとも、これらは僕の知らない原理によって無からわいて出たものなのだろうか。……
僕が、足元の漂着物を眺めながら、そんなことを考えていると、
「エントロピーって知ってるか」
突然、また声が話かけてきたのだった。
「知ってるよ。仮にも物理学科の卒業生にお前は何いってんの」僕は答えた。「その定義の一つとしては、——原子や分子の乱雑さの尺度、パラメータさ。エントロピーは宇宙全体で見ると常に増大し、宇宙の特異な部分がなくなって、エントロピーが増大してこの宇宙は熱死に向かう」
「エントロピーというのは増えて行くんだとしたら、前はどうだったんだ」
「もちろん少なかったさ、多分」
「なんでそんな少なかったんだ」
「知らないよ。宇宙ができるときに少ない状態でうまれたんだろ多分」
「なるほど。……じゃあ、質問を変えるけど、エントロピーと言うのは少ないのと大きいのとどっちが大変なんだ」
「大変? どっちが起きやすいのかってことかい。それならエントロピーが少ない状態になる方が大変に決まっている。ミルクを床にこぼすのは簡単だけど戻すのは大変だ」
「今と昔はどっちがエントロピーが大きいんだっけ」
「昔? ……ああお前が何を言いたいのかわかったよ。その話しは聞いたことがある。――エントロピーが小さい、起こり難い奇跡が昔に起きたと考えるよりも、エントロピーの高い、比較的起こりやすい奇跡が今起きてる方が可能性が高いって言う話しだろ。つまり世界は今出来たもので、過去はすべて幻の可能性の方がずっと高いっていうこと。記憶も、恐竜の化石とかもみんな過去に、さもそんなことがあったかのように、全てが例えば五分前にできて、今の世界があるというやつだ。――まあそう言う説が正しい可能性は否定しないけど、信じられないね」
「信じる信じないは君の勝手でよいが、もしそれが本当だったらどうする」
「どうする?」
「この世界は、——この状態でさっき生まれてばかりだということはないだろうかということさ」
「バカな」
「バカ? なんでそう思うのかい?」
「だって、なら過去は幻だったっていうのか」
「過去は幻ではないよ。なにしろ世界はそれが在ったものとして生まれてきたんだ。それは在ったが、起きなかった世界ということじゃないかな。そして、それが目の前のこの世界という仮説はどうだい。起きても、起きなくても、在ったなら同じことだと思わないか?」
「それじゃダメだ」
「ダメ? なぜだ?」
「それは本物じゃなくちゃダメだ」
「何を本物とするかの定義の問題なんだろうけど、……ダメなんじゃなく、——嫌なんじゃないか? 君が?」
「何を……」
僕は、何か言おうとした言葉を喉元で飲み込みながら、頷いた。すると、何となく、声の持ち主が嬉しそうに笑ったような気がした。
そして、
「ともかく、君がやることは一つ、それが、——君がそう思うなら、本物であることを証明しなくてはいけない。海を見てみな」
僕は声に言われるままに海を見た。
波が砂浜に打ち寄せて、退いた後に紙のような物が残った。拾ってみると、それは、胸をはだけた女性が、悲しげな表情で笑っている写真だった。
僕は、それを見て生じた、心の奥に鈍痛のような感覚を感じながら言った。
「これは?」
「もう、……君は分かっているはずだ」
「何を?」
「君が今思っていることさ」
「だから、それは……」
僕は、その瞬間、声が遠くなった気配を感じ、言いかけた言葉を飲み込みながら、水にぬれ、ふやけてぼろぼろになったその写真を見つめた。
何だか、不自然なほどに突然、心臓がドキドキとした。なので、僕は、怖くなって、その写真から無意識のうちに目をそらしかけた。
だが、何か、そうしてはいけない、僕はそうしたら、そこには二度と戻れないだろう場所に僕は行ってしまう。そんな気がして、僕はまた写真に目を戻し、——そして、それを思い出すのだった。
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