第6話 東西の架け橋ノーベル平和賞首相ブラント

ナチスの手を逃れてノルウエーに逃げてから、ドイツに帰って来るまでの彼の12年の潜伏、漂流生活は波乱万丈なものであった。


ヴィリー・ブラント(1913年12月―1992年10月)SPD

首相在任期間(1969年-1974年)。SPD党首としては(1964年 - 1987年)。


生い立ちと経歴

ホルシュタイン州リューベック出身。ブラントの出自は、かなり複雑で私生児として生まれた。5歳のとき祖父ルートヴィッヒが戦争から帰還して来た。彼はトラックの運転手として働き、専門の養成教育が受けられるようにして、その性格形成に大きく関わったとされる。1920年代に労働者の子弟で高等教育機関(ギムナジウム)に進学できるのは、ほんの僅かな数であった。ルートヴィッヒがSPD党員であったこともあり、その影響下でSPDの青年活動に参加している。17歳のときSPDに入党する。リューベックSPDの委員長であるユーリウス・レーバーが主宰している雑誌『リューベック・民衆の使者』に若者向けの記事などを投稿させて貰っていた。レーバーは何かと目をかけてくれていた。ブラントの持つジャーナリストの持つ側面はこの時代に養われている。しかしSPDでも急進左派に属していたため、SPDが分裂したときSPA(ドイツ社会主義労働者党)に移る。このため奨学金が得られず、大学進学をあきらめ、造船所で働く。SPAはさらにSPDに戻るグループとKPD(共産党)に別れるが、ブラントはSPAに残る。

 1933年ナチス政権が誕生し、ナチス以外の政党は活動が禁止された。ノルウェーのオスロに逃れSPAの党再建に従事する。19歳のときであった。ここからのブラントの潜伏中の遍歴の旅は書ききれないほど多彩である。


ブラントのオスロでの任務はSAPの活動拠点を設立し、同時に外国における党の青年同盟の活動をコーディネートすることであった。ノルウェー労働党(1935年政権党になる)の青年組織と接点を持つ。この党はブラントに経済的支援をし、警察の手で故国へ送還されるのを防いでくれ、また大学で学ぶ道を提供してくれた。ブラントはオスロ大学に籍をおき歴史学を専攻する。そこで、比較文学研究所で秘書をしていた10歳年上のカルロータという女性と知り合う、彼女は最初の妻となる。労働党新聞にも積極的に投稿をする。まだ有効だったドイツのパスポートとノルウェー滞在証明書を持って、パリやベルギーにも旅をし、ベルリンにも2年間密かに帰ってきてナチス支配下のドイツを見ている。この時の感想を後年こう思い出している。「浮かれたものではなかったし、また特別政体に好意的なものではなかった」が「かといって政体に敵対的なものではなかった」。かれはその後10年間ベルリンを見ることはなかった。

 党指導部からスペイン内戦の状況を調べるように命じられ、1937年スペインに入る。そこでブラントは戦争がいかなるものであるかを身近に体験すると同時に、左翼陣営内の争いを見て、コミンテルン*の卑劣な横暴を知る。この時の体験やオスロ労働党の経験から徐々に急進左派から距離を置くようになる。

 1939年8月の独ソ不可侵条約締結はブラントにとっては驚愕であった。スターリンとヒトラーが手を結ぶ、「今や革命勢力としてのソビエトはヒトラーと並ぶ第一級の反動勢力」と非難し、「社会主義はデモクラシーによってのみ実現されるものである」と確信するようになる。条約締結後の2週間後、ナチスはポーランドに侵入し、第二次大戦の火ぶたが切られた。そしてソ連も東からポーランドに侵入した。


