双子の姉妹の片方に、幸福の雨は降らない

エノコモモ

双子の姉妹の片方に、幸福の雨は降らない


“双子の姉妹の片方に、幸福の雨は降らない”


彼女達の生まれた地方に伝わる、もう出どころも分からないほど古い伝承だ。根拠も確証も無い、殆ど噂に近い昔話。けれど困ったことに、それを信じている者はまだ多く居る。双子の出生率はおおよそ100組に1人。判断材料が乏しい上に、何より他ならぬ領主の双子の姉妹自身が、それを体現してしまったからだ。


「人間臭いねえ」


剣呑な空気、嫌忌に満ちた視線。辺りには異形の者達が立ち並ぶ。これで嫁入りと言うのだから、まさに幸福とは程遠い。


「負けた国は惨めだな」


先日、魔族と人間の二国間で続いていた戦争が終結を迎えた。結ばれた平和条約は表向きには友好を示すものだったが、中身には不平等な条件が並ぶ。完全に、人間側の敗北だった。


そんな立場の弱い人間側の、魔族に対するご機嫌伺いの一環として、人間の令嬢をひとり、差し出すことになった。実態が生け贄と相違無いとしても、表面上は友好関係を表す嫁入りだ。誰彼構わずと言う訳にはいかない。一定以上の家格を持ち、若く、見目の良い、そして残された家が国からの恩情を受けられる者。


そこで白羽の矢が立ったのが、コルベール伯爵家の双子の姉妹、ジゼルとソフィだった。顔立ちはもちろん、声に身長、鮮やかな群青の髪に至るまで、ある一点を除けば両親でも見分けのつかないほどよく似たふたり。けれどこの殆どそっくりな双子のどちらを生け贄に差し出すか、答えは直ぐに決まった。


「嫌だ嫌だ。出来損ないの方を寄越して」


悪意の中心を、ひとりの少女が進む。彼女が動けば、椅子の車輪がぎしりと音を立てる。妹のソフィは、両足が不自由で、自力で歩くことはおろか立つことさえできなかった。


「まあ良いだろう。足が動かねば逃げることもできん。閣下の機嫌を損ねずに済む」


相手は戦勝国、さらに言えば人の理からは大きく外れた魔族だ。殺されても文句は言えない。そしてどうせ死ぬのならば価値の低い方を。魔族への嫁入りは、姉のジゼルではなく、妹のソフィが行くことになった。






「お前か」


そんな不幸と奸計に塗れた嫁入りの日。寝室に現れた結婚相手を見て、ソフィは息を呑む。


「っ…!」


天井につくほどの大きな体躯。蝋燭の火に照らされて、縞模様が不気味に煌めく。初めて見る大型の獣人を前にして、ソフィの体は小刻みに震え出す。けれどこの足では、到底逃げられない。逃げる先も、どこにもない。


グレゴワール・ド・ヴィルパン。虎の獣人。先の戦争で武勲を立て、爵位と広大な領地を与えられた。つまりは人間を殺すことで成り上がった男である。彼が口を開ければ、恐ろしい牙が覗き地鳴りのような声が響く。


「お前の姉は、人間の王子の元へ嫁に行ったらしいな」

「…そうよ」


ソフィが気丈に返事をする。人間の国から与えられた恩情だった。双子の片割れを犠牲にする代わりに、もう片割れには幸福と家の安泰を。


「とんだ貧乏くじを引いたものだ」

「……」


睨み付けるソフィも意に介さず、彼は肩を揺らして笑う。


「どんな気分だ?」

「っ…!」


グレゴワールがするりと彼女の服に手を掛けた。それを受けて、ソフィは今夜の目的を思い出す。けれど相手は夢にまで見た王子様でも、人間でもない。優しい愛の囁きも、碌な前戯もなく事は進む。ところが彼女の脚を開いたところで、ぴたりと彼の動きが止まった。


「……?」


羞恥と屈辱で真っ赤になりながらも、ソフィが彼に視線を送る。はだけた胸の向こう側で、恐ろしい顔が宙を見ていた。


「……」


何か思案するような様子を見せた後、グレゴワールは立ち上がる。そしてそのまま、寝室から出て行った。






渡り廊下の向こう、庭を挟んであちら側。橙色の頭に黒い耳、大きな背中が扉の向こうに消えていく。そしてその後に続く人影の固まり。


「……」


初夜と変わらぬ背中を見ながら、ソフィは息を吐いた。荘厳な玄関の前には馬車。朝日に燦々と照らされて、ぴかぴかの窓が輝いている。


(最近よく、来るわね…)


