第10話 〈ドイツのお母さん〉アンゲラ・メルケル


アンゲラ・メルケル(1954年7月― )

2000年からCDU党首を務め、2005年から第8代ドイツ連邦共和国首相。東ドイツ出身の初めての首相。ドイツ初めての女性首相。最年少の首相、物理学者の首相。最初は〈コールのお嬢さん〉、暫らくして、その服装に構わないスタイルから〈東から来た灰色のネズミ〉と云われた。今や「世界で最も影響力のある女性100人」で5年連続1位、〈ドイツのお母さん〉と云われている。「待ちの政治家」と云われているが、やるときは、やるのです!!


生い立ちと経歴

アンゲラはハンブルクで生まれた。父ホルストがベルリン・ブランデンブルク福音主義教会(プロテスタント)の牧師として東ドイツに赴任することになり、生後数週間のアンゲラは1954年に両親と共に東ドイツへ移住する。母はラテン語と英語の教師であった。人は育った家庭や国、時代の影響を一番に受ける。

父からは敬虔な宗教心を、母からは語学の才能を受け継いでいる。特にロシア語はプーチンも一目置くほど流暢なものであった。「完璧主義すぎる傾向」は父親の影響を受けていると自ら語っている。難民問題や環境問題に見せた人道主義的側面は牧師を父親に持った影響と考えていいのだろうか。

在学中の77年に同じ学部の学生だったウルリッヒ・メルケルと結婚。現在の姓は彼に由来するものである。しかしこの結婚生活は4年で終わっている。78年、優良の成績で卒業、東ベルリンにある科学アカデミーに唯一の女性助手として就職し、理論物理学を研究する。ここで現在の夫ヨアヒム・ザウアーと出会うが、2人が結婚するのはずっと後の98年である。1986年博士号を取得。


ベルリンの壁崩壊・政治家の道へ

この日まで普通の一般人であった彼女は、このベルリンの壁崩壊(1989年)で劇的に人生の方向を変える。壁が崩壊後、科学アカデミーを辞職し、突然政治の道を志す。東ドイツで行われて最初で最後の自由選挙で〈民主主義の出発〉の結党メンバーになる(統一後CDUに合流)。同党では報道官を務めた。10月3日の統一後CDUに入党し、1990年12月の連邦議会選挙で故郷メクレンブルク=フォアポンメルン州から出馬して初当選。初当選議員ながら、第4次コール政権の女性・青少年問題相に抜擢された。この抜擢はコールが“東西統一マスコット”を欲したからだと云われた。次の第5次コール政権では環境・自然保護・原発保安担当大臣に就任させているから、単なるマスコットではなかった証明だろう。コールの贔屓を受けて〈コールの御嬢さん〉とのあだ名をつけられる。


特別な政治活動も、体制不満も口にしていない彼女が、何故突然に政治活動を志したのかは興味あるところである。彼女の物理学専攻も東ドイツで社会科学方面の勉強を避けたかったからだと云われている。ベルリンの壁崩壊はドイツ人なら誰もが感激することであるが、彼女の感激はそれ以上とも思えない。

しかし人は自然と培われたものが、あることをきっかけに弾けることがある。当時、東ドイツでは外の世界を見る機会は原則ない状態であった。そんな中でメルケルは2度その機会を得ている。キリスト者として社会主義に一定の理解を持っていた赤い牧師と云われた父の計らいがあって可能だった。一度目は大学2年生の頃、友人達とロシア旅行をしている。その帰りに寄ったチェコでプラハの春に遭遇する。しかし旅行に戻った後、学校ではプラハの春について教師達から知らされることは一切なかった。この一件から、若い頃のアンゲラは下手に社会主義圏内の混乱について語らないこと、沈黙を守って生活していく大切さを感じとる。

2度目は親戚の結婚式参加のため1986年、西ドイツのハンブルクへの旅行を東ドイツ政府から許可された。メルケルは旅行を通じて、西ドイツ側の進んだ技術、自由な社会を目にし、東ドイツで自由選挙が実施されるなら、東ドイツ国民は西側の体制を望むだろう、ソ連でペレストロイカが始まったことも鑑み、東ドイツ体制は持たないとだろうと確信したのである。

