僕は覚えている。

 もう十数年も前となる、その夜のこと。

 ラウンジの皮のソファーに深く体を沈めて見つめていた、薄暗いダンスフロアに光る、強烈なフラッシュライト。すると、一瞬、無駄なくらい鮮明に、明るく照らし出される、

 空っぽのフロア。その時、金曜の夜なのに、知り合いどころか僕の他にまだ誰も客がいない、そのクラブの様子に、——誰もいないフロアを見て、僕は不安になってしまったのだ。

 もしかして、今日は、このまま、ここに誰もやってこないのではないだろうか。夜通し一人ぼっちで過ごさねばならないのではないだろうか。今宵は、僕は、孤独と一緒に踊るしかないのではないのだろうか。

 ——と。

 そんな風に思いながら見る、まだ踊る人のいないダンスフロアは、様々な色のスポットライトに照らされて華やかながらも、——寂しげな様子だった。僕は、そんな閑散とした店内を見渡して、ひとり溜息をつくのだったが……。

 ——その瞬間。

 フロアの向こう側のドアが開き、腕を組み、体をぴったりとくっつけた女の子二人組みが中に入って来るのだった。

 その時、空気に、なんだかちょっと甘ったるく隠微な匂いが少し混ざったような気がした。すると——案の定——二人は、誰もいないフロアの様子をキョロキョロとうかがいながら、入口近くの壁際に小さなバックを置くと、突然顔を近づけ、唇を重ねるのだった。

 それは、深く舌を絡ませる濃厚な口づけだった。二人は、互いの肩に手を回し、強く抱き合い、一度唇を離すと、見つめ合いながら、キス余韻漂う妖艶な口元で、何か——たぶん愛の言葉を——つぶやいた後、再び口を合わせるのだった。

 そして、ちょうどその時に、フロアにスモークが焚かれ、二人は煙に包まれてシルエットになった。影は、艶かしく、くねった。レーザーライトの赤い光がその周りを駆け巡った。

 バスドラムの音が大きくなり、それ合わせて僕の鼓動も激しくなった。

 僕の足が、知らず知らずのうちに、リズムに合わせて動いていた。

 僕は、煙で足元も見えない目の前の光景に、心地よい浮遊感を感じる。それが気持ちよくて、思わず目を瞑り、危うく意識を失いかけそうなくらいの陶酔から、——なんとかこの世に戻ってきて、目を開けば、――スモークの中の影が増えている。

 真っ白なフロアの中で、スポットライトに照らされて優美に動く数人のシルエットが並び、シンクロするように踊っていた。影は一部の乱れもなく、軽やかで、まるで隊列を組み空を飛ぶ鳥たちのように見えた。鳥のように、自由に、高くにあるように見えた。

 僕は、その踊りを見ながら待つのだった。次第に盛り上がって行くビートに、そのグルーヴを感じ始めたフロアに、——抑えようもなく浮き立つ心が、深く腰掛けてクッションの奥に沈む僕の体を引き上げてくれるのを、ただじっと待つのだった。

 そして、幾時かの、瞬間と、永劫を越えて、目の前いっぱいに広がっていたスモークが晴れる。すると、そこには、体にぴったりとした白い服を着た男たちが、まるで彫刻のように静止して現れ、——動き出す。その様子を見て、僕も思わず立ち上がり踊り出す。……


 それは、学生と転勤者の多く住むある地方都市の、九十年代半ばの、——ある日のことだった。バブルが終わり、果てしなき不況の中に落ちて行く日本で、それでも落下の中の無重力。落ちて行く者なりの浮遊感を楽しむモラトリアムが許された最後の時代。思い返せば、毎日毎日が、特別で、濃密で、しかし飛ぶように過ぎていった日々。その中の、何の変哲もない一日。つまり特別の毎日の中での、——いつも通りの特別な一日だった。

 今から思い出したなら、とても貴重な日々が当たり前のように過ぎていったその頃、そんな魔法の日々の中のある一日であった。ならば、――つまり、その日も始まるのは魔法の夜だった。

 その時、僕がいたのはクラブS。そこに行けば、毎回毎回、奇跡が起こるその場所の、いつものように、——いつもどおりの素敵な夜。僕は、太いベース音に身体と心を揺すられ、目を瞑りながら踊っていたのだった。

 その時、僕は、頭の中で飛び回る光を追いかけていたのだった。踊りながら、心の中での宇宙の誕生を見つめる。僕は、その時、世界の創造の現場を見ていたのだった。無より出でる有。何もない虚無から人生が現れる、そんな瞬間だった。

