第3話 アデナウアーの外交・再軍備問題

アデナウアー外交

首相アデナウアーの目標は、経済の再建と主権の回復と西側世界との結びつきの構築であった。アデナウアーは「すべては外交に従属する」と周囲に語っている。冷戦の中心にある分断国家、それも主権をもたず、連合国に多くの権限を留保されている国家においては外交と内政は切り離せないものと考えていた。

フランス、イギリスという旧敵国との和解を踏まえた強力な政治的・経済的な結びつきを深めながら、西ドイツの力を養っていく。その先にしか統一はないと考えたのである。統一を優先する考えや勢力が優勢になっても、断固として譲れない信念であった。『西側統合』という戦後西ドイツ外交の基本路線を構築していったのである。主権の回復には米英仏のみならず、ソ連を含めた関係国との修復も重要と考えた彼は1951年から1955年には外相をも兼任した。

1955年にアデナウアーはモスクワを訪問し、国交を回復した上で、ソ連に残っていたドイツ人戦争捕虜、抑留者(3万人)の帰国を実現させた。これは国民に大歓迎され、彼の政治的立場を強固にした。

ソ連とは国交を回復させたが、東ドイツを承認にしたわけではない。同年に西ドイツは「ハルシュタイン原則」を発表し、東ドイツ承認した国(ソ連を除く)とは国交を断絶するという外交方針を採った。


経済面ではマーシャル・プランを基に経済復興を進め、経済の奇跡と呼ばれた。これを担ったのが経財相に起用されたエアハルトであった。経済政策については次のエアハルトのところで述べたい。


主権の回復と再軍備

占領下にある日本、ドイツの悲願は一日も早い主権の回復であった。アデナウアーは、主権の回復と軍隊を持つことは不可分のものと考えていた。しかし、交戦国の英仏ソにとっては、ましてその国民にとってはドイツの再軍備は相当抵抗の強い、敏感な問題であった。

それなのに日本と比べると、難しい再軍備問題が解決したのは私には不思議であった。徴兵制までなされたのである。日本では到底考えられないことで、国内で抵抗運動はなかったのか?主権の回復と再軍備問題を取り上げて日独の差異を見てみたい。


東西冷戦は朝鮮戦争で現実の問題となった。アメリカは西側同盟の強化の必要に迫られ、いわゆる逆コース、ドイツ、日本の再軍備に方針を転化した。

日本にはアメリカの押しつけとする憲法第9条があり、再軍備には憲法改正の手続きが要った。経済復興を優先する吉田首相はこれを理由にして再軍備を拒否。戦争に懲りた国民の前に出しても到底受け入れられないと考えた。警察予備隊の発足でお茶を濁し、解釈憲法によるなし崩しの再軍備(自衛隊)の道を取ったのである。

その上、主権回復時のサンフランシスコ平和条約締結の時に、こっそりと日米安全保障条約を抱き合わせる形でアメリカとの軍事同盟に踏み切った。主席全権委員であった吉田茂首相は独りで署名に臨んだ。講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、プレシディオ国立公園の下士官用クラブハウスの一室で行われたこの調印式には、他の全権委員は欠席しており、唯一同行した池田勇人蔵相に対しても「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って一人で署名したという。


日本で平和条約は全面講和か、単独講和かで国論を二分する議論がなされたが、安全保障条約はこれに隠れる形で議論されることが少なかった。それが日陰の自衛隊、なし崩しの再軍備、沖縄の基地問題、改定時の60年安保となり、保革対立が、安全保障や自衛隊をめぐる世論の分裂を特徴とするものとなった。日本の戦後政治にとって、保守党にとっても革新野党にとってもこのことは不幸なことであった。


一方ドイツはどうであったか。朝鮮戦争勃発後、西ドイツでの再軍備問題の浮上とともに統一問題も一気に表面化した。近くても、日本はどこか海の向こうと云う感があったが、朝鮮半島まさに分断国家である。ドイツにとっては他人事ではない。分断国家のままの主権回復か、統一国家の最終講和か?国論は割れ、東西の駆け引きは活発化した。

