9-3 全面戦争思考は本当に信じられているのか

 最後に、全面戦争思考に囚われている人々、主に表現の自由戦士などと揶揄される人々が、本心では全面戦争思考を全く信じていないことを指摘しておく。


 全面戦争思考は、少しでも表現に対する規制を認めれば、あらゆる表現が規制されるというものであった。この理論によって、彼らは公からの性暴力表現の一掃などという穏当な批判にも徹底抗戦してきた。


 だが、表現の自由戦士たちの実際の振る舞いは、この全面戦争思考に著しく矛盾していると言わざるを得ない。全面戦争思考を信じるのであれば、「あらゆる表現規制」に反対しなければならないはずである。だが、実際には、「あらゆる表現規制」に対して徹底抗戦が行われたという事実はなく、むしろごく一部の、狭い範囲の表現に対する批判にのみ殊更反発するという振る舞いを彼らはしてきたのである。


 いくつか例を挙げよう。

 例えば、第6章でも取り上げたあいちトリエンナーレである。あいちトリエンナーレに対する補助金が事後的に不交付となったのは、公権力による表現への介入であり、表現規制の最たるものであるといえよう。


 だが、表現の自由を重んじる彼らが、この件で表現を守ろうと動いた気配はない。どころか、彼らが積極的に支持する衆議院議員山田太郎氏は「補助金を出す立場が再検証するというのは当然なので問題ない。圧力には当たらない」といった主旨のことを自身の動画チャンネル内で述べ、表現を弾圧しようとする政府の動きを積極的に看過するに至っている。


 これはどうしたことだろうか。

 なお、表現の自由戦士と、あいちトリエンナーレへ暴力的な「抗議」を行ったネット右翼は思想上近い位置にあることも忘れてはならない。これも、山田太郎氏が、戦時性暴力被害者を象徴する像について、Twitter上で明確に「好みません」と述べたことからも明白であろう。


 もうひとつの例は、この文を書いている時点では記憶に新しい、『異種族レビュアーズ』がTOKYO MXで放送中止となった件である。これは規制と呼べないものだが、ポスターの表現が不適当であるという批判にすら規制であると反応する人々であれば、より大々的な反発が起こってもいいだろうと推測できる。


 だが、やはりこれもそうはならなかった。アニメがシーズンの途中で放送中止になるという、かなり重大な事例であるにもかかわらず、あっという間に忘れ去られた。やはり奇妙なことである。


 トリエンナーレの事例だけであれば、通俗的に指摘されるように、表現の自由戦士はエロ表現しか守らないということになろう。だがその仮説では、『異種族レビュアーズ』に対する反応が説明できない。


 この疑問は、「エロではないが批判が規制だと曲解された」事例を取り上げることで解消できる。


 そのひとつが、前章で取り上げた『はじめてのはたらくくるま 英語つき』の事例である。新日本婦人の会が申し入れを行ったことに強く過剰ともいえる反発があった。思い返せば、共産党議員による、自衛隊が地域の行事に参加することへの批判も、類似の反発を買ってきた。


 表現の自由戦士たちの反発を買った事例と、そうではない事例を比べるとある共通点が浮かび上がる。それは、前者が左派やフェミニズムを基盤とする批判だった一方、後者の規制主体は右派や権力者であるということである。


 先ほど、表現の自由戦士は思想的にネット右翼に近いと指摘した。つまり、彼らには思想的に対立する者からの批判には反発し、そうではないものは見過ごすという、極めてわかりやすい傾向が見て取れるのである。


 そして、その反発の際の都合のいい道具として、全面戦争思考は使われているようなのである。前節で指摘したように、主張の内部を検討する術を持たない彼らは、全面的な否定を振りかざすほかない。


 だが皮肉なことに、全面的な否定を利用したために、かえって自身の振る舞いに決定的な矛盾を生じさせてしまっているのである。もっとも、彼ら自身はそのことに気づきそうもないが。

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