 それは無限の可能性。対称性が破れつつある宇宙であった。僕のちっぽけな宇宙。でも無限の可能性を持つはずの宇宙。そこでは、今、無が終わり物語が生まれたところだった。

 卑小だが、貴重な、僕の宇宙。フロアに流れるドラムロールに合わせて幕が開き、——光あれ。

 僕は、そのできたての宇宙と一緒に爆発して、その高揚感の中で――目を開ければ周りは光りの渦。

 ミラーボールが回り、その反射する光で、銀河のように回転するフロア。その中で、僕は、ビートに合わせてスピーカーのコーンが激しく前後するのを見た。細かく刻まれるハイハットの音に合わせて、僕は、激しく体を上下させた。

 僕は、フロアに満ちるストリングスの流麗な調べの海の中に飛び込んだ。身体を、心を、その直中に任せた。だから、音が揺れ、世界が揺れれば、——僕も揺れ、心が揺れて、歓声を上げていた。

 いくら汲み尽くしても枯れない歓喜の中で、僕は、音その物に、——波に、——世界を揺らす波になっていたのだった。つまり、僕は世界その物になっていたのだった。世界を満たすグルーヴに乗って、僕は、世界の果てまで満ちていたのだ。その感覚に、その時感じた全能感に似た感動に、僕はまた叫んだ。

 その夜。クラブS。そのいつもどおりの夜だとしても、――だからこそ、その夜も特別であった。いつも特別で、毎日素敵な出来事があったクラブSならば、僕がふと思い出したその夜も、もちろん特別なのだった。仲間が集まり、パーティが始まる。ただ踊り、叫び、笑い、それだけで特別となる、そんな、いつもどおりの夜だった。

 そして、僕は、叫び、踊りながら、だんだんと知った顔がちらほら店に現れ始めたのに気付くのだった。

 腕時計を見れば、いつの間にか時間はもう十二時を回っていて、——ならば、夜もいよいよ本番。フロアはいつのまにか随分と人が増えていて、その、集まった人々の様々な思いが、——感情がフロアに満ちて来はじめていたのだった。人々の、その夜のパーティへの期待が、匂いのようにその場に漂い、僕を包むのだった。

 ——そう、それは匂い。

 ——ああ、そうだ。匂いだった。

 ——覚えているのは匂いだった。

 隣で踊る女の子からは、微かなイランイランの香り。それを嗅いで軽く火照る心。感情。

 あたりにはさまざまな匂いが充満して、僕の感情が、本能が呼び起こされる。僕は、そんな匂いを、感情を、もっと感覚を鋭くして感じようと、目を瞑る。

 僕は、フロアに満ちる音と感情のハーモニーが作り出す、熱いグルーヴに身を任せ、——その中に溶け込み、そこに混じる新たな感情を、次々に、敏感に感じ取っていたのだった。

 期待。興奮。歓喜、熱狂。様々なポジティブな感情がフロアを満たす。感情がお互いを高め合う。期待が興奮を呼び、歓喜が熱狂に変わる。溶け合い、熱せられた感情のアマルガムが一つの意思となってフロアにある。ならば、その中に時々、ちょっとした悲しみが混ざっても、——この場に集まった他の感情たちに励まされば、たちまちに、上を向き、高く上る。救済(マーシー)。

 様々な感情——人々、様々な人生がこの場に集まり、混ざり合う。そんなこの場所は、まるで世界の縮図のようであった。様々な人々を、感情を、思いを、それらの矛盾をも包み込み、——在る。そんな場所。ここ、クラブSのダンスフロアは、複雑で様々な物事を、ただ在ることでひとつにまとめている世界——奇跡——その物のように僕には思えたのだった。

 そして、そこに——この縮図の中に——救いがあるのならば、それは本物の世界にもあるのだるう。……僕はそう思いつくと、なんだか、とても嬉しい気分になり、それならば、そんな世界をしっかりと見なければと思い、——ゆっくりと目を開く。

 すると、

「今日はずいぶん早かったのね。ユウ」

 ちょうどその瞬間声をかけてきたのは救済、——であるかどうかは定かでないない——気のおけない女友達サキであった。

 このクラブSに来ればほとんど必ずと言ってよい程に出会うことになる彼女は、まるでB級SF映画のヒロインのような露出度の高いキラキラとした服に身を包みながら、今晩も、また当然のように僕の前に現れたのだった。f