アデナウアーにとっては、主権回復と再軍備は不可分のものであった。それを野党にも、国民の前にも正面から提示したのである。彼は統一より主権回復を優先させることを主張した。主権回復というご褒美によって再軍備を国民に納得させる考えであった。西側同盟と強く結びつくことによって東と対峙する、『力の政治』が彼の政治スタンスであった。野党SPDは統一国家の道を優先する考えから、分断を固定する「力の政治」でなく東西間の対話を重要視する柔軟外交を主張した。


アデナウアー「力の政治」と云われるゆえん。それをよく現したのがスターリン・ノートに対したときの姿勢である。

1952 年2 月NATO外相理事会で、欧州防衛共同体(EDC :超国家的な欧州軍を編制し、その枠内で西ドイツを再軍備させる計画)内での西ドイツ再軍備に最終的な青信号が出された。これに対して、モスクワ政府は、米英仏西側連合国政府に一つの覚書を送付した。スターリン・ノートである。


ノートはドイツに「中立」を条件に統一政府を形成し、平和条約で許容される限度内で、国防に必要程度の軍の保持が認められるとした。旧軍人および更正した元ナチ党員に対し平等な市民的・政治的権利を保障する方針も打ち出した。そして極めつけは、平和条約の発効後一年以内に全占領軍は統一ドイツ領域から撤退すべきというものであった。

従来からのソ連からしたらかなり踏み込んだものであった。「西側統合か再統一か」という大論争を惹起し、アデナウアー外交に厳しい試練を課したのである


ノート発表の翌日、アデナウアーはすぐに連合国に、西ドイツ政府はソ連の提案に乗る気はないことを断言し、英米仏ソの4大国がドイツの頭越しに何かを決定することがないよう釘をさした。ドイツは中立化を望まず、独自の国軍も欲せず(欧州軍の中でのみ行動する)、元ナチ党員や軍国主義者にも迎合せず断固と対処する、とした。アデナウアーは、ノートはEDC 条約の調印を妨害するプロパガンダに過ぎないものと見做したのである。

しかし西ドイツ国内にはソ連との協議に積極的に応じようとする者たちが、与野党を問わず多数存在した。ノートは統一を優先するナショナリスト、中立志向の平和主義者、東西の架け橋を目指す者たち、そして国軍復活を目指す極右や軍国主義者も惹きつけたのである。


英仏両国にとっても、中欧に「漂流する」統一ドイツは断じて是認できなかった。それは、中立・統一ドイツが東に接近する危険を常にはらむものであると解したのである。EDC条約はドイツでは批准されたが、フランスでは国民の反対にあい、議会で否決された。

この窮地を救ったのが英国の外相イーデンであった。彼の提案に従って、西ドイツを西欧同盟に加盟させ、そのもとで主権を回復させて再軍備を認め、ドイツ軍もNATO軍に加えるという形でパリ協定がなされた。ドイツの主権回復と共に再軍備が承認されたのでる。ドイツ軍はNATOに加盟するにあたり軍備に上限を設け、ABC(A=原子・B=細菌・C=化学)兵器を所有しないことを誓約した。西側はNATOに取り込むことによってドイツの再軍備問題を解決したのである。


再軍備に対し、国内では野党SPDは統一ドイツの実現と云う立場から反対し、徴兵制には若者が猛烈に反対した。しかし国民的には主権回復を歓迎する意見が徐々に強くなり、NATO加盟は議会で多数で承認された。

正面から再軍備を提示したアデナウアー、避けて、なしくづしの道を選んだ吉田茂、この相違は大きいと私は思う。勿論、ドイツは統一されるという前提で、憲法ではなく基本法であったので、再軍備は国民投票によらず、議会承認で済んだということを考慮したとしてもである。


西ドイツ国民はベルリン封鎖でソ連の力を見せつけられていたのである。また、敗戦によってこうむったドイツ人の被害、過酷体験者は1200万人に上るとされる。国境移動(ソ連、ポーランドなどへの領土割譲)にともなう引き揚げ、逃避行。地元住民や赤軍兵士による略奪、虐殺、レイプ等々。

