第4話 「奇跡の経財相」ルートヴィヒ・エアハルト

ルートヴィヒ・エアハルト(1897年2月~1977年5月)CDU・1963年から1966年まで、西ドイツ首相


アデナウアー政権(14年)下で14年間経済相を務め、西ドイツの戦後の奇跡的な経済成長〈エアハルトの奇跡〉の立役者として名声を博した。1948年の貨幣改革時、ライヒスマルクを廃し、ドイツマルクを法規貨幣として設定し、激しいインフレを収束させ、その後の経済成長に繋げた。


生い立ちと経歴

裁縫用品商を営む両親の間にバイエルン州フュルトで生まれた。中等教育修了資格を取得して卒業後3年間ニュルンベルクで商業家になるための職業訓練を受ける。その後砲兵として第一次世界大戦に従軍し、1918年に重傷を負う。第1次大戦後1919年から22年にかけて、ニュルンベルク商科大学で学び、経営学士号を取得。続けてフランクフルト大学で経営学・社会学を学ぶ。1925年フランツ・オッペンハイマーの指導の下、政治学博士号を取得する


1925年に両親の経営する会社を引き継ぐが、世界恐慌のあおりから、倒産してしまう。28年から42年にかけて、ニュルンベルクの「ドイツ完成品経済観察研究所」に勤務。1930年代前半に受けた大学教授資格試験は、ナチ党を支持する団体に加入するのを拒んだことから不合格であった。42年から45年の間、自身で設立した「産業研究所」の所長を務める。44年には、ドイツの戦後を見据えて、戦後の経済再建のためのプランをまとめる。47年、ミュンヘン大学の名誉教授の職に就き、50年にはボン大学に招聘される。48年3月エアハルトは自由民主党(FDP)の推薦を受けて、西側連合国に占領された地域の経済政策の責任者となる。

1949年の下院選挙後、エアハルトはアデナウアー首相の率いる連邦政府の経済大臣に任命される。CDUが1953年と1957年におさめた連邦議会選挙での勝利は、彼の経済的成功の功績に負うことが大であるとされる。1957年の連邦議会選の後には、経済相の任に加えて連邦副首相にも任命される。


経財相として政権の一角を担った1949年より1957年までの高成長は復興過程にあったヨーロッパ諸国の中でも抜きん出たものであった。人々はこれを「エアハルトの奇跡」と呼んだ。エアハルトは『社会的市場経済の理論』に基づいて経済政策を実践した。自らの著書の中で、

《戦前の古い保守的な社会構造―なんでも消費できる薄い上層階級が一方にいるのに、他方では不十分な購買力しか持たない多数の下層階級がいた―を、わたしは受け入れることは出来ない。国民層のますます広い部分を福祉に導くことのできる経済理念、幅広く組み立てられた大衆購買力を通じて、古い保守的な社会構造を最終的に克服したい。それを確保するための最も効果的な手段は市場における自由な競争である。競争という方法を通じて、〈進歩と利潤の社会化〉が行われなければならない》と語っている。


戦後の新しい市場経済は社会的な利益も重視しなければならないとするものである。これはナチス・ドイツの統制経済への否定であると同時に、SPDの主要産業の国有化や社会主義の計画経済への批判でもあった。戦後復興がこれによって上手く行ったことによって「社会的市場経済」がドイツの経済原則となっていく。米英型の新自由主義とは異なるライン型資本主義とも呼ばれるものである。

具体的には中間層や中小企業の自立支援、所得再分配、失業対策としての完全雇用、社会保障充実などの政策が挙げられる。とくに積極的に進められた公営住宅の建設は生活の水準の向上に寄与したのみならず、経済復興の推進要因となった。


もはや戦後ではない、日本の高成長が始まったのは1954年の神武景気からとされる、日本より5年早いことになる。日本は戦前の中国・朝鮮と云う市場を失ったが、ドイツは英仏を始めとするヨーロッパ諸国の復興する市場を近くに持った。西ドイツには熟練した労働力があり、技術レベルも高かった。いち早く貨幣改革によってマルクを安定させて一気に生産力を上げて輸出に転じたのである。

経済の奇跡はアデナウワーの西側統合路線の外交に負うところも大である。これによってEEC(欧州経済共同体)が発足し、経済の成長を助けた。またアデナウワーの主権回復・再軍備等の外交の成功は順調な経済があってのものであった。二人は決して仲が良かったわけではなかったが、そういう意味で、両者の関係は西ドイツ復興の二輪車であったのである。


アデナウアーが辞任した後エアハルトは首相に選出される。50年代には西ドイツに「経済の奇跡」をもたらした辣腕の経済相として人気抜群はあったが、首相になるととたんに人気がなくなった。60年代に入って成長が鈍化しだしたのである。戦後の復興期はすでに終わり、60年代になって表面化してきた新しい問題は、50年代の復興局面では存在していた余剰労働力が枯渇したこと、それまで続いて来た貿易黒字の累積によるマルクの地位が強化され、マルクの切り上げ問題を表面化させたことはドイツの特殊事情であった。ドイツは61年頃から外国人労働者を積極的に受け入れるようになる。


そんな中、首相としての指導力に対して党内からも疑問の声が上がったのである。

しかし、決定的な役割を演じたのはFDPだった。65年発足の第2次エアハルト政権に入閣したFDPは増税案に抗議し、わずか1年後に閣僚4人を引き揚げてしまったのだ。こうしてエアハルトは辞任に追い込まれ、66年12月に新首相クルト=ゲオルク・キージンガー(CDU)によるSPDとの大連立政権が発足。副首相・外相にはSPDのヴィリー・ブラント党首が就任する。

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