大戦が始まりノルウェーもドイツ軍に占領される。身分書類関連の情報を握られている亡命者には脱出する道はなかった。ブラントは友人のアドバイスに従ってノルウェー軍の軍服を着て進んで捕虜になる。捕虜収容所期間は短期間であった。ドイツのノルウェーの占領政策は比較的穏便なものであった。ブラントは釈放後すぐにスゥエーデンに逃れた。カルロータもオスロを出てスエーデンにやってくる。ここでは静かに暮らし女の子をもうけているが、ドイツ軍の占領が終ると母と娘はオスロ帰っていった。この頃ブラントは別の女性と暮らすようになっていた。2番目の妻となったルート・ハンセン、8才年下でブラントと同様の質素な境遇の出であった。特別な政治意識はなかったが、自然な成り行きで労働運動に入っていた。知り合ったときは、ドイツ軍の占領を逃れ、ストックホルムのノルウェー大使館の報道部門で働いていた。カルロータとは1948年に離婚が成立。のちに彼女は文芸プロダクションを起ち上げ、ブラントの著作をオスロで出版している。仕事を通じて交流は彼女が死ぬまで続いた。

政治的にはブラントは41年にはストックホルムにあった亡命SPDに転じている。終戦後1945年11月、ブラントにドイツ行のチャンスが訪れる。ノルウェー紙の記者としてニュルンベルク裁判を取材することになったのである。途中2年間のベルリン滞在はあるが、実に出国して12年ぶりであった。ドイツ国籍をはく奪されていたブラントはノルウェー国籍を取得していたのである。

帰国後、ドイツ国籍を再取得し、再建途中のシューマッハーの率いるSPDで政治活動を再開する。しかし一度SPAに転じたことや、潜伏中の活動が問題視され党内では冷遇された。しかし1950年に西ベルリン市議会議員に当選。55年に市議会議長。57年西ベルリン市長と順調に階段を上って行った。この市長時代を支えたのは妻ルートであった。その人気は市民の間では市長ブラント以上であったと云われている。彼女の気取りのない魅力、他人に接するときの自然な心のこもった優しさ。人の群がるセンセイショナルな場面でも物怖じしない面も合わせ持った感じの良い仕草、ブラントにないもので彼を助けたのである。ブラントは西ベルリン市長を経験して、SPDに所属していたが、首相アデナウワーの「西側統合」路線を現実的と認めるようになっていた。


1958年11月ソ連のフルシチョフ首相がベルリンに関する4ヵ国協定の破棄と西ベルリンから西側軍隊の撤退、そしてベルリンの非武装化と自由都市を要求してきた。ブラントは即日この要求を却下した。この直後の西ベルリン市議会選挙で、SPDは52.6%の得票を得たが、惨敗したCDUと西ベルリン市で大連立を組んだ。

提案を拒否されたフルシチョフはベルリンを東西に分断するベルリンの壁建設で応じた。戦後、東から西への流出者が増加し、1960年には約20万人が西へ逃れ、危機感を募らせた東ドイツ政府がフルシチョフに西ベルリンの封鎖(壁の建設)を懇請したのである。

このとき、ブラントは首相のアデナウワーを飛び越えて米国ケネディー大統領に直接面談を求めた。このときの果敢な危機対応で西ベルリン市長ブラントは市民から評価され、ブラントはSPDの新しい希望の星となった。


ここで、当時のベルリンを説明しておく。

戦後、ベルリンはソ連占領地域(後に東ドイツ)の中に存在した。西側3か国占領地域(西ベルリン)はソ連占領地域の中に位置する飛地になる。ソ連が西ベルリン封鎖を行ったが、西側は空輸作戦でこれに対抗した(1948年6月~49年5月)。

1949年に東西ドイツが分裂して独立し、西ドイツはボンを暫定首都とした。ソ連占領地区は東ドイツの首都・東ベルリンとなった。形式的には米・英・仏の共同占領地、実質的には西ドイツが主権をもつ西ベルリンとなった。西ドイツ本土と西ベルリンは空路または直通専用道路で往来が可能だったが、西ベルリンの空港への乗り入れは米・英・仏の航空会社のみが認められ、ルフトハンザドイツ航空の乗り入れは禁止されていた。また東ドイツから西ドイツへの脱出者の玄関ともなった。非常に複雑な特別な東西冷戦都市であったと云える。一歩間違うと戦争になりかねない、それ故に西ドイツ市長というのはまた特別なものであった。


