第2話 奇跡の老人・コンラート・アデナウアー(1) その1
(1876年―1967年4月)
73歳にして首相、それから14年間政権の座に、人生は70からだよ!
生い立ち・経歴
生まれた1876年といえば、宰相ビスマルク(1890年まで職にあった)がプロイセンの首相になった年である。職業軍人あがりのケルンの裁判所書記官の三男として決して裕福とはいえない家庭で産まれ育った。
ボン大学などで法学と経済学を学んだ後、ケルン上級裁判所に判事として勤務する。1904年ケルンでの名門一族の令嬢エマと結婚、母方の叔父は後にケルン市長になる。この結婚が彼を上層に押し上げたのは間違いない。エマは長男、次男、長女を生んだが病床に伏せるようになり1916年に亡くなった。その1年後、彼も運転手の居眠りで自動車事故に遭い、面貌がかなり変わったほどである。
09年にケルン市助役。中央党*の政治家として1917年から16年間ケルン市長を務める。ケルンはカトリックの古都で中世、ハンザ同盟の主要なメンバーとして繁栄し、交通・金融の要衝であり、自治の伝統を誇っていた。近代になって工業化に成功し、当時ベルリンに次ぐ都市であった。ケルンが持ち合わせたこれらの要素がアデナウアーの性格、人脈、そして政治手法も規定していくことになる。
市長になった1917年はロシア革命が起きた年で、翌年ドイツ革命で帝政ドイツが崩壊、16年後の1933年はヒットラーが首相になった年である。ワイマール共和国の動乱期を彼はドイツ第二の市長として見て来た。ワァイマール共和国時代には何度か首相候補として取りざたされたが、彼はケルン市長の座に満足しているとこれを固辞したと云われている。中央の政局の混乱に時我にあらずと思ったのかも知れない。ケルンがあるライラントは1926年まで第1次世界大戦の戦勝国によって占領されていた。ケルンは英国の占領下にあった。アデナウアーは占領下における折衝をすでに体験済みであった。市長時代の業績としては、ケルンを文化、経済面で最も重要な中心都市とすべく、ケルン大学の再建、フォード自動車など工業誘致、大緑地地帯を設置して都市生活の質を向上させた等が挙げられる。
ケルンを訪れたヒットラーに対して、歓迎行事をせず、非礼な態度をとったとされ、市長を罷免され、迫害され、しばらく隠遁生活を余儀なくされた。この迫害であるが、ワイマール時代に活躍した政治家全てを逮捕する「雷雨作戦」で逮捕された。このときアデナウワーは逃亡劇を演じた。ナチは妻(再婚)グッシーを逮捕・訊問し娘の安全と引き換えにアデナウワーの居場所を強要した。短期間であったがアデナウワーは仮収容所に収容された。釈放には士官となっていた息子の奔走があった。このときグッシーが受けた精神的・肉体的な傷は深く、彼女の寿命を縮めるものとなった。また逃亡を助けた将校が逮捕されたことを知ったアデナウワーは自分の軽率な行動を後悔し良心の呵責に悩まされたとされる。
彼が所属した中央党は1870年に創設されたカソリック系の古い政党で、ワイマール共和政期の議会で第1党であったSPDと連立して首相も輩出した主要政党の一つであった。
70歳にして立つ!
『ドイツ現代史の正しい見方』を書いたセバスチャン・ハフナーはその中でアデナウアーを「奇跡の老人」と評した。彼の政治的業績以前に、70を過ぎてから政治の表舞台に登場し、14年間首相職を勤めたことだけで評価できるとしたのである。
ケルン市長に満足しているとしたアデナウアーが戦後、すでに70歳と高齢であったにかかわらず政治活動を積極的に開始したのである。ヒットラーに協力しなかった「白い人」として戦後アメリカは彼をふたたびケルン市長に任命した。しかしアメリカからケルンの管理を引き継いだイギリスが彼をひどく傷つけるやり方ですぐに罷免してしまったのである。これが彼に火をつけたわけではないだろうが、彼は政党の起ち上げに動く。アデナウアーは、彼が所属していた中央党をカトリックだけでなくプロテスタントを加えた統一政党(ドイツキリスト教民主同盟―CDU)を考えその創設に尽力、ここを拠点に政治活動を進めた。
日本の占領は日本政府を通して行われたが、ドイツは中央政府が存在しないまま占領下におかれた。各占領地域では州(ラント)がおかれ、これが日常的な政治行政を担った。アデナウアーはイギリス占領区であった。CDUも中央センターを持たず州レベルで結成され、占領区単位であった。アデナウアーはイギリス占領区のトップとしてこれらを統合していった。このとき米英仏との折衝役を担ったのが彼の政治基盤を強くしていくことになる。
東西冷戦、分断国家がはっきりした時点で、1949年8月、第一回ドイツ連邦議会選挙が行われた。選挙戦の争点は経済政策であった。SPDが計画経済と主要産業の国営化を唱える一方CDUは「社会的市場経済」掲げた。経済的民主主義(カルテル等の禁止)を表明しながらも、競争的・自由主義的な市場経済秩序を断固として擁護するとした。「社会的市場経済」これが以後CDUの経済政策の看板となる。
外交路線ではともに反共では一致したが、CDUが「西側統合」路線、SPDは「再統一優先」を唱えた。CDUが得票率31%で第1党となった。
アデナウアーは議会での投票でSPD候補のクルト・シューマッハー(1895年-1952年)に1票差で競り勝って、初代連邦首相に選出され、自由民主党(FDP)*との連立で政権を発足させた。73歳という高齢にして、首相として政界への復帰を果たしたのである。本人は別にして、みなは、まさかそんな長期政権(14年)になるとは思っていなかったが本当のとこであった。
求む中高年!
米英仏が国づくりの要職に選んだ人材は、ワイマール共和制時代に活躍した中高年だった。理由は簡単、“ホワイト・リスト”に記載された「ナチスに関係しなかった白い人物」が、若いエリート層にほとんどいなかったからである。ナチ党の党員だけでも最大で800 万人を超えた事実に照らせば、積極的か受動的かを問わなければ,ナチ関与者は高級官僚に限らず社会の中に多数存在していた。
「老人が頑張らなければならなかった。なぜならドイツの政界は、砂漠と化した森のように、すっかり人材が枯渇してしまったからである。当時の40代、50代のいわゆるナチス世代は、ボロボロに潰され、威信を失墜していた。30代の若者は戦没兵士の墓地に横たわるか、捕虜収容所でうずくまっていた。」〈前掲の『ドイツ現代史の正しい見方』〉
アデナウアーに1票差で負けたSPD党首シューマッハーもそのような中高年の白い人物であった。強烈なカリスマ性でSPDを率い、戦後西ドイツの政治の一方を担った。第一次世界大戦で従軍して障害者になり、ナチスに抵抗して強制収容所に多年にわたって押し込められ,廃人同然の状態にまで追い詰められた末に戦争末期にようやく釈放されたのである。
シュミットまでの世代は何らかの形で戦争体験やナチ時代の傷を負っている。敬虔なキリスト教徒であるアデナウアーが反共産主義者であるのは勿論であるが、SPDは社会主義を掲げた政党である、それにも拘わらずシューマッハーもブラントも反共主義者であった。
戦後西ドイツのスタートを指導した彼らは、反ファシストであると同時に反共主義者であった。ナチスとともに伸張したドイツ共産党もまたソ連の影響下にある党としてワイマール共和国を破壊した者とみたのである。ワイマール民主主義を担った者としての自負が彼らにはあった。
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