 彼女は、その格好の示すがごとく、まるで未来からやって来たかのような、全てを見通したかのような目をしながら、そんな何気ない挨拶を言うのだが、

「今日は早く踊りたかったから」

 僕は、そんな彼女の質問に、慎重にこたえる。

 普段の何気ない会話の中にも、頻繁に言葉の罠を仕掛けてくる彼女の、楽しくもどぎつい蠱惑の中にとりこまれるには今夜はまだ時間は早すぎる。

 そう思って、僕は、少しつっけんどんな感じで言うのだった。

 だが、今夜は少し当てが外れた。薄暗いフロアの隅を切り取るように照らす、スポットライトの明るい光の下で、

「おかげで早く会えたわね」

 サキはただ、にっこりと笑い返して言うのだった。

 変化球をまって構えていたところに虚をつかれた、ど真ん中直球であった。

 ストライクワン。 

 彼女の素直な表情にドキリとして、——その動揺を隠すために少し目を下に逸らせば、そのまま、ぴったりとした露出過多の服装が目に飛び込んできて——。

 ストライクツー。

 僕はその体のラインにまたドキリとなる。

 すると、そんな僕の様子に気づいたのか、

「あっちいきましょ」

 顔を上げれば、悪戯っぽい目で、おもしろそうにサキが僕に微笑んでいるのだった。

 ストライクスリー。 

 ——蠱惑。

 結局は、その夜もサキにしてやられた僕は、彼女と一緒にフロア奥のラウンジに移り、

「乾杯」

 二人のグラスが重なり、僕は、

「今日も楽しいパーティになりそうね」

 と言うサキの言葉に頷くのだった。その夜の彼女に早くも降参した僕であった。

 しかし、その夜は、——パーティは続く。

 敗北——悔恨——が作る、背徳的な甘さを噛み締めながら、僕は、グラスに注がれた苦いジンを、一口に飲み干すのだった。そして、振り返り見るフロアには音楽が、ハウスミュージックが流れていた。

 メランコリーなピアノのフレーズに乗って歌われる、マイナーキーなのにアップリフティングなナンバー。辛いことも楽しいこともすべて包み込んだうえで上昇してゆく意思を持つ、力強くも悲しい調べ。ガラージハウス。シャウトするヴォーカルは、誰かの悲惨な人生のことを歌っていたが、それは不思議に僕の心をポジティブにさせた。

 そこに満ちていたのはグルーヴだった。天まで昇るがごとくに、上昇するピアノの音階。強く、激しいバスドラムの間で、細かく刻まれるハイハット。その素敵なビートに合わせ僕の鼓動が早くなった。僕の身体は自然に揺れた。すると、視線を感じ振り向けば、横で微笑む、サキ。そのの瞳の中、揺れるのは僕の姿。彼女は、同じように揺れながら、楽しげに頷く。……

 ——しかし、その幸せそうな顔は、顔を上げ、僕の肩の向こうを見て少し申し訳のなさそうな表情に変わる。

 そのサキの顔に気付き、目をそっちに向けると、

「友達ときているので……じゃあ後でまた」

 彼女が向かうフロアには初めて見る男の顔。

 僕は、顔をちょっとしかめながらも、胸の奥が少し痛くなるのに自分で自分に気づかないふりをして、笑顔で手を降って、またフロアに戻ると踊りだす。

 照明がフラッシュライトに変わり、光が、フロアの瞬間瞬間を切り取り始めた。笑い顔、苦しそうな顔。感極まった顔、笑い顔。腕が上に。下に。踏み出された脚が、前に後ろに。飛び上がり、空中で止まる。バラバラの瞬間と瞬間が頭の中でつながり、それが僕の中に、僕のグルーヴを作る。ならば、――僕も、その、喧騒と歓喜の躍動に身を任せ、ステップを踏んだ。

 僕は、激しく身体を動かした。すると、たちまち、息が上がり始めるが、そのまましばらくすると、その苦しみは高揚に変わる。ダンサーズハイが始まったのだった。高く高く、太陽よりも高く、僕は昇って行った。高く、どこまでも高く、音の続く限り、心は身体を離れて昇り続けて行くのだった。

