第16話 夢現

「美澄の胸、ふくらんできたよな?」

小学校五年生のときの、哲也のセリフ。

近所の神社で、まるで秘め事を口にするように、哲也は声をひそめて言った。

アニメの美少女のような幼い声に、平均より低い身長。

だけど美澄は、他の女子より発育が早いようだった。

あの頃から、性に対して興味を持ち始めた俺と哲也にとって、その対象は美澄であり葉月であった。

ただ、葉月のことをそういった目で見ることに、俺はいつも後ろめたさを感じていた。

葉月は誰より綺麗だったから。

「葉月はぺったんこのままだな」

まるで小馬鹿にするように哲也は言った。

ムッとして俺は言い返す。

「葉月は誰よりも綺麗だ」

今でも、その気持ちに変わりはない。


電車の四人掛けのボックス席。

どういう訳か、幼馴染の三人が座席を埋めている。

「えっと、葉月?」

俺は窓際に座る、誰よりも綺麗な美少女に問い掛ける。

「何よ?」

不機嫌に見えるけど、その隣の空席に座っていいものか。

そもそも、誰が座ったか判らない場所に葉月が腰掛けるのは、子供の頃しか見たことが無い。

「私だって……努力してるのよ」

出来る限り窓際に身を寄せて座っている。

誰かが隣に座ることを我慢する、ということでもあるみたいだ。

「夏服だと判りやすいな」

哲也がいらんことを言う。

「何のこと?」

葉月も美澄も、顔に疑問を浮かべる。

美澄は順調に育って、今や巨乳と言っていい豊かさだ。

片や葉月は……。

「何よ?」

俺は決して、憐憫れんびんの視線など向けてはいない。

何故なら俺は、葉月のすべてが好きだからだ。

「隣、座っていいのか?」

「空いてるんだから好きにすれば?」

俺は出来るだけ通路側に身を寄せて座る。

「ふん」

不機嫌な声。

葉月の方を見れば、下唇を噛む横顔の向こうに、胸が痛くなるくらい綺麗な海が広がっていた。


二両編成のローカル列車は、海辺をのんびりと走る。

だが俺の緊張は極限に達していた。

隣に葉月が座っている。

それだけでも緊張するのに、俺は微動だに出来ないほど身体を固くしていた。

右の肩に感じる心地よい重みよ。

鼻腔びこうくすぐる甘い匂いと、夏服越しに伝わる愛しい温もりよ。

などと味わう余裕も無い。

「ど、どうしよう?」

葉月を起こさないように、声をひそめて話す。

哲也はニヤニヤ、美澄はニコニコ。

俺はオロオロ、葉月はスヤスヤだ。

「美澄、葉月をそっと窓側にもたせ掛けてやれないか?」

この状態で目を覚ました時の葉月を想像するのが怖い。

美澄は人差し指をバツを作った。

俺は哲也の顔を見た。

くやしいけれど、俺が触れるよりもマシな反応かも知れない。

「いいからそのまま寝かしといてやれよ。今日は疲れたんだろ」

「疲れるようなこと、あったっけ?」

体育の授業は無かったし、暑さにやられるほどの気温でも無かった。

「朝から様子がヘンだったろ? お前もそのことで帰りに俺を誘ったんじゃないのか?」

「それはそうだけど、疲れるっていうのは」

「そいつがさっき言ってたように、色々と努力してたんだよ。たぶん」

朝、触れてしまったときも怒らなかったし、消毒もしなかった。

学校でも、何度か何かを言いかけていた。

今は、普段は座ることの無い座席に座っている。

そうか、葉月は戦っていたのか。

潔癖症を克服しようと、そしてもしかしたら、潔癖症によってギクシャクしている関係も、改善しようと。

それはきっと、精神的にひどく疲れることだったに違いない。

葉月が気持ちを休めることが出来るなら、いくらでも役には立ちたいけれど──って、え?

葉月が俺の右腕を、抱きかかえるように握った。

いや、あの、葉月さん?

長い睫毛まつげを伏せて、気持ち良さそうに眠ってらっしゃる。

ひじに当たる柔らかな感触。

控えめとはいえ、小六の時よりも確かな存在感。

全神経が右肘に集中しているのに、血液は下半身に集中しているようなアンバランスな感覚。

駄目だ、このままでは強張った右腕がりそうだ。

救いを求めて哲也に目を向ける。

あからさまに目を逸らされた。

美澄は──顔を赤らめて見てない振りをしていた。

二人とも俺を助ける気は無いのだと確信する。

あ──終わった。

腕が攣った弾みで、俺の右肘は葉月の胸を突くように力が入った。

「ん……」

葉月がゆっくりとまぶたを持ち上げる。

「あれ? かじゅくん……」

まだ目はとろんとしている。

半分夢を見ているようで、柔らかく口許をほころばせた葉月を見ていると、俺も夢見心地になりそうだ。

でも、判ってるんだ。

そんなの、ほんのひと時の夢だってことは。

葉月の目の焦点が、明確に俺に合わされた。

と同時に、ドンっと強い衝撃が俺の胸を叩き、弾みで通路側に転げ落ちそうになる。

「な、ななななんで!?」

一気に窓際限界まで飛び退いた葉月は、ひどく狼狽うろたえていた。

「私、降りる!」

「バカ、走行中だ!」

「無理っ! 嫌っ! 来ないで!」

葉月は俺と哲也のひざの間を擦り抜けると、走るようにして隣の車両に逃げていく。

「超絶に嫌がられてしまった……」

少しずつ克服しようとしている葉月に、荒療治したようなものだ。

俺は窓の外に目を向けた。

さっきと同じように海が広がっているのに、それはひどくつまらない風景になっていた。

「どっちの葉月がホントなんだかねぇ」

哲也が呟いた言葉は、空耳のように聞こえた。 

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