SPD内でのブラントの声望も高まり、1961年9月の連邦議会選挙でCDUの首相候補で現職のアデナウアーと対峙した。連邦議会選挙では、二大政党は首相候補を明確にして戦った(党首と首相候補は必ずしも一致する必要はなかった)。この選挙でSPDは5%の票数増と13名の議席増であったが、CDUに及ばず、CDUはFDPと連立政権を組み、ブラントの政権奪取はならなかった。


SPDとブラント

まず、SPDの成り立ちを簡単に説明しておこう。1875年創設された世界最初の労働者政党で、その歴史は古い。91年にマルクス主義に基づくエルフルト綱領を制定した。ビスマルクの制定した社会主義者鎮圧法によって抑えられていたが、ビスマルク嫌いのヴィルヘルム2世が即位すると、新皇帝は親政を行おうとし、ビスマルクが社会主義者鎮圧法を継続しようとしたことに反対し、その延長を認めなかったため、この法律は1890年廃止になった。

これによって急激に勢力を伸ばし、1912年の帝国議会選挙ではSPDは得票の上でも議席の上でも第1党となり、国際的にも第二インターナショナルにおける最大の社会主義政党であり、加盟政党の模範たる存在だった。しかし議院内閣制が確立していなかった帝政ドイツにおいては第1党となっても政権は担えなかった。しかし議会活動を通じて社会主義を実現できるのではないかと云う展望を持つようになった。これを修正主義と批判したのが左派急進派である。SPD主流派(修正主義)は第1次戦争を巡って域内平和を唱え、戦争に賛成するが、急進左派は戦争に反対する。その対立から急進左派が分党し独立社会民主党(USPD)や共産党(KPD)を形成することになるが、主流派の勢力は揺るがなかった。第1次大戦の敗戦によって帝政が倒れ、突然にSPDが政権を担うことになる。SPDとブルジョア諸政党との連合政府がワイマール共和国である。この政権が安定せず、ナチ、共産党の両極が勢力を伸ばし、結局最後にヒットラー政権を許すことになるのである。


ブラントがSPD首相候補に選ばれた1960年の党大会ではそれまで反対していた

西ドイツのNATO加盟と徴兵制を認めた。前年の党大会で新しい綱領を採択して結党以来のマルクス主義を否定して、階級政党から国民政党への転換を宣言し、経済政策についても「可能な限りの自由競争」「必要な限りの計画化」として市場経済を承認していた。そしてブラントは62年に副党首となり、64年2月の臨時党大会でSPD党首に就任した。これには次の首相となったルムート・シュミットや議員団議長となったヘルベルト・ヴェーナーの協力・支援があってのものであった(これをトロイカ連合と云った)。

ヴェーナーもブラントと同じナチ下での亡命者であった。1927年にドイツ共産党に入党し、ベルリンの党本部の書記の過去を持つ。ただ彼の亡命した先はソビエトであった。生き延びるため、ソ連諜報機関との協力があったのではないかとの疑義ある過去を持った。彼自身はそのような過去からは逃れられないと覚悟していた。そんなことでブラントを表の顔として、自分は脇に回る役割と決めていた。

党首となった65年の連邦議会選挙で首相候補としてCDUのエァーハルトと争ったが、議席は増やせたがCDU/FDP連立政権に及ばず敗れた。2度の敗北がショックだったブラントは、選挙後の記者会見で自分はSPD党首とベルリン市長は続けるが4年後の連邦議会選挙では首相候補にはならないと述べた。


歴史の神はときどき皮肉ないたずらをするものである。

エアハルトの後を継いだキージンガーがSPDとの大連立政権を申し出て来たのである。外相となったブラントに首相となる道が開けたのである。大連立には党内には反対するものがあったが、ブラントや執行部はこれを受けた。特にヴェーナーは次に政権を担えることを国民に見せるいい機会になると積極的であった。アデナウワーは大連立に反対で、キージンガーが纏められるかその能力を疑っていた。ブラントらの協調姿勢もあって3年間大連立は続いたのである。