 そして、――ブレイク。ドラムロールにあわせて人々の動きが止まり、手を天に向かって掲げながら、その瞬間を待った。

 無音、そして復活するビート。フロアは熱狂の頂点となった。

 ブレイク。共鳴音(レゾナンス)が響く。そのフィルターのかかった音は、どこまでもどこまでも高く昇って行き、合わせて人々は力の限り歓声を上げる。

 ブレイク。曲と曲が、ビートとビートが繋がった。いつの間にか二つの曲が、二つの世界がつながって、僕らは新しい熱狂の中にいた。

 すると、

「今日のヒラヤマくん、いいよね」

 その時、僕の肩を軽く叩き、声をかけてきたのはマイだった。いつも通りの底抜けの笑顔で声をかけてきた、——底抜けに明るく可愛い女の子だった。

 彼女は、いつもどおり一生懸命、——もうすでに一心不乱に踊っていたらしい。その肉感的な身体に、汗だくのワンピースを張り付かせて、——でもそれをまるで気にした様子も無く、無邪気に、しかしとてもセクシーな姿で男どもの注目を一身に浴びながら、僕の前に立つのだった。

 僕は、そんなマイが、今は自分だけに微笑みかけて来てくれているのに、少し優越感のようなものを感じながら、彼女の耳元に口を近づけ言う。

「ああ、今日は惚れさせるって言ってたよ」

「――誰が? ああ? ヒラヤマくんが? 私を?」

 マイは、冗談っぽい口調だが、ありないといった顔で言う。

 僕は、頷くかわりに困ったような笑い顔をした。

 ちなみにヒラヤマというのは、今、ブースの中でプレイ中のDJで、マイに惚れていて何度かアタックをかけてはふられているを繰り返しているが、それでもいっこうに懲りる気配もない、鈍感なのかタフなのか判断に迷うよう男のことだった。

 今日も彼は、良い曲をかけ続けると言う、彼の最も得意な求愛行動を行うのだが、それは、また、いつものように、それはマイには届かなかったようだった。

「じゃあヒラヤマくんには今日のDJはすごい良かったとだけ言っておいて。これならきっと惚れる女の子いっぱいいるわって」

 マイは笑いながら言う。

「それじゃ奴が誤解するよ」

 僕がそれに応える。

 すると、

「続けて言っておいて、私にはとても入る余地ありませんって」

 マイは軽くウィンクをしながら言うのだった。

 その瞬間、ヒラヤマが僕らに気づいてDJブースから手を振る。

 マイは手を振り返し、それを見た僕は、苦笑いをしながら、

「まあそんなんであきらめる奴でもないけどね」

 何も疑いなく自分の勝利を確信して笑うヒラヤマを見て、肩をすくめながら言い、マイは、それに返事をする代わりに可愛く顔をしかめて笑うのだった。

 そして、——その顔の前には虹色のシャボン玉。マイと僕の顔の間をキラキラと虹色に光るシャボン玉が飛んで行く。ベースボールキャップをかぶって、紫のラメのオーバーオールを履いた、まるで少女のように見える小柄な女の子が、おもちゃの銃のような機械で、次々にシャボン玉をつくっては飛ばしていたのだった。

 空中を漂う、虹色に輝く、シャボン玉は、この世に降りてきた星々のように見えた。光輝きながら、ゆらゆらと僕らの間を漂っている星々。その間で踊る僕らは星々の間で遊ぶ巨大な神々のようだった。

 その神々達はみんなこににこと笑っていた。シャボン玉の表面にうつる、ゆらゆらと揺れる虹色の世界。その中に、僕らは皆、ちょっとの間だけ捕われ、はじける。

「それじゃ後でまた」

 マイは、サキと同じ言葉を残してラウンジの方へ行き、ドリンクを取ると、そこで踊るタイミングを待っている店員のゲイダンサーと話し始めるのだった。

 僕はそれを横目で見ながら、マイも「新しい友達」を連れてきたのではないことにちょっとホッとすると、また踊り始めようと、いつの間にかずいぶんと混みあっていたフロアの中に滑り込むように入るのだった。

 僕は、熱狂の渦の中に入るのだった。僕は、むき出しの歓喜溢れるその中に、感情の渦に、体を、心を任せるのだった。

 ちょうどその時、ビートが消え、繰り返されるピアノのフレーズのみが響いていたフロア。人々は、万歳をしながら絶頂の瞬間を待っていた。

 ――そして次の瞬間。

 バスドラムの音の一発でフロアはその日最高の熱狂に包まれる。

 僕も、みんなと一緒に、叫びながらその狂騒の中に入っていった。

 その熱狂の中では僕は何者でもなかった。熱く、熱く、すべてが溶け合った火の玉の一部であった。その時、僕らは熱く、混ざり合っていた。まったく違う音楽がターンテーブルの上混ざり合って行くクラブミュージックのように、――重なり合うビートのように、熱く溶け合い、僕らの心を混ぜ合わせるのだった。

