第3話 ガリ勉ブスが、また勉強してるぜ《安田千恵子》
子供が何故、純粋なのか? それはきっと、知恵の泉が未発達だからだろう。
自分で自分の人生を決める、大事な判断力が備わっていないのだ。馬鹿な犬が馬鹿な主人に従順であるように。純粋な子供も、(基本的には)親の言葉に従ってしまうのだ。
親の敷いたレール……なんて言い方は酷いかも知れないが、「それ」に近いモノを与えられ、その道を進むように促される。「その道が安全だから」と、自分の未来を勝手に決められてしまうのだ。自分自身が「それ」を望んだわけでもないのに。
気づいた時には、英才教育で有名な幼稚園に入れられている。親から教わった知識や思考力を生かし、周りのライバル達を倒して、エリートへの世界に足を踏み入れているのだ。何の疑問も持たず、「それが当然」とばかりに。自分の前に用意された道は……たぶん、とても素敵な道だったのだろう。
将来、綺麗なオフィスでコーヒーを啜っているような、誰もが羨むエリート街道だったに違いない。周りの部下達はもちろん、使えそうな上司にも媚びを売り、程良い年齢になったら、親の決めた相手と結婚する。結婚の相手は、父の部下(それもかなり優秀な)か、社会的地位の高い男だろう。何処に出しても恥ずかしくない、最高の男と結婚させるのだ。
娘の私を幸せに……いや、違うな。私の幸せを考えているようで、実際は自分達の幸せを考えている。世間の人達よりも優れた(と思いたい)自分達の幸せを。私の両親は……私が「それ」に気づいたのは、私立の小学校に入って五年ほど経った頃だった。
私は両親の教えに従い、学校の勉強に全力を注いでいた。
今は、確かに苦しいかも知れない。
でも、それを乗り越えれば!
貴女には、素晴らしい未来が待っている。
私は、その未来にワクワクしていた。「自分は、選ばれた人間になるのだ」と。今を耐え、先の事しか考えていなかった。周りの人達は(公立の小学生よりは、勉強していたとは思うが)、子供らしい時間を過ごしていたのに。
私はその時間を捨てて……と言うより、内心馬鹿にしていたのかも知れない。勉強はできるが、基本的に馬鹿な集団である男子達はもちろん、「恋」や「オシャレ」に目覚めはじめた女子達の事も。言葉には出さなかったが、女子達が好きな男性アイドルやイケメン俳優、気になる男子(大半が格好いい男子だった)の話を始めると、冷めた目でそれらを見るようになった。
あの子達は、大事な時間を無駄にしている。将来の為に使わなければならない時間を、下らない事で無駄にしているのだ。男性アイドルの名前を覚えても、自分の将来に何の役にも立たない。自分の将来の役に立つのは、教科書の太文字を一つでも多く暗記する事だった。
私は「それ」を頑なに信じ、女子達がオシャレな服を着はじめた横で、教科書の太文字を黙々と覚えつづけた。自分が周りからどう見られているかも知らずに。
私は、テストの100点だけに喜びを感じていた。
でも……。
それは、突然やって来た。
私はただ、学校の休み時間に勉強していただけなのに。クラスの男子達が、私の事を指差して「ケラケラ」と笑い出した。
「おい見ろよ。ガリ勉ブスが、また勉強しているぜ」
私は、その言葉に思わず振り向いた。意外な相手から、意外な言葉が飛んできた所為で。私の事を「ガリ勉ブス」と笑った男子は、私が一度も話した事のない人だった。
私はどう反応して良いのか分からず、相手の顔をただ呆然と見つめつづけた。
相手は私の目から視線を逸らし、周りの男子達とケラケラ笑いながら、私に対する評価(と言う名の誹謗中傷)を論じはじめた。
私は、その評価にカッとなった。「ガリ勉」の部分はまだ、許せるとしても。自分よりも馬鹿な相手に「ブス」と見下されるのは、どうしても許せなかった。
私は自分の席から立ち上がり、彼らの前に走り寄ると、あらゆる言葉を使って、彼らの行為を批難し、その謝罪を促した。
相手は、「それ」に従わなかった。私の行為は、100%正しい筈なのに。教室の中にいる女子達も、男子達の言葉に笑いはするが、それを注意しようとはしなかった。「まるで私が悪い」と言わんばかりに。
後日相談した担任の先生も……学校として問題にしたくないのか、それとも同じ女性として私の事を見下していたのか、「年頃の男子は、みんなそんな感じよ」と誤魔化し、家の両親も「そんな言葉など無視しろ。お前は、将来の事だけを考えていれば良いんだ」とまともに聞いてもくれなかった。
私は、彼らの言葉に絶望した。
自分は、何も間違っていないのに。彼らは……先生は女性としての私を見下し、両親は私の事を「物」としか考えていなかった。物は何も言わず、ただ私達の言葉に従っていれば良い。誹謗中傷はもちろん、その命令にも耐えて。私に求められるのは、両親が求める人生を進む事だけだった。
私は、机の手鏡に手を伸ばした。普段は風呂上がりにしか使わないそれを、その日は鏡が壊れんばかりに眺めつづけた。鏡に映った顔は、醜かった。今までは、まったく意識していなかったけれど。私の顔は、私が思う以上に不細工だった。
私は「それ」に涙を流し、初めて自分の容姿に劣等感を抱いた。
劣等感は、中学(私立の中学校だ)に上がっても消えなかった。勉強の方は、相変わらず頑張っていたけれど。「容姿」が「成績」よりも重視される世界では、勉強の出来なんてほとんど意味を成さなかった。男子は「勉強ができる子」よりも「明るくて面白い子」と話し、「不細工で胸が小さい子」よりも「美人で胸が大きい子」を好きになった。