この2度の旅行体験とベルリンの壁崩壊を目にしたことを結びあわせれば、政治の世界に舵を切ったのはあながち不思議に思えないのである。彼女の友人がその転身に驚きながら、メルケルの日頃の性向からすると緑の党ではないかと思ったと云っているが、メルケルの中にはキリスト教の環境が存在したと云うべきだろう。


メルケルに自らの性格を説明するお気に入りのこんなエピソードがある。学生時代の水泳の授業で高さ3メートルの台からプールへ飛び込むよう云われて、運動が苦手なメルケルは45分間も飛び込み台上でじっと立っていて、授業が終わる寸前に飛び込んだと云う話で、「私もいざとなったら決断するのです」と語ったという。重要な判断に慎重な姿勢を取るかと思うと、時には大胆に決断するメルケルの政治姿勢を語って面白い例だと私は思う。


コールの不正献金疑惑

35歳にして科学者から政治家に転向、51歳にして首相。州政府の首相、市長としての経歴も実績もない、特別な党活動を通しての党内基盤も出来ていない中で、余りにも早い出世階段と云える。これも不思議な話である。メルケルには幸運が作用した。

まず“東西統一マスコット”としての幸運。時代の幸運である。絶大な権力を保持していたコールの寵愛。しかし幸運だけで権力の階段のトップに上れるものではない。


1998年選挙に敗れて党首を退いたコールであったが、党内における力は隠然としたものであった。またシュレーダー政権の不人気を見て次の選挙に再登板の意欲を見せていたのである。1999年、11月そのコールにヤミ献金疑惑が発覚した。この時に見せたメルケルの行動は〈待ちの政治家〉ではなかった。メルケルはいち早く『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に寄稿してコール元首相を痛烈に批判した。党内議論の批判ではない。紙面にということは国民に対しての直接メッセージである。この時のメルケルの立場は党幹事長であった。その幹事長に推薦したのがコールの後を継いで党首になったヴォルフガング・ショイブレであった。翌年2月そのジョイブレにもコール党首時代の1994年に武器商人から不正献金を受けていた疑惑が発覚する。これによって党首ショイブレが辞任。ショイブレの党首・議員団団長(院内総務)の役職はメルケルに党首、フリードリヒ・メルツに議員団団長と振り分けられた。さらにヤミ献金疑惑はヘッセン州・州知事ローラント・コッホに飛び火。彼は二世議員でCDU の嫡流として連邦首相の座も狙える位置にいた。


2002年の総選挙では、姉妹政党であるキリスト教社会同盟 (CSU) のエドムント・シュトイバー党首兼バイエルン州首相が、保守陣営の首相候補となる。普通党首が首相候補になる。いかに党首メルケルの党内基盤が弱いかが分るだろう。その協議の際、メルケルは首相候補を諦める代わりに、総選挙後に連邦議会議員団長のポストを得るという密約をしたいわれている。この総選挙は野党連合の惜敗に終わり、シュトイバーの初のバイエルン出身首相という野望は潰えたが、メルケルは選挙後に、ライバル視されていたフリードリヒ・メルツのCDU/CSU連邦議会議員団長のポストを奪い取っている。こうして党内で押しも、押されぬ地位を築きあげたのである。やるときはやるのです。

メルツはメルケルが党首辞任をしたあと、メルケルが推薦した女性候補アンネグレート・クランプ=カレンバウアーと党首選を競って敗れている。


この不正疑惑の発端は長年CDUの財務担当であったヴァルタ-・キ-プが脱税容疑で起訴されたのである。たわいもない脱税事件と思われていたのであるが、銀行口座や帳簿の分析などから、CDUが二十年以上にわたりヤミ献金をプ-ルするための秘密口座を、スイスなどに隠し持っていた事実が浮かび上がったのである。党首だったコ-ル前首相が、多額の献金を受け取っていながら、その事実を役員会に隠し、法律で義務付けられた議会への報告を怠っていたことを認めたのである。コ-ルは「不正献金は政治活動に使ったもので、私腹を肥やしたことはない」と言い張ったが、献金者の名前は約束で云えないとした。隠し続けている限り贈収賄の疑いは消えない。上記のように党内有力者にも飛び火し、戦後ドイツで最大の政治スキャンダルに発展したのである。