 その時感じた多幸感。僕には、その瞬間は永遠に思えたのだった。その時、その場所、クラブSには、その瞬間ならば、何事でもあり得る。何もかもがある。何もかもが起き得る。そう感じられたのだった。僕はその小さなフロアの中に無限を見たのだった。僕は宇宙よりも広い世界をそこに見たのだった。ならば、僕らは、ただ湧き上がる衝動のままに叫ぶのだった。瞬間の永遠の中、いつまでも。無限のフロアに向かって、どこまでも遠くまで。……


 そして、午前三時。クラバーたちが永遠と呼ぶ時刻を過ぎても、まだまだパーティは続いていた。その時、僕は、フロアの隅のソファーに腰掛けて、自分一人が抜けたところで、当然、何も変わらずに盛り上がるフロアを、空間を揺るがす低音に気持ちよく体を揺すられながら、見つめていたのだった。

 それは、なんだか天国的に気持ちよい状態であった。まだまだ踊り続けたい——フロアに行かなければ——という焦燥感と、それができずに怠惰に心地良いクッションに身を預ける挫折感。その、二つの感情がぐるぐると繰り返す中で生まれる、背徳的快感を楽しみながら、僕は、うつらうつらと、半分眠りかけてしまっていたのだった。

 しかし、すると、

「あの」

 僕は、突然、呼びかけられてハッと目を目を覚ますのだった。

 目の前には白いホットパンツに白いブラ姿の女の子がいた。彼女は、魔法使いのような細長い黒い帽子をかぶり、薄い黒のベールを背中に羽織り、LOVEと書いた金色の文字を貼り付けた籐のバスケットを持っていたのだった。

 僕は、突然声をかけてきた奇妙な格好の女の子の登場に、一瞬、警戒して後ずさり、ソファーの背もたれに身体を押し付けてしまうが、

「よろしければ……」

 彼女は、僕のその様子を見て、面白そうに口元をニヤリとしながら、一歩前に出て、ブラに貼り付けていた綿を千切りながら言う。

「エロスの香りを封じ込めております」

 僕は手渡された綿の匂いを嗅いだ。香るのは麝香の甘い匂いと何か、

「私の秘密の匂い」

 と言われ、何とかえしたら良いか分からず、所在無げに、鼻の前に、綿を持った手を掲げている僕に、

「こちらもどうぞ」

 彼女は、今度は、バスケットから何か平べったいものを取って僕に渡す。

 それはコンドームだった。それを渡された、僕の面食らったような顔を見て、彼女は、またにやりとすると、バレリーナのような流麗なターンで僕に背を向けると、別の男に向けて歩き出す。

 彼女と一緒に後ろをむいた籐のバスケットの反対側には、今度はHATEという文字が貼り付けてあった。僕は揺れるその文字と、むき出しの彼女の背中を見ながら、コンドームを意味も無く強く掴んでいると、

「そのコンドームは穴が開いているわよ」

 と言いながら、サキが僕の横に座るのだった。

 さっき会った時よりもさらに露出度が高くなった彼女の今の格好は、エナメルのビキニのトップだけの上半身に、ライクラ素材のピッタリしたパンツと言うものだった。しかし、その挑発的な格好よりも、薄っすらと首筋から流れる汗が胸にまで続いているのが妙にエロティックだった。

 僕はそんなサキにピッタリと体を寄せられてとてもいやらしい気分になっているのを悟られないように、平静を装いながら言う。

「それがHATEの意味?」

「知らないわ、でも……」サキはなんだか、疲れたような口調で言う。「穴が開いてることを知らせて歩くのが今日の私の仕事よ」

 なるほど、それをいちいち男どもに言うのに飽きてしまったのだろう。なんだか疲れた感じのサキであった。

 でも、そもそも、

「なんでそんなことやってるの」

 僕が少し呆れた口調で言うと、

「彼女の思いつきの意味不明な芸術で不幸な人物が出ないようにねと思って。……ユウには余計なお世話かもしれないけれど」

 サキは、その日の疲労を僕をからかうことで埋め合わせようと思ったのか、少し意地悪そうな口調で答えるだった。

「なぜ?」

「使う機会ないでしょこれ。君、役立たずなんじゃないの」

「いや……」

 僕が反論する前に、サキは、してやったりとでも言うような意地悪な笑みを浮かべながら、立ち上がって、次にコンドームを配られた別の男の所に行くのだった。

 それを見て、

「馬鹿やろ……言ってろ」

 小さな声で独り言を言いながらソファーから立ち上がり、僕は、彼女の後ろ姿に向かって小さな舌打ちをするのだった。

 サキの「役たたず云々」という言葉は、自分が紹介した女の子と、最近、二回連続で、僕がろくにデートもしないまま分かれたことを茶化しているのだったが、——と言っても、僕は。紹介された女の子たちが嫌だったわけでも、僕が「役立たず」だったなどということも決してない。——と思う。