グレゴワールには婚約者がいる。ソフィとは違う、正式な魔族の相手だ。魔族のいろはがとんと分からない彼女でも、分かる。全身を巡る美しい鱗に艶やかな曲線を描く肢体。似合いのふたりだった。その婚約者との結婚が決まったのだろう。日程の打ち合わせや式の準備をしているに違いない。


「……」


皆が皆、ソフィでさえ分かっている。自分は用無し。戯れに魔族に嫁がされた人間の女は、いよいよ捨てられるのだ、と。


(あの初夜から、寝室に招かれるどころか、話すことも無かったし)


半月ほど前のあの日、急に出ていったきり、グレゴワールがソフィに触れることはなかった。おそらくは飽きたのだろう。それか何か粗相をしたか。


(まだ殺されてないだけ、良かったけど…)


「結局いつ殺されるんだか分からない状況で毎日を過ごすんだから、どっちもどっちね」


自虐的な微笑みを浮かべる。グレゴワールのいる部屋に背中を向けて、ソフィは椅子の車輪を進めた。






『私ね。お姉ちゃんなんだからって言われるの、ずっと嫌だったのよ』


ソフィが魔族の国へ行くと決まった日。姉のジゼルは言った。


『お姉ちゃんなんだから我慢しなさいとか、お姉ちゃんなんだからできるでしょうとか、歩けない妹のせいで余計な苦労をしたもんよ』


20年以上生活を共にし、けれどこれから地獄へと向かう同じ顔を見つめながら、彼女は先を続ける。


『アンタが居なくなったらきっと、せいせいするわね』



「……」


そこでふと、意識が昇ってきた。ソフィが瞼を開けると、目の前にはところ狭しと並ぶ蔵書達。彼女がこの屋敷の中で唯一落ち着ける、図書室だった。


(私、寝てたんだ)


ぼんやりと霞む目で数回、瞬きをする。彼女の手元には手紙。双子の片方から来るそれはいつだって、長く厚みがある。嫌になるほど良い陽気のせいか、それを読みながら意識を失ってしまった。だからあんな過去の夢を見たのだろう。


読み直そうと再び握りしめた後で、室内に響いた小さな物音に顔を上げた。


「誰か、いるの?」


手紙を胸元に仕舞い、両手で車輪を掴む。この屋敷に、いやこの国のどこにも、ソフィの味方は居ないのだ。


警戒しながらそちらを睨んでると、ふたりの男が姿を現した。灰色の毛並みを持つ魔族、あの姿には覚えがある。屋敷で使用人として雇われている者達だ。彼らはにやにやと下卑た笑みを浮かべながら、ソフィに近付く。いつも向けられるただの嫌悪とは違う、じっとりとした粘着性を含んだいやらしい目線だった。


「人間の女は、また具合が違うらしい」

「お前だってどうせ死ぬのなら、その前にいい思いをしたいだろ?」

「別に。興味ないわ」


男ふたりを睨み付けながら、ソフィは車輪を回して、ゆっくりと後退りをする。けれど扉まで辿り着く前に、別の影に阻まれた。


「っ!」


(しまった!もうひとり…!)


