第7話 150人の命を救った首相・ヘルムート・シュミット

(1918年- 2015年)SPD。

国防相、経済財務相等を歴任したあと1974年-1982年の間首相在任。ピアノを弾く宰相だった。エッシェンバッハら一流の演奏家と一緒にモーツァルトを奏でるなど、音楽や芸術への造詣が深かった。


生い立ちと経歴

ハンブルクで生まれる。両親はいずれも教師だった。しかし父親はユダヤ教徒の商人と女性給仕の間に生まれた私生児で、ナチスの政権獲得後にユダヤ人に対する差別と迫害が始まると、父は書類を偽造してアーリア人である証明書を得た、とシュミット自身が告白している。その出自ゆえにナチスに対する反感は持っていたが、ナチス左派が宣伝した社会主義的側面には共感するところもあったという。


1937年にハンブルクの高校を卒業した後、39年に兵役でドイツ国防軍に入隊する。間もなく第二次世界大戦が勃発。1941年からは東部戦線でソ連軍との戦いに将校として従軍。42年に帝国空軍省の対空砲教官兼顧問としてドイツに戻った。44年、ヒトラー暗殺計画参加者に対する人民法廷の裁判を傍聴するよう上官に命じられたが、その茶番ぶりに傍聴を辞退した。同年末、中尉・中隊長として西部戦線に従軍。45年初め、防空演習中に空軍司令官ゲーリングに対する批判的な言動をしたためにナチスの政治将校に裁判にかけられそうになるが、上官の将軍に庇われた。終戦直前、イギリス軍の捕虜となり、8月31日に釈放された。


捕虜収容所からの釈放後、ハンブルク大学で経済学と政治学を学び、収容所で知り合った社会主義者の影響で戦後すぐにSPDに入党。在学中SPDの下部学生組織、のリーダーを務めた。大学を卒業後、ハンブルク市の職員となり、まず商工振興局、経済・運輸局で働いた。1953年、連邦議会選挙に出馬して当選。61年には、ハンブルク州政府の内務相に就任した。内相就任間もない1962年2月の北海大洪水では、憲法違反の懸念を恐れずにドイツ連邦軍の出動を要請して被害の拡大を防いだ。その指導力が高く評価され、彼の名は広く知られるようになった。2015年シュミット元首相が96歳で亡くなったとき、メルケルは談話でこう語っている。

「まだ幼い少女だった私は両親と、当時住んでいた東ドイツで文字どおりラジオにかじりついていました。ハンブルクの祖母や叔母が心配で仕方がなかったからです。今もそのことを、そしてシュミットはこの事態を乗り越えてくれるに違いないと信じていたことをよく覚えています」

1969年ブラント政権が成立、シュミットは国防大臣として入閣、連邦国防大学の設立や兵役義務の短縮を行う。1972年7月経済相と財務相の二つに就任。1974年5月ブラントが「ギョーム事件」によって辞任した後を受けて急遽連邦首相に就任した。


シュミットが首相であった70年代を通してのブラントのあとの課題は、オイルショックによる経済不況をいかに克服するかであった。これは中東の安い原油に依存して来た先進諸国共通の問題であった。シュミットは首脳同士の打ち解けた意見交換や相互理解の場をとして、1975年、ジスカールデスタン仏大統領とともに主要国首脳会議(サミット)を提案。日米英などの首脳を集めて石油ショックによる経済危機を打開する道を探る。敗戦国である日独両国の復権の場でもあった。今日、各国首脳がG7やG20の会合にひんぱんに集まるようになったその先駆けであった。

現実の政治は彼が書いた楽譜通りにはいかなかった。世界経済をけん引するはずが、経済政策のかじ取りを誤る。第二次石油危機が起き、経常収支が悪化、物価上昇や失業増でドイツ経済は危機的状況に陥る。日本はこの第1次石油危機の経験を生かし、逆転の発想で第二次石油危機をチャンスに変えた。例えば車でガソリン価格が2倍になれば、走行距離を2倍にすればいいのではないか。省エネ技術で世界をリード出来たのである。


外交政策においてシュミットはこれまでの保守政権が行ってきた親イスラエル政策を改め、石油ショックの教訓からアラブ諸国へと接近し、1981年5月にはサウジアラビアを訪問した。このことはイスラエル政府を激怒させ、イスラエル首相はシュミットが元ナチス・ドイツ軍の将校であった過去を取り上げて「総統ヒトラーに忠誠を誓った過去がある」と非難した。


1976年の総選挙で議会第一党の座をCDUに奪われたが、FDPとの連立維持で辛うじて政権に留まった。テロリスト集団ドイツ赤軍分派の活動、特に1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる財界要人誘拐殺人・ハイジャックなどの一連の事態に対する彼の対処は、困難を伴いつつも妥協しない断固としたもので、国民の支持を受けた。

特にルフトハンザ181便ハイジャック事件で特殊部隊GSG-9を突入させて乗客150人を無事解放した手腕はさすが、元国防相、〈救国の父〉と称賛された。


SPDの社会民主主義的な社会・経済政策は、次第に政権維持の頼みの綱であるFDPとの溝を大きくしていった。FDPは福祉を抑制する自由主義経済と財政再建を主張し、予算案で対立が起きていた。シュミットは82年の連邦議会からの不信任案に競り勝つも、ついに9月連立与党FDPの大臣4人が内閣を去った。SPDのみでの少数与党で内閣の政権維持の試みを重ねたが、10月1日建設的不信任決議(罷免と同時に後任を任命する不信任決議)が成立、政権継続断念を余儀なくされた。これは、戦後西ドイツ史では初めての出来事であった。後任の首相にはCDU党首のヘルムート・コールが選出された。


首相を追われたことを受けてシュミットは1984年に党副党首を辞任し、1987年を最後に連邦議会からも去った。それまでSPD出身の連邦首相は彼を含めて3人いたが、党首を経験したことがないのはシュミットだけである。

シュミットはドイツ随一の高級オピニオン紙である週刊新聞『ディー・ツァイト』の共同編集者に就任し言論人として過ごした。

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