丘の斜面に広がった草原を降り、僕は砂浜に立っていた。声に言われた通りだとすれば、僕はここで「僕」を待つということなのだった。……

 しかし、そもそも、僕が「僕」に会うとはどういう意味なのだろうか。草原と同じように、この砂浜にも相変わらず生き物の気配は無く、あるのは、海と空と自分だけ。ここに僕の他には誰もいないのならば、他の人物よりは自分に会う方が確かに確率も高そうだが、しかし僕は僕しかいないのだから僕は僕に会いようはなく、——あの声は何を言いたかったのだろう、と思っていると、

「君が君を待っている間、君にはするべきことがある」

 声はまた僕に話しかけるのだった。

「なんだい」

 また現れた鬱陶しい声に少しいらつきながら僕は言う。

「すべては君にかかっている」

「何がだい」

「世界の存続だ」

 なんだか話がでかすぎて胡散臭くなって来たが、

「何を……」

「世界といってもそんな大きな話しではないけど……まあ、疑問を持つ前に、この周りを見てくれ。この美しい世界。これは君と強く結びついている」

 声は相変わらず自身満々な様子で言う。僕は、今度はこいつが何を言い出すのかと警戒しながらも、他にすることもないので、とりあえずその話に付き合うことにする。

「確かに綺麗な場所だがそれが何なんだい」

「おかしいとは思わないか」

「なにが」

「こんな静かな世界がありえると思うか」

「確かにおかしいね。生き物の音がまったくしない。僕の立てる音の他に何の音もしない。僕が口を閉じて、——風がやめば、まったくの無音だ……ああこの海岸にきたら波の音もするけれど、それくらいだね。少しは鳥や虫の音がしたって良いと思うけどね」

「そう、ここにはそういうものはいない」

「鳥や虫のことか」

「そうだ。他も何もいない。犬もネコも、海には魚もくじらも……」

「動物はいないってことか」

「そうだ。そしてもちろん、人もいない」

「君は? 君は人じゃないのか」

「俺は声だ」

「声? 誰の声だ」

「それ以上は聞いても無駄だ。俺も知らない」

「声だけ有るというのか。しゃべったもののいない声が、そんなことあるものか」

「と言われても俺は知らない。そんなことが起き得るのかどうかも」

「声だけが残る世界なんてありえるわけがない」

「その通り、こんな世界あるわけがない。ここは無い場所だ」

「まったく意味が分らない。ここが、無い場所だとすると、無い場所があるというのか」

「そんな場所がこの世にありえると君は思うかい」

「聞いたことがないね」

「だとすればここは無い」

「堂々巡りだね……じゃあこの周りの世界はなんだ」

「それが君に課せられた使命の一つだだ。ここが何なのかを示すこと」

「教えてくれるわけじゃないのか」

「俺が?」

 僕は頷いた。

「いや、それは無理だ。俺はそれを知らない。しかし……」

 珍しく自信なさげな声。

「しかし?」

「君がやらなければならないことはいうことが出来る」

 今度は確信を持った声。

「何だ?」

「この世界を踊らすんだ」

「何をするって……」

「ここは時間と空間から離れた、果てだ。世界の果てだよ。離れすぎで、断崖を越えた何も動かぬ変化しない場所だ。ここには君以外何もない」

「何もない? 花は? 花があるじゃないか」

「この花? ああ、——君はそれを疑問に思うのかい?」

 僕は頷いた。

 すると花は消え、大地はのっぺらぼうの土だらけの姿に変わる。

 ……

「驚くのはまだ早いぜ。そうしたら大地だって海だって、あやしく思えないか」

 僕は、また頷きかけるが、すんでのところでそれを止めて言う。

「もしかして、ここは僕の心の中ということかい」

 僕の感情のまま物が消えたり現れたりする世界。それは僕の心の中であれば理屈がつく。そう僕は思ったのだった。ここは僕の見る夢の中か、幻覚の世界なのではないかと。

 しかし、声は僕の考えを否定する。

「ちょっと違う。君と非常に関連が深く、君のひどく個人的なつながりがあるものではあるが、ここは君の心の中とは違うよ」

「でもこれは……」

 僕が疑問を口に出しかけると、大地は消え、海の上にに僕は立っていた。

「海はなかなか消えないと思うよ。いわゆる君の深層と結びついているので、君の考えがちょっと揺らいだくらいでどうかなるものでもない」

「なんだいそれ。——やっぱりこの世界は僕の心が作り出した偽物の世界だって君は言いたいのかい?」

「いや、違う。ここは、君の心と強く結びついてはいるのだけど、——本物さ」

「本物……? さっきはここは『無い』場所だって言ったじゃないか」

「それも嘘じゃない」

「矛盾しているよ」

「していないよ。『無い』という本物だ。ここはそんなルールの世界だと思えばよい。しかし……」

「しかし?」

「それは不自然ではある」

「不自然? どういう意味だ」

「そんなことは知らない。何度も言うが、——俺は声だ。しゃべる物であって知るものじゃない。だが、君が次にすべきことをいうことは出来る」

「僕がすべきこと?」

「中に入るんだ」

 僕は、声がそう言った瞬間、再び花に覆われた丘が現れるのを見る。そして、丘の麓に、天使をかたどった金色のノブのついた重厚な木のドアが、何の支えもなく不自然にそこに立っている気づく。

 しかし、僕はそれを疑問には思わなかった。

 なぜなら、僕は知っていた。

 その扉が、どこに続いているのかと言うことを。

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