第140話 過去と現在

 

 ヒースは水中のような極光オーロラの中のような美しい空間を漂っていた。周囲を過去の記憶が通り過ぎる。


 ―――エリカはずっと理想の女性だった。


 美しく、クールで、何をしても完璧な年上の女性。時には優しく可愛がってくれ、甘やかしてくれ、時には厳しく叱ってくる。そんなエリカはヒースの憧れの女性だった。

 でも、ヒースは知っていた。エリカは人一倍優しくて、傷つきやすくて、弱い人だということを。いつも心の中は不安に満ち溢れていたことを。

 それを決して表に出さず、完璧な女性を演じていた。

 エリカが16歳になった時、結婚が決まった。その時ヒースは11歳。フェアリア皇国では男女ともに16歳で結婚が可能になる。エリカはウンディーネ公爵家に嫁いで行った。最後まで心の中に不安を抱え、貴族だから仕方がないと諦め、でも、決して表に出さずに美しい笑顔でお嫁に行った。

 結婚して一年ほどは何事もなかった。先代の公爵がエリカを気に入って、実の娘のように可愛がっていたのだ。

 その公爵が、突然急死した。心臓が止まったらしい。

 それから数カ月後、エリカは離婚した。いや、オダマキから捨てられた。

 エリカが離婚後、城に来ていると聞いて、ヒースは塔の部屋を飛び出し、彼女に会いに行った。

 そして、愕然とした。

 美しかったエリカはやつれ、喉に斬り裂かれた傷痕があった。声を失っていた。

 それでもエリカはヒースに微笑んで、優しく頭を撫でてくれた。

 彼女の腕の中で、ヒースは感じ取った。


 ―――エリカの心は壊れかけ、絶望に染まり、死を願っていた。


 ヒースは、父のオベイロンや母のティターニアにエリカを傷つけた人を処罰してと訴えても、両親は首を横に振るだけ。

 事故という報告。証拠がない。何もできない。

 両親の心は怒りと悔しさに満ち溢れていた。彼らはヒースの見えないところで拳を固く握りしめていた。

 それから数日が経ち、塔の部屋にいたヒースは、部屋の前を誰かが通るのを感じた。

 ヒースが住んでいる塔は、監視塔として作られたものだ。当然、見張りのための屋上がある。

 屋上の真下。最上階の部屋は、幽閉用の部屋として作られ、それを改装してヒースの部屋にしていた。

 屋上に向かった人物に気づいて、ヒースは部屋から飛び出して屋上に向かった。そして、今にも身を投げようとしていたエリカの腕を掴んで引き戻し、押し倒した。

 押し倒されても、エリカの心はほとんど無感情だった。まるで生きた屍。

 青緑色の瞳がヒースを捉えても、エリカはこう思っただけだった。


『あぁ……死ねなかった……』


 ヒースは怒り、嘆き、変わってしまったエリカに恐怖した。脆い人の心に、負の感情に恐怖した。

 そんなエリカの頬をヒースは力いっぱい引っ叩いた。ポロポロ涙を流しながら、何度も何度もエリカの頬を叩いた。頬が、手が、真っ赤になるまで叩き続けた。


『死なないで! 死んじゃ嫌! 私が傍にいるから! 死んじゃダメなの! 私の傍にいてよ、お姉ちゃん!』


 泣きながら訴えるヒースの叫びがエリカの無感情だった心に届き、光が灯った。

 そこからエリカは再び元気になった。

 親の反対を押し切り、ヒースの専属メイドになって、身の回りの世話を完璧にこなした。

 喋れなくても、ヒースは彼女の心が読める。何ら支障はなかった。

 性格は昔と少し変わって、ズバズバとクールに本音を述べるようになったが。

 エリカがメイドになって約2年。エリカもヒースも幸せで、引きこもって悪意から極力避けたヒースは、人の心の恐ろしさというものをあまりよく理解していなかった。

 一番最近の記憶が精神世界に漂うヒースの前に現れた。ヒースが気を失う前の記憶だ。

 目の前で斬り裂かれるエリカの身体。噴き出す血液。血だまりに沈むエリカ。

 ヒースはその記憶に必死で手を伸ばした。


『エリカ!』


 指先が、記憶にそっと触れた瞬間、精神世界が地震のように震動し、崩壊していく。世界が闇に包まれると同時に、身体が急浮上する。


「エリカ!」


 叫び声をあげたヒースは、ガバっと身体が起き上がった。記憶が漂う夢の世界から目が覚める。

 目覚めた場所は豪華なベッドの上。自分のベッドではない。香りも柔らかさも違う。部屋の内装も違う。どこか男っぽい。


「目覚めたか? ヒース」


 目が覚めた直後で気づかなかったが、部屋の中に濁った青髪のイケメンが立っていた。オダマキだ。

 ヒースはゾワッと震えが走り、恐怖が湧き上がる。


「エリカ! エリカは無事なの!?」


 ベッドから降りようとするが、身体が上手く動かない。手首と足首の辺りが痛い。縄でギチギチに縛られていた。