政治家のスキャンダルと云えば通例、金か女になる。日本では首相の女性スキャンダルは致命傷になるが、ドイツではそれは政治家も一人の人間と見られる。しかし金で法を犯したことには厳しい。次の選挙にはCDUはイメージ的にもメルケルを首相候補とするしかなかった。


2005年の連邦議会選挙では、シュレーダー政権における「アゲンダ2010」を厳しく批判した左翼党(PDS )が50議席以上を獲得して緑の党を上回り大きく躍進した。CDUは第1党になったがSPDとは僅差であった。いろんな連立組み合わせの連立交渉が模索されたが、結局CDUが首相を取るのと引き換えに、16ある閣僚ポストのうち半数の8をSPDに譲るという妥協が成立(2度目の大連立政権)。メルケルは第8代連邦首相に就任した。51歳での就任は歴代最年少であった。


1期目

行き過ぎた「アゲンダ2010」の行き過ぎた部分を微調整、人権外交、家族政策が見るぐらいで、メルケルの政策には果断さはなく対処的なものではあったが、無難に大連立を維持した。


2期目

2009年9月の総選挙でCDU/CSUが勝利。SPDとの大連立を解消し、新たにFDPと連立政権を樹立する。ギリシャ財政破綻問題ではドイツが多額の財政支援を負ったが、ギリシャに緊縮財政を取るよう毅然とした姿勢を示した。これをヨーロッパ統合の動きにブレーキがかかるとフランスは危惧したが、メルケルは財政規律を守ることを優先すると、これを跳ね除けた。ヨーロッパ統合における独仏の力関係が逆転した瞬間である。ヨーロッパにおけるメルケルの存在を見せつけた。


福島事故、チェリノブイリとは違ってドイツと同じようなテクノロジー国家日本で起きたことは、ドイツ国内の原発不信を増大した。地方議会選挙で緑の党が躍進するなど与党が相次いで敗北。メルケルは脱原発法案を見なおして、原発の稼働時期を延長する方針だったが、この情勢を見て5月には「2022年までに国内17基すべての原発を閉鎖する」という方針を示し、新たなエネルギー政策へと転じたのである。シュレーダーの時の原発全廃法案によって新設は禁じられ原発が17基のままであったことは、53基の日本と違って脱原発に転じることを容易にしたと思える。機をみて国民の反応に応じる柔軟な政治姿勢と評価されるが、私はやはり科学者としての冷静な判断があったものと理解する。


3期目

2013年の連邦議会選挙では、支持が低迷していた連立相手のFDPは惨敗し、全議席を失ってしまった。このため、CDU/CSUとSPDで3か月にわたる協議の末再び大連立を組むことになり、12月17日に第3次メルケル内閣が発足した。

3期目の大問題といえば、移民・難民問題である。シリア内戦等によって大量の難民がヨーロッパに押し寄せた。2015年8月メルケルは難民のドイツへの受け入れを表明した。「ドイツは助けが必要な人を助けます。他人の尊厳に疑問を投げかける人や、法的・人的助けが求められる状況で援助に前向きでない人などを(ドイツは)容認しません」などと述べ、大規模の難民受け入れに積極的な姿勢を示した。それを聞きつけた難民・移民らが一斉にドイツを目指した。


そして8月下旬ドイツはダブリン規約を停止しシリアからの難民がドイツで難民申請できるようにした。多くのEU加盟国が難民の流入に拒否反応を示す中、ドイツだけは食料や衣類を難民に寄付し難民申請が終わるまでドイツに居住させることに賛成した。ドイツ政府は同年9月上旬の段階で80万人もの難民を受け入れ、必要があればさらに受け入れるとする声明をだした。「ドイツが多くの外国人にとって希望の国になっていることが嬉しいのです。これは私たちの国の歴史観にとってとても価値あることです。」とメルケルは述べた。