私は不細工で、胸が小さい女の子だった。オマケに髪型も地味なショートカットで。髪も染めていなかったから、日本人形のように真っ黒な髪だった。
私は憂鬱な気持ちで、一度しかない中学時代を過ごした。学校の部活は、文化部でもあまり目立たないパソコン部。クラスの委員会も、昼休みにゆっくりできる図書委員を選んだ。
私は「それら」の活動を頑張りつつ、二年後に控えた高校受験に向けて……勉強したのは良かったが、何故か成績が上がらなくなってしまった。学校の授業にも、イマイチついていけない。ほんの数年前まで「ガリ勉ブス」と呼ばれていた私は、勉強はおろか、学校の授業にもついていけないただのブスになってしまった。
ただのブスに待っているのは、地獄よりも過酷な現実。
家の両親は私の力に失望し、私が三年生になった頃には、挨拶こそするが、それ以外の事はほとんど話さなくなった。エリートの家に生まれたお前が、同じエリートになれないのなら。華やかな人生を歩いてきた彼らにとって、落ちこぼれのドブに落ちた娘は不要だった。
彼らは私がテストで酷い点を取っても、無感動な顔で「それ」を眺めるだけだった。
私は両親の愛情を諦め、周囲への期待も捨てて、今の成績で受けられる高校を選び、その高校に合格すると、祖父から合格祝いに買って貰った自転車に跨がって、ひとり高校に通うようになった。普通の高校生が通う、普通の公立高校に。
私は学校の駐輪所に自転車を停めると、憂鬱な顔で自分の教室、一年B組の教室に向かった。教室の中には、ハーレムと言うのか? 「桜庭正」と言うイケメン男子の周りに綺麗な女子達が集まっていた。同じクラスの女子から、違うクラスの女子まで。彼女達は桜庭君が冗談か何かを言うと、それを面白がって、楽しそうに笑っていた。
私は、その光景に苛立った。自分の可愛さを自覚し、「それ」を武器にしている女子達はもちろん、その武器を楽しんでいる(ように見える)桜庭君……には、入学当初から嫌悪感を抱いていた。周りの女子達は、彼に憧れていたけれど。
私は、彼女達のように憧れなかった。小学校の時に味わった、あの嫌な記憶によって。誰に対しても優しい(らしい)桜庭君も、結局は周りの男子と同じなのだ。「不細工な子」よりも「綺麗な子」の方が好き。彼が優しくする女子達は、何故か美少女が多かった。
私は暗い顔で、自分の席に座った。
一時間目の授業は数学だったが、とんでもない失敗をしてしまった。
「ど、どうしよう?」
昨日の夜、ちゃんと確かめたのに。鞄はもちろん、机の中もきちんと探したが、どんなに探しても、数学の教科書を見つけられなかった。身体が震えるのが分かる。私の隣には「仰木颯」と言う男子(桜庭君の幼馴染らしい)が座っていたが、入学以来一度も話した事がなかったので、彼の顔をチラチラと見る事はできても、「あ、あの?」と話しかける事ができなかった。
時間だけが過ぎて行く。
私は真っ暗な気持ちで俯いたが、隣の彼から「ねぇ?」と話しかけられると、その声に思わず反応して、彼の顔に視線を移した。
彼は、私の目を見つめた。
「安田さん、教科書忘れたの?」
「え?」
ど、どうして?
「それ」
緊張して声が出ない。だから相手の返事にも、上手く応えられなかった。
「机の上に教科書が乗っていないから」
私は、その言葉にぎこちなくうなずいた。
「う、うん。その、昨日はちゃんと確かめたんだけど」
顔が熱かった、隣の男子とただ話しているだけなのに。彼の浮かべる心配げな顔や、私に対する柔らかな態度は、今まで見てきたどの男子とも違っていた。
「そっか」
彼は何度かうなずくと、優しげな顔で私に微笑んだ。
「なら、教科書見せてあげるよ」
「え?」と驚く私だったが、学校のチャイムが丁度鳴ってしまったので、数学の時間は結局、二つの机を合わせて、彼の教科書を見せて貰った。
私は、彼の厚意にドキドキした。隣の男子に優しくされて。私は顔の火照りを必死に隠しながら、隣の彼に何とかお礼を言おうとした。
「仰木、く」
ん、と言った時だ。机の中からプリント(部活の入部届だ)を出した仰木君に、自分の席から歩いて来て、彼の丁度前に座った桜庭君が、「高校の部活、まだ悩んでいるのか?」と話しかけた。
仰木君は、その言葉に顔を強ばらせた。
「ああ、うん。中学の時も、あまり部活に行かなかったし」
「そっか……。俺は、サッカー部に入るよ」
如何にも女子ウケしそうな部活だ。クラスの女子達も、「あたし、サッカー部のマネージャやろうかな?」と話しはじめている。
「そっか」
「うん」
桜庭君は「ニコッ」と笑って、椅子の上から立ち上がった。
「入りたい部活が無かったら、サッカー部に来なよ。また、昔みたいに暴れようぜ?」
無言の返事……と言うより、「うん」と言いかけた方が正しいかも知れない。他の人は、「それ」にまったく気づいていなかったけど。彼の隣に座っていた私には、その僅かな反応がとても鮮明に見えていた。その後に呟いた、「僕は、正とは違う」の言葉も。
私は今の光景に不思議な感覚を覚えたが、教科書を見せてくれた恩義や、私に対する態度の余韻が残っていた事もあって、二時間目の授業が始まっても、横目で何度も彼の顔を見るようになってしまった。
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