後日談


「ジゼル」


快晴の下のグレゴワール邸。夫の呼び掛けに反応し、ジゼルが顔を上げる。すると顔色を確認できたのか、声は更に続けた。


「体調は、変わりないか」

「ええ…」


(おかしい…)


肯定的な返事をしながらも、心の内では疑惑と不安の種が芽吹く。ソフィ改めジゼルは悩んでいた。


「不自由は、していないか」

「だ、大丈夫…」


そうは言っても彼女を悩ませる原因は、まるでこの尋問のような質疑応答のことではない。もちろん車椅子ではなく、自分の足で歩けるようになった自身の環境にも不満はない。


「そうか。何かあれば言え」

「…分かったわ。ありがとう…」


問題は、数メートルは離れた廊下の先から、話し掛けてくる旦那様のことである。壁から3分の1ほど体と虎の顔を出して、こちらをじっと見つめている。


(一体何でこんなことに…)


頭を抱えかけて、ふと気付いた。


「な、何…?」


思わず聞いてしまった。いつもはこの一連のくだりが終われば姿を消すグレゴワールが、まだ留まってこちらを見ていたからだ。


「忘れていた」

「……?」


短くそう言った彼は、無言のままわずかにもぞもぞと動く。そうして迷った後に、グレゴワールは口を開いた。


「…欲しいものは、あるか」


静かな廊下にふと、落とされた質問。少し考えて、ジゼルは首を横に振る。


「ないわ…」

「……」


質問の中身を考えたと言うよりは、その質問の意図を考えたのだが、やはり分からなかった。


「……」

「そうか」


黙っていると、グレゴワールが小さく呟いた。いつもと変わらず無表情だが、その黒い耳が少しだけ下がった。垂れたまま、くるりと踵を返す。


「……?」


文字通り大きな猫背が消えて行く様を見送って、ジゼルはその群青の睫毛をぱちぱちと瞬かせた。


(な、何なの…?)


ヴィルパン家の新妻、魔族に嫁いだ人間であるジゼルの最たる悩みはこれだ。友達がいないとか、種族の違いのせいで新生活に不安があるとか、そう言ったことではない。


この一連の流れがほぼ毎日、場所を変えあちこちで行われる。大抵はジゼルがその時に居る場所に合わせて、グレゴワールが話し掛けてくる。その橙と黒の縞々を少しだけ出して。時には壁の向こうから、時には窓の外から、そして扉1枚隔てたあちら側から。


(夫婦の寝室にも全然寄り付かないし…)


初夜を迎えてから1ヶ月。あれからグレゴワールか手を出して来ることはなかった。話しかける時もああして一定の距離と障壁を保ち、ジゼルに触れることさえしない。


「……」


いや、疑ってはいない。何せふたりは結婚したのだ。まるで業務のような会話や交流ばかりとは言え、嫌われているわけではないのだろう。


(本当に…?)


だがしかしジゼルの心には疑惑が落ちる。彼女が話しかけようと近付いても、彼は早々に距離を取り逃げてしまうのだ。ここへ来てグレゴワールがこちらに向ける愛、その有無が揺らぎつつある。ジゼルは悩んだ。


悩んで悩んで悩み抜いて――そして思った。






「ジゼル。ここに居るのか」


屋敷の一角。普段は使われない客間に、グレゴワールが扉を開けて現れた。


(まだ…。まだよ…)


ジゼルは返事もせずじっと待っている。彼が誰もいない室内の中心まで来た時が合図だ。ジゼルは隠れていたクローゼットから、音を立てずに出た。


「……」

「居ないのか…?妙だな。匂いはこの部屋からするが…」


鼻をふんふんと動かして辺りを見回す彼の背後へ、そっと忍び寄る。そして手を伸ばし――思い切り尻尾を掴んだ。


「ふぎゃん!!」


グレゴワールからは到底部下や使用人には聞かせられない、あられもない声が漏れる。


(よし来た!)


ジゼルが心の中でぐっと拳を天に突き上げた。この縞々で自由自在に動く部位が、彼の弱点なことは知っている。そのまま指を滑らせて根本まで一気に撫でた。


「っ…!?!?」


グレゴワールが声も出せず、床に転がった。悶絶する彼の上に跨がる。最近近寄ることさえ許さない彼を、どうにか問い詰める為の策だった。


「一体どういうつもり!?」


そう、悩んで悩んで悩み抜いてジゼルは思った。直接聞く方が早い。


「っ…!?」


上に乗った妻に、グレゴワールがぎょっと目を剥く。そんな彼に対して、ジゼルは畳み掛けるように続けた。


「毎日毎日遠くから話し掛けてきて…触れるのも避けるって何!?」


ジゼルははっきりした性格だった。前のような完全に無視されている状況ならば、嫌われているのだと一発で分かる。けれど今回のこれは何だ。疑惑と不安に苛まれ続けるのだけは耐えられない。


