第115話 流血


 私が中学二年生の頃。


 お兄ちゃんはイジメに遭っていた。


 お兄ちゃんが高校三年生の頃だ。


 私と同じ茶髪。


 整った御尊顔。


 格好良いを地で行くイケメン。


 勉強もスポーツも出来る。


 それを疎ましく感じる人間の集合体が、お兄ちゃんを襲った。


 既述の如く。


 悪意の包囲網は日に日に狭まって、お兄ちゃんを追い詰め、悪意に野ざらしにし、その心を摩耗させる。




 ――イジメ。




 端的に言えば、それだけ。


 カタカナ三文字の現象。


 ブロークンハートはすぐ間近だった。一般より機敏な感性を持つお兄ちゃん。その受ける情報量の度合いは私の想像の埒外だ。


 耐えて。耐えて。耐え抜いて。


 お兄ちゃんの心は壊れた。


 ある日、私は、帰ったマンションで血の臭いを感じた。


「――――――――」


 不安。予感。第六感。あるいは虫の報せか。


「お兄ちゃん!」


 お兄ちゃんは……風呂場で手首を切って意識を失っていた。赤い血は鉄分の証。酸素の供給量があまりに不足しているのだ。


 一瞬で百十九番。救急車。入院。


 少しニュースになった。


 学校側も騒然。


 イジメを苦に自殺。


 少なくとも未遂。


 お兄ちゃんは生き続けたけど、心が死んでいた。


「なんで……こんな……」


 教育委員会が詰問。


 イジメの対策本部がPTAで布かれ、早急に事態解決へ。


 私はその間、ずっとお兄ちゃんの看病をしていた。


 イジメの存在が公にされる。


 保護者説明会。


 処罰。


 イジメのグループは退学処分。


 お兄ちゃんは、まだ目覚めない。


「なんで……どうして……」


 こんな不条理が罷り通るのか。


 血の雨が降りそうな心模様。


 ――助けてあげられなかった。


 それが……とても悔しい。


 お兄ちゃんは、一人で戦って、


「…………」


 戦い続けて、


「……お願い」


 心が折れてしまった。


 ――それを弱いと誰が言えるのか。


 拒絶されることの意味を、本当に知っているのは虐められっ子だけだ。


 例え加害者が退学処分になっても、加害者の付けた傷は一生残る。鋭利な刃物で心は出血するのだ。


「お兄ちゃん……」


 縫われた手首。


 ジクジクと出血。


 何もかもが流れていってそうで、


「恐い……。恐いよ……」


 あまりにも恐ろしい。


 けれど現実として…………確固として…………その事態は、其処に…………私の目の前に悠々と存在した。


「もしお兄ちゃんが死んだら」


 どうしよう?


 どうしよう?


 どうしよう?


「けれど……そんなことは決まってる」


 線香のような小さな火が点った。とても……とても小さな火だけど、焼き殺す熱量は含有していた。人間の四、五人程度は殺戮してのける悪意。


 虐めっ子を根こそぎ殺す。


 包丁があれば十分だ。


 人は簡単に人を殺せる。


 ――もう奪われたくない。


 ――略奪されたくない。


 ――死なせたくない。


 仮にお兄ちゃんが死んだら……何があっても殺す。あらゆる連中に報復の攻撃を調達する。それで自分の人生がどうなろうと知ったことか。お兄ちゃんがこのまま助からなければ、私はこの憎悪と折り合いを付けるのは難しいだろう。


 滅せぬ者のあるべきや。


 コインを弾く。


 表なら守護。


 裏なら殺戮。


 ヘドロのような、その感情を、私は持て余していました。


 イジメの償いなんて出来るわけがない。


 子ども頃に痛んだ傷は、大きくなってもジクジク痛む。


 中学生だった私だけど、ソレは予感出来た。


 私も茶髪だったから。


 人付き合いは良い方だったから、災難は逃れたけど、


「それでも」


 生きて欲しい。


 目覚めて欲しい。


 傍に居て欲しい。


 笑って欲しくて、慈しんで欲しい。




 ――大丈夫だよって言って欲しい。




 救われないお兄ちゃんに救いを求める私もまた、お兄ちゃんにとっては虐めっ子かも知れなかった。

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