第8話 優しい命令
駅から少し下って海
入り江の奥なので波は
コンクリートで護岸されているが、覗き込むと熱帯魚みたいに鮮やかな青色の小魚が群れている。
ソラスズメダイという魚で、子供の頃によく捕まえた。
風は無く、潮の香りはあまりしない。
もう夕方と言っていい時間なのに、気温も下がらず湿度も高い。
嫌だなぁ……。
三
呼吸を整え、汗をかかないようにゆっくりと歩き出す。
真っ直ぐ進めば俺の家だが、左の坂道を選んだ。
緑濃い斜面が近付いてきて、振り返ると入り江が見渡せる。
民家の密集した辺りに俺の家の屋根も見える。
俺はデオドラント用品で汗を拭き、除菌ウェットティッシュで手を
坂道を上りきった先にある大きな建物は、葉月の家が営む旅館だ。
葉月の住まいは、その隣に付随物のようにあるが、それだって俺の家よりずっと大きい。
旅館の方を訪ねるべきか、家の方を訪ねるべきか迷う。
汗をかいたから、葉月本人には会いたくない気がする。
そもそも風邪で休んだのだから、本人は出てこない可能性が高いが、一目見たい気もする。
いや、気もするなんてあやふやなものじゃなくて、会いたい。
でも、出来れば両親には会いたくない。
当然というか、あの事件以来、葉月の両親は俺や哲也を快くは思っていない。
そりゃそうだろう、娘が泣きながら上半身裸で帰ってきたのだから、どんな悪さをされたのかと激怒するところだ。
勿論、俺と哲也は謝りに訪れた。
葉月から理由は聞いていたらしく、変な誤解こそされなかったがぶん殴られた。
子供心に植え付けられた怖いお父さんという印象は、高校生になっても拭えないもので、旅館を目の前にすると少し足が
旅館の従業員さんに渡すのが、いちばん無難なのだが。
俺は鞄の中の、現国のノートと今日の授業のコピーを見た。
……。
別に今日でなくても、明日、学校で渡せばいいのにここへ来たってことは、つまり、そういうことだ。
俺は葉月の家の方へ足を向けた。
呼び鈴を押してからの十数秒が長い。
また手のひらが汗ばんできたように思えたので、ウェットティッシュで拭う。
引き戸のガラス越しに小さな影が見えて、俺は大きく
葉月のお婆ちゃんだ。
「ああ、和君、久しぶりだねぇ」
柔和な笑み、親しげな口調。
葉月のお婆ちゃんは、子供の頃から可愛がってくれた。
「葉月の見舞いに来てくれたの?」
「いえ、あの、これ、今日のノートです」
いつの間にか、子供の頃と同じ口調では話せなくなってしまったけれど。
「あらあらわざわざ。上がっていきなさい」
お婆ちゃんは変わらない。
昔みたいに、当たり前のように迎え入れてくれる。
「いえ、もう夕食時なので」
「じゃあちょっと待っててね。葉月―、葉月―!」
いや、ちょっと待って! 緊張が解けたところだったから心の準備が!
「なぁにー、おばあちゃ──」
玄関奥の階段から、寝間着姿の葉月が降りてきた。
あと数段というところで固まってしまったから、その可愛らしい姿を凝視してしまう。
「ちょっ、何であなたがいるのよ!」
葉月は身を隠そうとでもするように、その場でしゃがみ込んだ。
ちくりとドキドキとぽわーんが同時に訪れて、何故だか駆け出したくなる。
「あの、今日のノートのコピーと、借りてた現国のノート……」
「もう、そこに置いといて!」
いつもの冷ややかな表情が影をひそめて、子供の頃の葉月が顔を覗かせる。
夏の陽射しと海風と、真っ白なワンピースと青い海。
「葉月! お、俺……」
あれ? 何を言おうとしてるんだ?
思考が停止して言葉に詰まる。
高まった感情が胸を
「なに?」
葉月は、少し優しくなった口調で言い、小首を傾げた。
「いや、その、ノートありがとう。じゃ!」
駈け出そうとする。
でも──
「待ちなさい」
優しく命令された。
その声に、俺は絶対に逆らえない。
俺は振り返った。
葉月が目の前にいた。
「えい」
「わぷっ」
顔面に噴射された霧状の液体。
下駄箱の上に置かれていた、除菌アルコールスプレーであることは直ぐに判った。
食用にも使えるものだけど、吸い込んでしまったので
「こらっ、葉月!」
お婆ちゃんの
「気を付けて帰るのよ」
そしてまた、優しい命令口調。
君はいつもそうだった。
遊び疲れた
──和くん、気を付けて帰るのよ──
ああ……。
失くしてしまった宝物を見つけたみたいに僕は子供に帰る。
でも子供にはなりきれずに、
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