 実際に起きたことといえば、なんとも、いつの間にか六年もいた大学が、やっと終わる頃ともなると、一応東京の企業に就職が決まっている僕に対して、なんだか、その後の人生をかけてるかのような過剰な勢いで迫ってくる、随分とリアルな女性たちから、僕は反射的に逃げてしまっただけだったのだが、……サキはそんな女の子をあえてあてがって、困った様子になる僕の姿を見るのを楽しんでいる風でもあり、——そんな彼女のことを、

「あれはサドだね。天性の」

 と言ったのは今日のDJを終えてから、またマイに告白しては振られてしょげているヒラヤマだった。

 ヒラヤマは、サキの立った後のソファーにすわり、タバコを出しながら、続けて言う。

「なのでマゾのユウにはあってると思うのだけど」

「だれがマゾだって」

「そう言われて嫌なら君は、自分の行動を考え直して見た方が良いね」

「何を?」

「別の良い女の所に行ったほうが良い……例えばマイとかね」

「マイにはお前が振られ続けてるんじゃないのか」

「もうギブアップだよ。マイにはユウが行ってみろよ」

「そう言って何回チャレンジし続けてるんだよ、お前は」

「少なくとも今晩はギブアップだ。今晩はお前がチャレンジしていいぞ」

「そもそも俺がサキと……」

「まあしかしね、正直なところ、お前はサキ以外とはくっつけないよ。たとえお前が迷っても、何年かかっても……マイの方が気になったとしても」

 やけに真面目な顔のヒラヤマ。

「……なんだお前は預言者かい」

 ヒラヤマの言葉にすこしどきりとしながら僕。

「今夜は預言者さ見てみろ……」

 ヒラヤマはフロアを指差した。その時、ちょうど二つの曲がミックスされるところだった。別のプロデューサーにより作られた、全く別の曲同士が混ざり合い、まるでそうなることが約束されていたかのような、絶妙なハーモニーを奏でる中、長いドラムロールが続いて、

「フロアはこの後熱狂に包まれる」

 というヒラヤマの言葉と同時に、——リズムブレイク。

 その瞬間、フロアはまさしく熱狂に包まれたのだった。

 なるほど。

「こんなの予言しなくても分るだろ」

 僕は、ため息をつきながら言う。

 すると、

「つまりそういうことだ」とヒラヤマ。

 僕は苦笑しながら、手に持ったままだったコンドームを、とりあえず、ズボンのポケットに入れると、また立ち上がり踊り始めた。

 その時の曲は、呪術的に変容する電子音に重なる女のあえぎ声、――フレンチキスという曲だった。いつまでも色褪せない名曲、ナイトクラビングの聖歌に盛り上がるフロアの中、僕も万歳しながら叫ぶ。

 まったく、楽しくも、儚く、それ故に貴重な一瞬だった。落ち始めた人生のその無重力の中に浮かんでいられた、夏の日だった。

 この日。

 僕らは、ビートの渦の中、好き勝手に、自由気ままに動き続けられた。

 この頃。

 僕らの世界がまだ秘密と可能性に満ちていた。

 若き夏の日。

 僕はその中にいて、その絶頂であれば、——その終わりも間近であることまど、まだ微塵も考えもしなかったのだった。その時、考えるのは、ただ、——少し熱くなりすぎた心と体のこと。

 僕は、フロアから出てエントランスに向かい、受付の女の子に、

「ちょっと外に出てくるから」と言いドアを開ける。

 もうすっかり朝になっていた外は、すでに蒸し暑くなりかけていたが、まだ風は爽やかで心地よい感じだっただった。なので、僕は、近くのガードレールに腰掛けて、その風に体をさらす。——汗が引くまでぼんやりと、風に吹かれて街路樹が、世界が、不安定に揺れるのをじっと見つめていたのだった。

 ——それはもう十数年も前のこと。

 浮遊感に満ちた若き日。それは、僕という生命の頂点であるがゆえに、その僕の物語の、落下の始まりでもあったのだった。

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