第9話 経済の外科医・シュレーダーの評価は?
ゲアハルト・シュレーダー(1944年4月― )SPD
首相在任(1998年―2005年)。東西統一の負荷は大きく90年代のドイツ経済は『欧州の病人』とまで云われた。CDUのコールとメルケルの間を繋いだ外科医と云えようか、彼の振ったメスは、自党にも国民にも不人気なものであった。しかしメルケルはこの相手前首相に感謝の言葉を贈った。
生い立ちと経歴
ゲアハルトには父親の記憶が無い。出稼ぎ労働者でドイツ軍の下級伍長だった父フリッツは、息子が出来たことを知った数週間後に、ロシア戦線に送られルーマニアで戦死した、母と姉と三人家族で敗戦後の極貧生活の中で育つ。
1958年、国民学校の義務教育を終えると、町の陶磁器商や金物商で見習い店員をしながら夜間学校に通い中等教育修了資格を取得、その後大学入学資格も取得。66年ゲッティンゲン大学に入学し、法学を専攻した。学生時代に結婚(その後離婚)第一次司法試験に合格し大学を卒業。司法修習生となる。この間に二度目の結婚をする(その後離婚)76年、弁護士免許を取得した。
SPDには63年に入党している。1980年、連邦議会議員に初当選。1986年、ニーダーザクセン州の州議会議員に転じ、1990年ニーダーザクセン州の州首相となる。98年、「新しい中道」をキャッチフレーズに、SPDの連邦首相候補として連邦議会選挙に再出馬して当選。この選挙でSPDが議会第一党を獲得、同盟90/緑の党との連立で16年ぶりの政権交代を実現し、第7代首相になる。
緑の党
いままで連立といえば保守党のFPDであったが、緑の党が出て来た。ドイツには昔からエコロジーの伝統があり、1970年代から環境意識がたかまり、保護団体が政治活動を始めていた。そこに68年学生運動出身者が多く合流して来て左派色を強め、反原発と自然エネルギーの推進運動を展開しながら勢力を伸ばして来た。1986年チェルノブイリ原子事故があり、ドイツの国土も放射能汚染にさらされた。翌年1月に行なわれた連邦議会選挙で得票率を一挙に8.3%に増加させた。同盟90は東ドイツで初めて行われた自由選挙で生まれた民主団体で、93年に緑の党に合流した。98年の連邦議会選挙では47議席を保持し、SPDとの連立政権(赤緑連合)を組むことで初めて政権与党となった。外相、環境大臣、保健相の3つを獲得した。
緑の党が加わったことで、99年環境税を導入、2001年、原子炉の稼働年数を32年に限る「脱原子力法」を施行させた(23年には原子力発電が全廃になる計画だった)。企業側、特に電力業界からは猛反発があった。シュレーダーが即時全廃の緑の党との間に入って纏め上げたのである。企業よりの年金改革・社会保障費削減を掲げるシュレーダーに経済界は妥協した。これによって、左派色の強い緑の党もシュレーダーの出してくる「アゲンダ2010」に正面から反対できなくなった。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受け、「アメリカ合衆国との無制限の連帯」を表明。「不朽の自由作戦」にはドイツ連邦軍の参加を決定したが、
アメリカによる『大量破壊兵器』を口実にしたイラクへの攻撃にはフランスとともに不参加を表明。これは国民からも大拍手、低落傾向にあった支持率アップに貢献、選挙運動期間中の8月に発生したザクセン地方の大洪水の被災地に対する迅速な救済措置もあって、2002年の連邦議会選挙でSPDの僅差となった。シュレーダーは2期目の政権運営に入った。
「アゲンダ2010」
シュレーダーに託されていた最大の課題は統一後の経済の停滞をどのように打破するかであった。2期政権目の2003年3月、経済のグローバル化や成長戦略を視野に入れた改革プロジェクト「アゲンダ2010」を発表した。
その内容は新自由主義的と捉えられる、おおよそSPAらしからぬものであった。最大の狙いは労働コストを削減することであった。賃金付随費用、企業が賃金勤労者に以外に支払う費用、公的年金、健康保険、失業保険、労災保険、介護保険等である。ドイツの手厚い社会保障費用が、グローバル化が進む世界経済の中で企業にとっては足枷となってきていたのである。企業経営者はこれらが収益圧迫し、雇用の拡大を阻んでいると政府に改革を求めたのである。
シュレーダーが最も重要視したのが雇用市場と失業保険制度の改革だった。失業者数を大幅にへらす、再就職せざるを得ないようにさせるには手厚すぎる給付金を大幅に減らすことだと考えた。最初の1年間は二つ給付金が並行して払われ、中高年の失業者には、保険料の払い込み期間や金額によっては異なるが、最長32カ月であった。これを18カ月に削減。雇用市場が硬直化しているとの声には、解雇関連法改正でその柔軟化を計った。これらの改革案を立案したのはハルツ委員会であった。ハルツはVW社(フォルクスワーゲン)の人事担当者であった。本社はニーダーザクセン州にあり、州政府は20%を保有する大株主で、シュレーダーは同州の首相を8年間務め、同社の監査役を務めた。そのような関係でハルツを指名したのである。企業所得税の大幅減税、キャピタルゲイン税の廃止(企業の持つ保有株を資本化出来た)、これらは統一後急速に進むグローバル化に備えたものであったが、社会保障費を削減した上に企業優遇とみられ、国民の猛反発を受けたのである。
リベラル政党SPDが、保守党が行うべき政策を断行したのである。SPDの党員数は激減した。党内左派は一部分党し左派党を作った。当然、これらはシュレーダーの党内基盤や政権基盤を崩すものであった。政権への不満からデモが頻発。SPDの支持率が低下したことを受け、3月にSPD党首を辞任した。アゲンダは2010というように、10年先を見据えたものであり、効果がすぐに出るようなものではなかった。2005年、失業者が戦後最多500万人を突破した。地方議会選挙での連敗を受けて、起死回生を狙って、連邦議会を解散して9月総選挙に打って出た。SPDは圧倒的に不利という事前の予想を覆して善戦したが、CDUに4議席及ばず第二党へ転落。長い協議の末首相の座を退き、CDU党首アンゲラ・メルケルに譲ることになった。
労働組合が頑強に抵抗しなかったのは政権がSPDであったからで、もしCDUが政権側であれば、組合は強く抵抗したはずである。本来保守党が行い国民の怨嗟の的になるべきだった政策をシュレーダーは断行したのである。シュレーダーは「負け犬」となって政治の舞台から退場し、無傷のメルケルは前倒し選挙によって1年早く首相になったのである。メルケルはシュレーダーが撒いた種から果実を刈り取ることが出来た。
「わたしはシュレーダー氏が『アゲンダ2010』によって改革のための扉を勇気と決断力を持って開き、さまざまな抵抗にも関わらず、この改革を実行されたことに個人的に感謝したい」と首相就任の挨拶の中で語った。所信表明演説で野党前首相をここまで賛美するのは極めて異例のことであった。
首相を退いて、連邦議会議員もやめた。そして再就職、それがまた物議をかもしたのである。ロシア国営天然ガス会社ガスプロムの子会社「ノルド・ストリームAG」の役員に就任したのである。ノルド・ストリームとはバルト海底を経由してロシア・ドイツ間をつないだ天然ガスのパイプラインのことである。この協定は2005年、プーチン大統領とシュレーダー首相との間で結ばれたものである。
シュレーダーは、首相を退任して議会の隅でぽつんと座っているのは、自分の好むところではないと語っている。
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