振り向いた時にはもう遅い。


「自分で立つこともできない女が、逃げられると思うな!」


背後から蹴られて、車椅子ごと倒れる。椅子から投げ出され、ソフィの体が転がり落ちた。当然、それを助けることもせず、男は彼女に覆い被さって来る。


「離して!」

「恨むんなら、お前をこんなところに寄越した国と、片割れを恨むんだな!ここに来たことを後悔しろ!」


ガチャガチャとベルトを外す音。顔に掛かる荒い息。


「っ~~!」


けれどその手が触れる前に、ソフィは男を――


「がっ…!」


ちょうど股間に当たったらしい、悶絶する男を放って、彼の下から這い出た。床に足をついて、


「!?」


彼女の行為に、ふたりの男がギョッと目を剥いた。それはそうだろう。何かで支えることも、ふらつくこともなく、ソフィは2本の足でその場に立っていたからだ。


「その足…治ったのか…!?」


彼女を困惑したように見つめながら、彼らは顔を合わせる。


「いや…妹の足は、生まれた時から動かなかったと聞いている…」


有り得ないこの状況を前に、やがてひとつの答えに辿り着く。


「お前…まさか、姉の方か…!?」

「……」


彼らを睨み付けて、は口を開いた。


「後悔なんてする訳ないでしょ…!」


懐に仕舞ってあった手紙が、こぼれ落ちる。何枚も重ねられた分厚い便箋。彼女の妹、ソフィからの手紙だった。


「あの子が…ソフィが、幸せになるべきなのよ!」


『アンタが居なくなったらきっと、せいせいするわね』


妹が生け贄になると決まった日、ジゼルはそう言った。

共に生きてきた姉妹の運命に心は痛めたが、自分ではなくて良かったと、安堵してしまったのもまた、本心だった。そんな卑怯な感情を持ってしまったことが許せなくて、そう言った。


恨んでくれて構わないと思った。ソフィの行く先に救いなどない。たとえ憎しみの感情でも、拠り所は必要だ。ジゼルが、唯一彼女に渡せる餞別だった。


『今まで本当にありがとう』


けれど、ソフィは言った。小狡い感情も、なけなしの餞別も何もかも見抜いて、妹は笑った。


『幸せになってね、お姉ちゃん』


「…どうなったっていい」


吐き捨てるように、ジゼルは呟く。


「厭らしいあんた達も。仏頂面の虎男だって、私達を物としか見てない国も人間も、大嫌いよ!国民がどうなろうが構やしない…!でも、あの子が不幸になるのだけは嫌…」


誰よりも近くで見てきた。たとえ自分がいちばん不幸なその時でも、人を気遣う、優しくて大切な彼女の妹。


「私はお姉ちゃんなんだから!」


あの日。妹を魔族に送り出すあの時。ソフィから車椅子を取り上げて、部屋に閉じ込めた。そうして彼女に成り済まし、全員を騙し祖国を後にしたのだ。向かったのがソフィではなくジゼルであったことは、当然後から露呈しただろうが、彼らも間違って送ってしまったとは言えない。入れ替わったまま、何事もなかったかのように振る舞うだろう。つまりはソフィをジゼルとして、幸福な道へと送り出す。それを見越して取った手だった。


ソフィからの手紙にはいつも、謝罪と感謝が長々と綴られている。痛いほど感じるのは、「自分だけが幸せになった」と言う惨憺たる負い目。それを読んでも尚、妹の幸福に身を焦がすような嫉妬や憧れを感じてもまだ、ジゼルの心を占めるのは愛情だった。


「ソフィが、幸せになれて良かった…!」


絞り出すようにそれだけ言って、目の前の男達を睨み付ける。傍にあった燭台を手に取った。それを掲げ、ぶんと大きく振り回す。


「どうせ死ぬ身よ!ならひとりでも多く道連れにしてやるわ!」


その一言に、戸惑ったように揺れていた男達の瞳が据わった。先ほどまで床に踞っていた男も立ち上がり、ジゼルを囲む。


が、次の瞬間、壁ごと彼らが吹き飛んだ。


「へ…!?」


もうもうと煙が立つ。割れた壁から出てきた男を見て、ジゼルが息を呑む。赤く光る瞳に大きな体、見るだけで恐怖に竦む牙。グレゴワールだ。同時に足のことを思い出し、咄嗟に床に座り込む。


「……」

「だ、だんなさ、」


室内に進んできた彼は、呆気に取られる男を腕1本で薙ぎ払う。ジゼルの隣の壁に、灰色の毛並みがみちりと食い込んだ。グレゴワールはそのまま、視線を残った男達に向けた。


「……」


叫び声が屋敷中に響き渡る。そんな中、燭台を手に抱えたまま呆然としていたジゼルが、はっと我に返った。


「ち、ちょっと」


一方的な蹂躙である。先程まで殺し合おうとしていたジゼルまでもが思わず止めようとしてしまう程度には、ボコボコと殴りまくっている。


「ね、ねえ。死んじゃうんじゃ…」


グレゴワールがこちらを見た。返り血が飛んだ捕食者の目で睨まれて、ジゼルの心臓が縮み上がる。そして次に彼が言った一言は、更に彼女を驚かせるものだった。


「ジゼル」

「!」


本当の名前を呼ばれ、ジゼルがびくりと固まった。グレゴワールは何事か迷った後に、静かに口を開く。


「…知っていた」

「!」


ジゼルがごくりと唾を飲み込んだ。彼を見つめ返す。


「い、いつから…?」

「……」


初夜を迎えたあの時。グレゴワールに降ってきたのは、小さな違和感だった。


(…なんだ?)