東方外交

外交政策の基本路線は首相府で決められることであった。外相になったブラントはそのことは分っていた。しかし自分でしか出来ないことを少しずつ始めよと決意していた。西ドイツ市長時代、分断都市として否応なしに東と向き合ってきた経験、首脳クラスに劣らないいろんな外国の要人と接した経験、そのような経験は彼の自信となっていた。ブラントは東方外交の一歩を始めた。ルーマニアとの外交関係の樹立であった。続いて68年にはユーゴ―スラビアとの国交樹立に成功したのである。

アデナウワー時代の外交の原則は東独を承認する国とは国交を結ばないという(ハルシュタイン原則)であった。ともかくそれに風穴を開けたのは確かである。

しかし68年のプラハの春へのソ連の武力介入でキージンガーはこれ以上の東方接近を拒否した。CDUとSPDの間に溝が広がった。FDPはSPDの外交政策に支持を与えた。


1969年9月の連邦議会選挙は、SPDが42.7%・224議席、CDUは46.1%・242議席であった。CDUはFDPとの間では増税を巡っての前回の経緯があり、SPDとの大連立の選択肢しかなかった。SPDは5.8%・30議席のFDPとの連立を選択し、ブラントは戦後西ドイツ初のSPD出身の首相となった。首相に就任した直後の1969年10月、初めての施政方針演説でブラントは東ドイツを国家として事実上認め対等の立場で関係改善を呼びかけるとともに、東欧諸国との友好関係樹立に向けての取り組んでいくことを明らかにした。


1970年8月、ブラントはソ連コスイギン首相との間で、西ドイツとソ連との国境不可侵と武力不行使を誓ったモスクワ条約。同年12月にポーランドとの間で相互武力不行使とオーデル川・ナイセ川をポーランドの西部国境とすることを定めたワルシャワ条約を締結した。第2次大戦後の国境の現状を認め、旧領土についての返還請求権を放棄した。これによって領土問題にケリをつけたのである。国内のCDUを中心とする保守派の大反対は受けたが、SPDにしかできない現実政策であった。ワルシャワ訪問のこの時、ユダヤ人ゲットー跡地を訪ねユダヤ人犠牲者追悼碑の前で跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺について謝罪の意を表した姿は人々に感動を与えた。政権発足後2年間での東方外交の展開でこれらの功績を挙げたことで、1971年にノーベル平和賞を受賞した。


しかし。国内では野党のみならず与党内でも東方外交に対する批判の声は挙がっていた。東側への「接近」は共産主義への宥和政策であり、アデナウアー以降の「西側統合」を揺るがすものと非難された。また旧ドイツ東部領から追放された「被追放民」にとっては、旧ドイツ領放棄は故郷が失われ共産主義の支配を認めることを意味していた。

1972年4月、CDU/CSUは連邦議会に建設的不信任案*を提出し、27日に採決が行われた。僅か2票の差でこれは否決された。この2票を巡ってはこのようなことがあった。建設的不信任案は次の首相候補を立ておかねばならない。よほどの自信がないと出来ないようになっている。首相候補はCDU党首のライナー・バルツェル、この両条約を巡ってSPDから野党CDUに寝返る議員も多く、勝利を確信し首相になる意欲を示したのである。票数の読みは確実であった。しかし蓋を空ければ2票足りなかったのであった。

バルツェルは与党議員数名に買収工作を行っていたのである。2名の裏切り者は誰か?SPDのヴェーナーは逆買収でこれを葬り去ったのである。のちに「真実は汚いものだ。院内総務が知っていても、首相が知らないほうが良いこともある」と回顧している。戦意を失った野党側の多くは棄権に回り、モスクワ条約とワルシャワ条約は批准されたのである。

 ドイツでは珍しい買収劇であった。これによってバルツェルは面目を潰し、コールにCDU党首を譲ることになった。両者の間に何があったかは知らないがコールが政権を担ったときバルツェルは入閣している。

 

1972年11月の連邦議会選挙では、SPDは45.8%・230議席で、CDU/CSU 44.9%・225議席を上回り、初めてCDU/CSUの合計票を上回り戦後最大の勝利を収めブラントは政権基盤を強固なものにした。こうして足場が固まったところで、1972年12月に東西ドイツ基本条約が締結されて、東西ドイツが相互に相手国を承認する合意をみたのである。


