第9話 葉月の背中
いつもと変わらない朝だった。
電車の中でも葉月は普段通りの態度だったし、昨日、ひょっこり顔を覗かせた子供の葉月は、どこにも見当たらなかった。
でも多分、今から変化が訪れる。
階段を上り、三組への廊下を歩きながら、俺は少なからず緊張していた。
前を歩く葉月の背中。
綺麗な髪と、綺麗な姿勢。
その背中はこれから毎日、手を伸ばせば届く距離にあるわけだが、問題は葉月がどういった反応を示すかだ。
教室に入った瞬間、葉月が足を止める。
いつもの席には前原が座っていて、何となく気まずそうに居ずまいを正した。
「葉月」
文句でも言い出しそうな、厳しい表情の葉月に声をかける。
「お前の席はあっちだ」
葉月の表情は厳しいままだ。
「俺の席の前。えっと、俺と美澄が希望して、先生が聞き入れてくれた」
前原達からの希望とは言わない方がいいだろう。
葉月は俺をちらりと見た。
表情は変わらない。
そのまま何も言わず、新たな自分の席に向かう。
嬉しそうにしてくれるとは思ってなかったし、余計なお世話と怒る可能性も考えていたが、そのどちらでもない冷めた反応だった。
だが今はそれで構わない。
俺は葉月との距離を、これを機会に縮めてみようと思う。
授業が始まっても落ち着かない。
目の前に葉月の背中がある。
こんなに近くで授業を受けるのは、小学校以来じゃあるまいか。
普段は凛とした、あるいはふてぶてしいとも言えるその背中は、こうやってすぐ後ろから見ると、随分と華奢で、ひどくか弱かった。
胸の痛みとドキドキが同時に訪れる。
そわそわして授業が頭に入ってこない。
「ヤバい」
思わず
政太が変な目で俺を見る。
一応ノートを取る。
あまり視力の良くない葉月が、万が一、振り返って俺のノートを見ないとも限らないので、馬鹿みたいに丁寧に書く。
手汗をかいたのでウェットティッシュで
「和真」
政太が小声で話し掛けてくる。
「なんだ」
政太はちらりと葉月の方を見る。
「まさか緊張してんのか?」
「……めっちゃしてる」
「そ、そうか」
「どうしよう?」
「いや、俺に言われても──」
政太が目を見開いて葉月を見た。
政太の席からは斜め前に当たるから、少しは横顔が見えたのだろうか。
「どうした?」
「い、いや、何でもない」
「葉月の綺麗さに、今頃ビビったのか?」
「いや、お前、本人を前に何を」
「ばーか、葉月はこんなこと言われ慣れてるっつーの」
「あ!」
「え?」
葉月が振り返った。
「うるさい」
「……」
怒られてしまった。
休み時間、葉月が席を立った。
たぶんトイレにでも行ったのだろう。
「聞いて驚くなよ、なんとあの葉月ですらトイレに行くのだ」
政太が呆れ顔になった。
「それにしても、俺はダメかも知れん」
「何がだ?」
呆れつつも聞いてくれるようだ。
「葉月を怒らせてしまった。こんなうるさい席は嫌だと思ったに違いない」
距離を縮めてみようという思いが、簡単に
「そんなに怒ってないだろ」
「いや、顔を赤くするほど怒ってた」
「……」
「そういや、さっき何で驚いた顔してたんだ?」
「ああ、あれは」
政太が廊下側を振り返る。
葉月が帰ってきてないか確認したのだろう。
「いや、あまりに可愛かったもんだからさ」
「は? 葉月は綺麗だが可愛いぞ? 何を当たり前のことを」
「そうじゃなくて、お前が緊張してどうしよう、って言ったとき、ふわって微笑んだから」
「は?」
「で、お前がどうしたって俺に訊いたら、しーって言うみたいに人差し指を唇に当てた」
「何それ可愛い」
「だから可愛いって言ったんだよ」
「でもそれって、静かにしろってことだろ? で、それでも喋ってたから怒らせてしまった」
「お前、それマジで言ってんの?」
「マジじゃなきゃ何なんだ」
「……何となく、関係を
何となくではなく、原因は俺と哲也にあるのに、コイツは何を言ってるんだ。
それに……ほら、戻ってきた葉月は、やっぱり不機嫌そうな顔をしている。
「いいか政太、授業中は話し掛けるなよ」
「へいへい」
葉月が席に着くと同時にチャイムが鳴った。
葉月のトイレが中途半端に時間が長かったのは、また手を洗い過ぎていたからだろう。
冬じゃないから手荒れは大丈夫だろうけど、綺麗な白い手が、赤くなっていなければいいなぁ。
次の授業は静かだった。
俺も政太も喋らなかったし、みのりちゃん先生は怖いと思っている生徒が多いので、先生の声だけが教室に響く。
「じゃあ、ここから先、三島さん読んでくれる?」
「はい」
葉月が立つ。
よく通る声は、前の席で聞きた──なっ!? ケツ!?
葉月のケツが、いや、愛らしいお尻が、俺の目の前にあった!
え、ちょっと、あれ?
前の席の女子が立った時って、こんなに衝撃的だったっけ?
しかも葉月はちゃんと机の下にイスを入れて立つから、遮るものが何も無い。
更に葉月は脚が長いから、お尻の位置が高い。
見てはいけないと思い、俺は思わず机に顔を伏せた。
「日野君、顔を上げなさい」
先生の言葉に、教科書を読んでいた葉月の声が止む。
振り返る気配がした。
「気分が悪いの?」
え?
頭上から降り注ぐ優しい声。
教科書を読む声よりもずっと好きな、懐かしい葉月の声だった。
何かに焦がれるような思いで顔を上げる。
……ああ、葉月にこんな顔をさせてはいけない。
コイツは潔癖症であるけれど、昔から心配性でもあるのだ。
「葉月の、お尻を見ちゃいけないと思って」
葉月の心配は、瞬時に表情から消える。
正直に答えて良かった。
心配そうな葉月の顔は見たくない。
ただ、手にしていた教科書を、高く振りかざすのが見えた。
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