動かない筈の足が、わずかに動いたような気がしたのだ。違和感は、意識して再度触れたことで確信に変わった。この足は、生涯一度も自重を支えたことがない足ではない。なら妹ではなく、姉の方だ。つまり、この女は。


(妹の代わりに、ここへ来たのか)


幸福な未来を捨てて、恐らくは全員を騙してこの国に来た。目的はただひとつ、妹を守るために。


「どう、するの」


掲げていた燭台を下ろし、ジゼルが呆然と声を出す。


「妹を寄越せって言う話なら乗らないわよ!」


気丈な彼女だからここまで“持った”のだ。優しく気の弱いソフィには耐えられない。彼女は遠くの地へ嫁に行った。入れ替わったところで、瓜二つの双子だ。証拠はない。そう、自由に動くこの足以外には。


ジゼルが燭台から手を離し、壁に掛けられていた斧へと手を伸ばす。


(足を斬り落としてでも、ここに――!)


「ジゼル」


グレゴワールの手が、彼女の手を掴んだ。その拘束から抜けだそうと、ジゼルが力の限り腕を振るが、太い腕はぴくりとも動かない。そしてそのまま、彼は言った。


「結婚して欲しい」


斧がすり抜けて床に落ちる。飾りだったのか、床に当たると金属にあるまじき軽い音を立てた。


「…は?」











「……」


1ヶ月前のことを思い出し終えて、ジゼルは瞼を開ける。寝室で、ベッドに腰掛けふうと息を吐いた。


(あの言葉、嘘だと思ったのにな…)


あのいきなりすぎる求婚から1ヶ月、グレゴワールとジゼルは正式に結婚をした。式は厳かに、つつがなく行われた。と言っても、相手が人間なだけにグレゴワールの身分からすればごく内々、限られた使用人とふたりだけと言う随分質素なものになった。けれどジゼルが彼の妻になったことを表明するには、充分だ。


「…思い出してもやっぱり、分かんないわね」


呟いて苦笑する。グレゴワールが何故そうまでするのか、ジゼルは知らない。何せ彼はどちらかと言えば、いや確実に彼女の敵だった筈だ。いきなり優しくされても、騙されていると思うのが正直なところである。


(…ここのところ婚約者、いや、元婚約者だけど、彼女が頻繁に出入りしていたのも、婚約破棄の手続きを進めてたらしいし。一体なんで、そこまでして――)


「ジゼル」

「!」


声を掛けられて、びくりと身が震える。


「まだ、言ってなかったな」


顔を上げれば、橙色の毛並みは、今日も美しく煌めいている。普段はあまり見せることのない白い毛並みが目の前に現れて、ジゼルの心臓がどきりと鳴った。


「……」


そのまま視線を上げいき、グレゴワールの瞳を見つめる。彼が口にしているのは、ジゼルの持つ疑問についての答えだろう。


「…俺は兄弟と、殺し合って来た」


グレゴワールが彼女の隣に腰掛ける。大きな彼が座ったことで、ベッドがぎしりと鳴って羽毛ぶとんが沈んだ。グレゴワールはどこか遠い目をしながら、静かに呟いた。


「俺の父の代で、一族の覇権争いが激化した」


彼がまだ、幼い時の話である。グレゴワールの父には妻が複数おり、そこから生まれた子供達による世継ぎ争いが始まった。嫉妬に憎悪、暗殺に妨害、皆が皆正気ではない環境だった。その地獄に耐え、生き残り勝ち上がった時には、彼はひとりきりだった。