「嫌いになったとか捨てたくなったんなら、はっきりそう言ってよ!」


煮え切らない夫の態度にぶつけるのは疑問と怒り、そして不安だ。言いながら、手に持っている尻尾を強く握ると、グレゴワールからは変な呻き声が漏れた。


「じ、ジゼル…」


けれど震える指先に気が付いたのか、グレゴワールはゆっくりと彼女の名前を呼んだ。


「初夜の時。その、お前は、泣いて、いただろう…」


グレゴワールは小さく呟いた。思わずその瞳を見つめると、琥珀色の瞳にぽつりと浮かぶ虹彩は迷ったように動く。やがて先を口にした。


「所詮は人間と、魔族だ。やはり性行為は無理なのかと、思った…。だがあまり近くに居ると、触れたくなってしまう…傷付けないようにと思ったが為の、行動だった…」


ジゼルの動きがぴたりと止まる。瞬きをしながら彼を見るが、グレゴワールの顔は大真面目だった。


「……」

「……」


そっと手を下ろす。何から言おうか悩んで、ジゼルはまずは人間の一般常識を教えることを選んだ。


「え、ええと…その、人間の女性は…初めては皆、だいたい、痛いのよ」

「何…?」

「それに、貴方のは、その…ちくちくしてたし」


ごにゃごにゃと呟く。猫科特有の所謂陰茎棘と言うやつだろう。彼女を傷付けるほどのものではなかったが、特殊な形状は生娘のジゼルには少し辛かった。


「人間の雄はちくちくしていないのか…!?」


そして驚愕の事実を知ったグレゴワールと言えば、ぎょっと目を見開いた。


「やはりジゼル。俺達はあまり触れない方が…」

「けど、良いの」


嫌われているわけではない、その真意を知ることができた安堵もあったのだろう。ジゼルの口からは本音がぽろりと溢れ落ちる。


「痛い思いをしても良い。貴方と一緒に居られるなら、そっちの方が、良い…」


途中で言葉が途切れる。真っ赤になったグレゴワールと、目が合ったからだ。


「……」

「……」


互いに耳まで赤に染まる。ジゼルはごほんと咳払いをして、手に持っていた細長い縞々を放した。


「尻尾、掴んでごめんなさい…」

「い、いや。何ともない。平気だ」


口ではそう言いつつも、やはり尻尾はそそくさと逃げて行った。

熱くなる顔を押さえて、ジゼルはそっと先を続ける。


「…欲しいものがあるかって聞いたわね。私、無いって言ったでしょう。あれ、本心よ」

「……」

「無いってことは、十分なの。満たされてるってこと。貴方が上手く立ち回ってくれたから、私は自分の足で立って歩ける。ジゼルとして生きられる。理想とは違うし、普通の人からすれば大分変わった幸せかもかもしれないけど、私ね、とっても幸せ」


言いながら、彼の手に指を絡ませる。強く握ると、彼女には無い爪と肉球に触れた。ジゼルの本音は、静まり返った室内に優しく響く。


「…そうか」


グレゴワールがほっと息を吐いた。少し迷ったものの、ジゼルの腰を優しく掴み自身の腹の上から移動させる。服の埃を払い、立ち上がった。


「来てほしい所がある」


部屋から出て廊下を進む。彼の背中に大人しく付いていくジゼルは、背後から声を掛けた。


「ねえ。欲しいものなんて、何であんなこと聞いたの?」

「…誕生日と聞いたからだ」


誕生日。彼の言葉を受けて、日付を計算して、そう言えば今日だったと思い出す。色々なことが重なり本人さえも忘れていた。けれどそれよりも何よりも、ジゼルが気になったのは別のことだった。


「それ…誰から、聞いたの…?」


グレゴワールに自身の誕生日を話したことはない。当然、この国で誰かに言ったことも。


「…誕生日には、贈り物をするものだろう」


彼はそう言って扉を開けた。その部屋の中央に居た人物に、釘付けになる。


「っ…!ソフィ…」


車椅子に乗った、同じ顔。こちらを見て、目を見開いた。直ぐ様くしゃりと歪む。嗚咽を交えながらも、何とか口を開き声を出した。


「お姉ちゃん…!」






「……」


ここには居ない筈の妹の姿を見つけ、駆けて行くジゼルの後ろで、グレゴワールは静かに佇む。


(…人間はずっと、醜いものだと教えられてきた)


当然だ。彼らは戦争をしていたのだから。相手は殺すに足る賤しい生き物だと、教えられて育つ。事実、彼の出会った人間はどれも、美徳からはかけ離れていた。国を裏切る者、自身の命の為に愛する者を差し出す者も居た。ジゼル自身もそう言った自分勝手な保身の為に差し出された被害者だ。


ソフィが来るかどうかは賭けだった。ジゼルが妹と手紙のやり取りをしていることは知っていたから、それを元に彼も手紙を出した。秘密裏に一度、こちらに来てくれないかと。


けれど当然、ソフィは警戒するだろう。いくらジゼルが紙の上で「幸福だ」と言っていても、実際に見た訳でも何でもない。魔族側の罠の可能性もある。更に彼女は足が動かない。下手をすれば元敵国の真ん中で、取り残されることになる。何とでも、理由をつけて断ることができる申し出だった。


(…杞憂だったな)


けれどグレゴワールの提案を、彼女はいの一番に了承した。それほど姉に会いたかったのだろうと、姉の幸せをこの目で確認したかったのだろうと、目の前で抱き合う姉妹を前に、そう思った。その景色のあまりの眩しさに、グレゴワールは目を細める。


人間はずっと、醜いものだと教えられて育った。けれど少なくとも、一括りにそう断言するのは間違っていたのだと、今はそう思う。


これほど美しい光景を、彼は他に知らない。

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双子の姉妹の片方に、幸福の雨は降らない エノコモモ @enoko0303

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