「エリカかい? 彼女は無事だよ」


 ニヤッとオダマキが微笑むが、ヒースはその言葉を信じることが出来ない。心が読めないから、彼が本当のことを言っているのかわからない。

 悪意の含んだ笑いに恐怖する。


「エリカに君を頼まれたんだ。さあ、一つになろう! 結婚しよう!」

「嘘つき! 絶対に嫌! エリカ! エリカァ!」

「うるさいなぁ。そんなに騒ぐならエリカのように声を出せなくするぞ!」


 ヒースはビクッと身体を震わせた。


「や、やっぱり、エリカの傷をつけたのは…」

「そう。俺だ。だってママがうるさいって言ったから」


 狂気を孕んだ笑みに、ヒースは震えることしかできない。

 心が読めなくてもわかる。彼は狂っている。


「ママが言ってたんだ。ヒースと結婚すれば、いずれ俺は王になれるって! ヒースは皇位継承権は三位だけど、上の二人が死んじゃったらヒースが女王になる。伴侶の俺は王だ! そして、俺とヒースの子供が永遠にこの国を引き継いでいく! 素晴らしいことじゃないか!」

「狂ってる! 私は絶対に嫌! エリカを傷つけた罰を受けて! 自白も証拠になるでしょ!」

「あれは事故だったんだ。俺が剣を持っていたら、躓いたエリカが倒れ込んできて、偶然首を怪我してしまったんだ。皇王陛下もそう報告してある。証拠は何もない。というか、そんな過去のことはどうでもいい! さあヒース。一緒になろう!」

「嫌!」


 オダマキがゆっくりと近づいてくる。シャツのボタンを外しながら、ベッドに這い上がろうとする。

 逃げ出そうとするが、縛られて動けない。恐怖と絶望で身体が竦む。涙がこぼれる。

 彼の手がヒースに触れようとしたとき、彼女の顔の前に小さな妖精が現れた。


『下がれ!』


 心に直接響き渡る綺麗な声。年老いているような幼いような、不思議な響きの声だった。

 その声に命じられて、オダマキの身体が意識とは関係なく勝手に動いて後退りしていく。


「こ、これは何なんだ!? 何が起こっている!?」

「イルちゃん!」

『ヒース、すまぬ。われのせいだ。人の心の恐ろしさを教えようと思っていたのだが、まさかこうなるとは…。安心せよ。この男にはもう触れさせん。主様ぬしさまも助けに来たしな』


 そう言うと、イルはオダマキを睨みつけた。と同時に、轟音が轟いて屋敷が揺さぶられる。外から喧騒も聞こえてきた。屋敷に侵入者が現れたようだ。


「イルちゃん! 私の封印を解いて!」

『………良いのか? コヤツ、吐き気を催すほど悪意に満ちているぞ』

「いいから!」

『………良かろう。心を強く持て』


 チョンッとヒースのおでこを突いた。その瞬間、封じていたヒースの夢魔の力が解かれる。読心の能力が復活した。

 色鮮やかな虹色の蛋白石オパールの瞳でオダマキを睨む。

 オダマキの身体からは、悪意がオーラのように溢れ出していた。心がどす黒い。腐っている。夢魔の力は、人の悪意を匂いでも感じ取っていた。


「ひぃっ!? おぇっ!」


 あまりの気持ち悪さと臭さに、気分が悪くなって吐きそうになる。


われは注意したぞ』


 イルの言葉も聞こえないくらいヒースは怯えていた。オダマキの心の声が襲ってきて、ヒースの心まで侵食してくる。心が悪意に染まって呑まれてしまう。


「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!」


 ドーン、と再び屋敷が揺れた。

 身体が動かないオダマキは、キッとイルとヒースを睨みつけた。

 制御できない読心の力を使って、ヒースがオダマキの心を読む。


「こ、攻撃がくる!?」

「俺の邪魔をするなぁぁああ! 妖精ぃぃいいいいいい!」


 オダマキの周囲に大量の水の球が浮かび上がる。ウンディーネ家は水妖精の血を色濃く受け継ぐ家系だ。水を自由自在に操ることが出来る。

 水が撃ち出される寸前、イルが小さな妖精姿でオダマキを指さした。


『避けろ』


 撃ち出された水は、イルやヒースに当たることなく、部屋の壁に穴をあけた。

 イルがオダマキの心を操り、水の軌道を変えたのだ。


われがこのまま倒してもいいが、後は主様ぬしさまに任せるか』


 恐怖に震え、涙を流すヒースは、部屋の外に大勢の心の声が聞こえた。ハッとしてその方向を向く。

 その瞬間、轟音が轟き、部屋の壁が吹き飛んだ。瓦礫と粉塵が舞う。


「助けに来たぞ、ヒース!」


 瓦礫を乗り越え、粉塵の中から現れたのは、イルのあるじの男性と、小さな頃から憧れていたメイド服の女性だった。

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