満州における日本人捕虜は60万人とされるが、ドイツの場合は300万にとされ、その多くがシベリアで強制労働させられた。これらの残虐行為はドイツの侵攻過程でも行われたことである。国と国では相殺の考えも成り立つが、個人の体験は相殺されるものではない。従前からのスラブ人、東方の人に対する偏見も相乗されて、ロシア、ソ連に対するドイツ国民の感情がなにより再軍備の問題に影響したのである。


アデナウアーは戦後補償に関する施策も意欲的に推進し、とくにイスラエルへの巨額の補償金の支払いなどの政策は世界中の注目を集めた。「新生ドイツ国家が世界に於いて信用と名声と信頼を取り戻すことができるか」がかっかっていると理解していた。また、個人的には、ナチス支配下の苦しい時代にユダヤ実業家ダニー・ハイネマンに助けて貰った恩義がつねに念頭にあった。1952年からの欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)にも、ドゴールとの個人的な関係を生かしながら積極的に取り組んでいった。これは57年にはEEC(欧州経済共同体)に発展する。アデナウアーの「西側統合」は、経済的統合にとどまらないヨーロッパの政治的な統合をも範疇にしていた。


権威の失墜

 アデナウアーの個人的な政治スタイルのイメージは家父長的なイメージで語られる。ドイツ国民の好むところである。10年が経った1959年ごろから、アデナウアーの威信は低下し始める。「経済の奇跡」の立役者として人気を博し、アデナウアーの後継者と目されていたエアハルトを大統領職に棚上げして自身の政権の延命を図る。当時83歳だった老宰相のこの態度が周囲の猛反対を受けると、アデナウアーは、今度は「大統領が首相の職務に介入できる」基本法の改正をもって自らが大統領になろうとする。権力に露骨に執着する姿勢が党内外から嫌われたのである。


1961年、ベルリンの壁が建設された際、選挙運動中のアデナウアーはベルリンに赴かず強い批判を受ける。当時西ベルリン市長であったヴィリー・ブラントが事態をよく把握し西ドイツ国民の支持を集める一方、アデナウアーは「首相はどこに行った」と批判を受けた。


1962年には雑誌『デア・シュピーゲル』の編集者および記者が、ドイツ軍ではドイツを守れないという記事を書いた。これを激昂した国防相フランツ・シュトラウス(バイエルンのCSU党首)が国家反逆罪のかどで強引に逮捕した。いわゆる『シュピーゲル事件』これに世論は猛反発した。この逮捕をアデナウアーが承認したことが明らかになり、国防相の首を差し出して切り抜けたものの、指導力の低下は覆うべくもなかった。62年心臓発作を起こし健康不安も重なり、翌年に連邦首相を辞任、エアハルトへの禅譲を余儀なくされた。しかしアデナウアーはなおもCDU党首の座に1966年まで留まった。


アデナウアーの長期政権(14年間)を支えた政治能力はやはり、ケルンの市長時代の実務によって培われたものと思われる。市長時代を通してドイツの変動期の中央政治の現実を見て来た経験がものを言っていると思われる。政治家を一概に年齢で切るわけにいかない理由がここにある。勿論、最後は権力に執着した老害部分を見せたが・・。


側近を努めていた義弟ズートは、市長時代のアデナウアーを取り上げて、その手法の特徴を二つ挙げている。

第一は、懸案事項について徹底的に調べ上げ、議論に備え、つねに彼は資料をたくさん携え、時には数人の専門家を従えて会議に臨んだ。

第二は、相手に最後まで話をさせること。相手方が意見を出し尽くすまで自分は黙っている。そして最後に、会議をまとめるかのようにして、自分の意見を押し通すのである。政治で成功する秘訣は「最後まで座っていられること」というのがアデナウアーの持論であった。


統一ドイツの初代大統領を務めたヴァイツゼッカーは「アデナウアーは非常に賢明な政治家で,現実を見過ごすようなことはなかった」と評し,その上で,「ソ連と我慢できる程度の関係を築くことが肝要である」とアデナウアーがある機会に告白したと回想している。


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