国内外から賛否両論が巻き起こった。しかし国内世論がメルケルに不利に作用するようになったのは同年12月末から元旦かけて起きた〈ケルン大晦日集団性暴行事件〉である。ケルン中央駅とケルン大聖堂前の広場にてアラブ人・北アフリカ人を主体とした1,000名によって女性に対する集団性的暴行・強盗事件が繰り広げられた。警察は性的暴行、強盗による女性からの被害届が516件(1月10日現在)あるとした。これによって国内世論は完全に逆転し、移民難民受け入れに反対する極右や右派「ドイツのための選択肢」(AfD)が勢力を増し、これに危機感を感じる国民がさらに移民難民受け入に慎重になるという悪循環が起きたのである。


4期目

2017年9月の総選挙では、CDU/CSUは246議席を獲得して第1会派を維持したが、改選前より議席を減らした。また極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の台頭を許したことから、「2015年の難民受け入れによる結果である」とロイターに報じられた。過半数に届かず連立協議が開始されたが難航した。2018年3月になってようやくSPDが党員投票を経て再び連立政権に入ることとなり、ようやく4次メルケル内閣が発足した。

しかし同年10月のバイエルン州、ヘッセン州での州議会議員選挙でCDUは苦戦を強いられ連敗。10月29日にメルケルは同年12月に行われる党首選挙には出馬せず、首相は続投するが、2021年の任期限りで政界を引退する意向を表明した。


メルケルが首相になった当時は統一後の経済不振で『ヨーロッパの病人』と云われていた。ギリシャ危機で指導力を発揮できたのはドイツ経済の強さがあってのことであった。メルケルが4期まで続けられた基底には経済の回復と好調があった。その経済を回復に向かわせたのは、あのシュレーダーの「アデンダ2010」が寄与したことは確かである。ヨーロッパにおける存在感はドイツ経済の強さもあるが、やはり統一したドイツの存在を抜きには語れない。統一の大事業をなしたのはコールである。

メルケルは何をなしたるや、いかなる大事業をなしたと問われると歴代首相の上に存在できるのであろうか。ギリシャ危機の舵取りであろうか、脱原発に舵を取ったことであろうか、財政規律を守った(日本と比べればよい)財政の健全さであろうか。それぞれは評価に値するものであるが大事業とは言えない。4期目途中で党首交代を表明したのは寛容な難民受け入れ政策であった。いかんせん、押し寄せた数が尋常ではなかった。今も難民は続いている。国民世論動向を見守る政治家としては、いささか早くに反応し、理想を掲げすぎたのではないか。

コールはメルケルが中東などからの難民に国境を開放したことを受け、「欧州は、世界中で困難に直面する数百万人の新たな故郷とはなり得ない」と名指しを避けて批判した。

トランプ大統領はツイッターへの投稿で「移民問題がすでに危うい状態のドイツ政府に揺さぶりをかける中、ドイツ国民は統率者に背を向けつつある。ドイツ国内の犯罪も増加している(これは事実に反している)。欧州の文化を激しく変化させている数百万人の移民を欧州全体で受け入れることは大きな間違いだ!」と批判した。

アフガニスタン、イラク、シリア、IS、中東の混乱にアメリカは関係ないと云うのだろうか。

トランプ氏の登場は、メルケルを〈世界の良心〉と思わせる役割を果たしてくれた。


私は、難民受け入れに見せた姿勢、脱原発に転じた姿勢こそが後年、彼女をドイツの中で歴史に残る首相にすると思う。逆を考えてみよう、難民受け入れに不寛容であった。脱原発から原発容認に転じた。で、歴史的評価をえるであろうか!


個人的な趣味等

エカチェリーナ2世を尊敬しており、オフィスに彼女の絵が飾られている。


夫ヨアヒム・ザウアーはドイツの量子化学者。フンボルト大学ベルリンの教授である。ザウアーには前妻と二人の息子がいる。メルケルとの関係が噂されたタイミングで破局、俗に言う、略奪愛をメルケルはヤッてのけたのです。

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