EP-2

「ジッポ……!」

 くずおれるジッポの身体を、リュィが小さな身体で抱き留める。小柄とはいえ、彼女の怪力は難なくジッポを受け留めた。

 胸へ接した耳に、伝わる音は何もない。脈打つ鼓動も、流れる血流の音も。感じるものといえば、失われてゆく熱ばかり。


「お悔やみを、申し上げた方がよろしいですか」

 ジッポの身体をそっと床に横たえるリュィに、これまで傍観に徹していた翡道フェイタオが、声を掛ける。

「……ううん」と、リュィは伏せるジッポのかたわらへ、ぺたりと座り込みつつ、かぶりを振った。


「こうなるかもしれないって、わかってたから」

 つぶやきを舌からそっと離して、彼女はジッポの右脇腹——肝臓が位置する場所へ、左手を宛てがった。

「だから、こうするんだって、最初から決めてた」

 リュィが何をしようとしているのか、その決意のほどを察して、翡道フェイタオは止めるでもなく、ただ一つの問いを発した。


「彼は、どう思うと?」

 俺のカケラと、ジッポは言った。今でも、翡道フェイタオはその真意を測りかねている。

 人が、そんな儚いもののために、我が身を犠牲にできるのか。そもそも、ジッポの動機が犠牲の精神にあると考えている翡道フェイタオに、彼の真意がわかろうはずもない。

 翡道フェイタオが発した問いは、皮肉や糾弾ではなく、純粋な疑問だった。


「そんなの、知らない」

 とはいえ、リュィのさっぱりとした応えには、さすがに意表をつかれた様子で、翡道フェイタオは呆気に取られた。

「人のこと勝手に起こしといて、じゃあなの一言で済ませようなんて、そんなの勝手だと思うでしょ?」

 勝手だ勝手だとむくれ面で言うものの、リュィの声にはジッポを咎める調子はなかった。この男の勝手は、今に始まった事じゃない。


「だったらあたしだって、勝手にする」

 リュィと、自分に名を付けたのは、この男だ。

 あたしという格は、自分の肝臓へ根差したたましいと、この男が自分の名を呼ぶ言霊ことだまとに在る。

 だったらそれを、一つに帰すだけだ。何を惜しむ事があるだろう。


「その結果、あなた自身が消えてしまうのだとしても、ですか?」

「あたしを、リュィって呼ぶ声がなくなってしまうくらいなら、ほかに欲しいものなんかないよ」

 犠牲。

 そんなもののために命をなげうつ者が、こんな野花のような笑顔を咲かせるだろうか。


「失礼。つまらない質問でした」

 頭を伏せる翡道フェイタオに「いいよ、別に」と、リュィがあっけらかんとした様子で応じる。

「……敵いませんね」と苦笑を返した翡道フェイタオが、あらためて傍観者へ徹しようと足を一歩、後ろへ退げた時——

 

「——やめ、ろ」

 制止する声がひとつ、あった。

 わななく声でリュィを留める言葉を発したのは、デュポンだ。

 壁に背中を預けながら意識を取り戻した様子だが、立ち上がる事もままならず、視界は霞んでいるのか焦点さえ怪しい。

  

 それでもリュィが自分へ振り向いたのを気配から察し、再び制止の言葉を吐こうとして、激しく喀血する。

 ジッポがその命を賭して放ったフィニッシュブローは、デュポンの右肺へ、致命的なダメージをもたらしていた。

 よしんば一命を取り留めたとて、肺組織の完全な回復は望めまい。細胞の壊死を待つばかりの右肺は摘出、呼吸を要とする魂魄こんぱく功術の機能は、健常時の二割にも満たなくなるだろう。

 デュポンの火葬屋としての命脈は、断たれたも同じだ。


「やめろ……。やめるんだ……!」

 スーツの胸許を鮮烈な赤に染めるのも厭わずに、声を絞り上げるデュポン。

 血の絡んだその声は鬼気迫るようでいて、反面、悲痛な叫びにも聞き取れた。


「あなたはきっと、聞きたくもないだろうけど」

 応えるリュィの面差しに、デュポンへ対する恨みや辛みといった感情はないように思われた。

 ジッポと彼女自身を、この苦境に追いやった張本人を前にしても、リュィの心に吹く風は、荒むわけでも凪ぐわけでもなく、ただ気の向くままにそよいでいる。


「ごめんなさい」

 余人には由縁の知れない詫言を口にして、リュィは宛てがった手から、倒れ伏したジッポの身体へコンを注ぎ込んだ。


 魂魄こんぱく功術による内傷の治癒術——気功。いや、医療の心得などないリュィの事、彼女が行ったのは電気ショックによる心肺蘇生にも似た荒療治だ。

 停止していた心肺へ魂魄こんぱくが注がれ、その機能を再開させる。壊死を始める細胞組織へ気血が巡り、活性化。死にゆこうとしていたジッポの身体が、死の淵から掬い出される。

 青褪めたジッポの肌に血色が通う。それを見届けるリュィの瞳、木漏れ日色の虹彩から、色彩がこぼれ落ちてゆく。


 コンシーは、体外へコンを発する事ができない。そうされるのは、彼らが自身でコンを練成できないからだ。

 体内に留めたコンを身体の強化に利用しても、循環するだけだ。だが体外へ発したコンは、二度と体内へと戻らない。

 他者の生き血を乞い、そのコンの全てを与えられない限り、自らコンを得る術を持たないコンシーにとって、それは自我の喪失を意味する。


 自らの精神を形作る輪郭が溶けてゆく。自分の身体の認識すらも、曖昧になる。やがて上体を起こす力を失ったリュィは、とさりとジッポの胸許へ倒れ込んだ。

 どくん、どくん——と、心臓の鼓動が聞こえる。あたしはただ、ここへ帰るだけ。


「リュィ……」

 血が通い、色を取り戻したジッポの唇から、あたしを呼ぶ声がする。

 ああ、たしかにそこに、あたしが居るのなら。他に必要なものなんて、あるだろうか。


「おはよう、ジッポ……」

 そのつぶやきを最期に、リュィは脈打つ心臓の音を揺籠にして、微睡みの中へと沈んでいった。

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