西側の結束の乱れが生じることを懸念しつつも、当時は米中関係がニクソンショックで劇的に外交関係を結び、米ソ関係もデタントに動き、こうした国際政治で緊張緩和の流れが加速していた時期であったので、ブラントの東方政策による東側諸国との関係改善に真っ向から反対することはなかった。

このブラント外交は、アデナウアーの西側統合に反することなく、東側との関係改善の突破口が切り開かれて、西ドイツ外交が新たな段階に入ったことを示していた。そしてその流れはやがて1975年に全欧安全保障協力会議が開催されて、東方政策の成果がヨーロッパ全体へと広がっていった。この時のヘルシンキ宣言にブラントの後任のヘルムート・シュミット首相が調印したことでブラント外交は完成された。


政権党が長年保持して来た基本政策や外交政策を変えることは難しい。そういう意味でこの政権交代は必要であったと云える。今日、政治学者や歴史学者の中では、東方外交がのちの東欧革命やドイツ再統一の基礎となったと評価されている。以後、チェコスロバキア、ブルガリア、ハンガリーとも国交が回復し、1973年9月には東西ドイツ双方が国際連合に加盟した。また1973年にドイツの首相として初めてユダヤ人国家イスラエルを訪問している。


国内政治

国内政策の分野では1973年の第一次石油危機による物価急騰で西ドイツ経済も打撃を受けて、経済政策では実現したものは少なかったが、「もっと多くのデモクラシーを」をスローガンに行政・教育改革を目指した。その中でも、民間企業における被雇用者の共同参加・共同決定を促す「事業所組織法」、被雇用者の資産形成で税制上の優遇や企業の支援を規定した「資産形成法」、教育政策では「職業教育促進法」「学位取得促進法」の制定などで機会均等を徹底させた。また児童手当の所得額に関係なく支給、家族法の改正、刑法の改正、障害・年金・疾病・失業の4部門での保険制度の整備・拡充などで社会福祉国家としての内実を整えた。そして国民の政治参加を促す選挙権取得年齢の18歳への引き下げも行った


思わぬ破綻

しかしこのオイルショックは、外交の分野はともかく経済や財政の政策領域におけるブラントの力量が問われることとなった。1974年に入ると、かつてブラントを支持していた労働組合が大幅賃上げの要求を出し、ブラントはその要求を受け入れた。そのこともブラントにはイメージダウンであった。そしてブラントに致命傷になったのが〈ギヨーム事件〉であった。

個人秘書であったギュンター・ギヨームが東ドイツのスパイであったことが明らかになったのである。ギヨームは1956年に東ドイツから西ベルリンに難民として入り、フランクフルトで職を得て、そしてフランクフルトのSPD党員となり、党書記、党議員団事務局長と高い評価を得るようになった。1970年1月から連邦首相府の職員となり、1972年秋から首相の個人事務所の職員となっていた。

ヴェーナーはSPDの政権維持を優先させ、シュミットは次期首相に意欲を示した。トロイカ連合の崩壊である。辞任するしかなかった。ブラントは深く傷ついた。

周囲は、ブラントは立ち上がれないのではと気遣った。しかし、ブラントはSPDの党首として残った。その後1987年まで15年間SPA党首としての職責を果たし影響力を保持した。


1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した日、急ぎイギリスの軍用機に乗ってベルリンに向かった(まだこの時代は西ドイツ機で西ベルリンに飛ぶことは許されていなかったのである)。そして西ベルリン市庁舎前の広場での集会に参加、この集会には昨夜ポーランドから急遽西ベルリンに飛んできたヘルムート・コール首相、ハンス・ゲンシャー外相らとともにブラントは演壇に立った。そして検問所を通って東ベルリンに足を運んだ。この時のブラントの胸中はいかばかりであったろう。 翌年念願のドイツ再統一がなると、ブラントは連邦議会に首都をボンからベルリンに移転することを提議し、議決された。

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