「守ってくれる兄弟も、自分が守ろうとした兄弟も、俺には居なかった」

「……」


グレゴワールの口から出るのは自身の生い立ち。声に滲むのは僅かな後悔か。ジゼルは黙ってそれを聞く。


「だからあの時。お前が妹の為にその身を懸けたと気付いた時、どうしようもなく眩しくて、憧れた」

「……」

「そして実際にこの地へ来てこのような仕打ちを受けてもまだ、お前は後悔していないと言う。そんなジゼルを、俺は…」


グレゴワールの声が尻すぼみになった。隣で、真っ赤になって固まっているジゼルに気付いたからだ。その瞬間ぶわっと毛が逆立ち、毛の上からでも分かるほどグレゴワールの顔が赤く染まる。


「……」

「……」


互いに真っ赤になったまま、ふたりして固まる。やがてジゼルが群青の瞳を、ゆっくりと彼に向けた。


「そ、そう…」

「ああ…」


グレゴワールの瞳がこちらを捉える。琥珀色の虹彩にぽつりと浮かぶ黒目は、揺れることなくジゼルを射抜いた。


「…身辺整理が終わるまで、発表は控えようと思っていたが…辛い思いをさせた。…すまなかった。事情を鑑みず、あのようなことを言ったことも」

「……」


気にしていないと言えば嘘になる。だから黙って、伸びてきた手に身を預けた。たまに爪の覗く恐ろしい手、鋭い牙には未だに慣れない。けれど最初の時には感じなかった胸の高鳴りは、心地よく彼女を包む。


「…ジゼル」


グレゴワールの顔が、近付いてきた。ふたりの口が重なり合う。初めの1回は触れるだけ、続いてもう1回。今度は深く。人間とは違う、大きくて牙の生えた口。それに見合う大きな舌。思わずぶるりとジゼルの身が震えた。


「ざ、ざらざらする…」

「…痛いか?」

   

彼女の言葉に、グレゴワールが動きを止めた。


「う、ううん。それは、平気、だけど…っ」


言っているそばからもう一度舌を入れられる。そう、痛くはない。獣人と言っても半分は人間。実際の猫科の舌と比べてしまえばそこまで棘はなく痛くはないのだが、少々刺激が強すぎる。上顎をざらりと舐め上げられ、ジゼルの口の端から声が漏れた。


「っ、ふ…!」


気が付けば、グレゴワールの手が器用に彼女の服の釦を開けていくところだった。つるつるとした生地の肌着が露になると、彼はどこか鼻息の荒い様子で、舌を首筋から胸元へと進ませる。その舌が首筋の上を這ったところで、ジゼルの口からは一等大きな声が出た。


「あ、っ!」

「!」


勢い余って、思わず目の前で揺れていた尻尾を掴んでしまった。手の中でぶわりと縞模様の毛が逆立つ。


「っ…!」

「ご、ごめんなさい…?」


何事か悶絶するグレゴワールに、そっと謝罪を口にする。当然人間であるジゼルには付いていない部位な訳で、そもそも謝るべきものなのかもよくわからない。


「へ、平気だ…!」


そして謝罪を受けたグレゴワールと言えば、そうは言いながらも、そそくさと尻尾を彼女の手が届かない位置へと逃がした。


(へ、平気じゃなかったのね…)


手の中をするするすり抜けていく毛並みを感じながら、ジゼルは理解する。今度から気を付けようと、そっと心に留めた。






「……」


窓から射し込む月明かりだけが照らす寝室。ジゼルは、ぼんやりと天井を見つめていた。グレゴワールは隣で、彼女を抱き締めるようにして寝息を立てている。首の部分に触れて撫でると、ゴロゴロと喉が鳴った。無意識下の行動だろうが、思わず頬が緩んだ。


「……」


ジゼルも気付いている。グレゴワールがここまで疲れきっているのは、普段は使わないような神経やら理性やらを総動員させたからで。婚約破棄にも目玉が飛び出るような賠償金を払い、人間との結婚にあたってはほうぼう手を尽くしたことも知っている。その全てが、ジゼルの為だと言うことも。


(そうね、分かってるわ…)


毛の中に顔を埋めると、もふっと柔らかい弾力が返ってくる。そしてこの大きな猫のような旦那様に募る想いの正体も、彼女は気付いている。


「ソフィ…私ね、幸せになれるみたい…」


呟きながら、瞼を閉じる。グレゴワールと正式な結婚をすることになったとの一報は、既に送った。


(きっと今頃、届いてる)


幸せの中に身を置きながら、自分を責め続けているであろう姉思いの彼女の元へ。


双子の姉妹の片方に、幸福の雨は降らない。降る時は、両方に。

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