エピローグ

EP-1

 まず最初に機能を取り戻したのは、聴覚だ。鼓膜が律動的な電子音を捉える。それが、自らの鼓動と紐付いていると自覚するのに、ひと呼吸と掛からない。

 常と比べて肺が重く感じるが、魂魄功術は正常に働いた。


 心電図の音とは別に、紙片をめくる音が耳を掠める。紙の擦れる乾いた音が聞こえる共に、古書特有の花に似たインクの匂いがする。

 

 ヤニのにおいはしない。身体を包み込むのも、硬いばかりの合皮ソファではなく、まっさらなシーツの柔らかい感触だ。

 

 まぶたを開けば、おぼろげな光が網膜を刺す。次第に像を結んだ視界が映したのは、ヤニに汚れたものではなく、真っ白で清潔な天井だった。

 病院の一室と思い至るのに、そう間は掛からない。自分に取り付けられている物とは別に、もう一つ心電図の律動的な音がするのを聞く限り、どうやら個室というわけではないようだ。


「ぐ、う……!」

 身を起こそうとするも、身じろぎをしただけで骨身が軋み、思わず呻めき声を漏らしながら、ベッドへ沈む。


「おや、目が覚めたか」

 左から、声が聞こえる。

 首を巡らせて、眼を向けようとしたところで、ようやく視界の左半分が暗闇に閉ざされているのに気が付いた。

 左手を、左眼窩へあてがってみれば、包帯に覆われているのがわかる。

 少し指に力を込めてみるが、手応えはない。本来、この奥に収まっているはずのものは、失われたらしい。


「ああ、そうだったな。どれ、席を移そう」

 がたりと物音がして、左手——窓際の位置から声を発した者が、ベッドの右側へ回る。

 丸椅子を置いて、背に一つ真っ直ぐな芯を通したように背筋を伸ばしながら腰掛けたのは、誰あろう空見そらみであった。

 手には一冊の古書——『魯迅ろじん全集』の内の一巻を携えている。装丁を見る限り、余程の年代物である。


「しかしずいぶんと、無茶を働いたものだな」

 読み掛けだろうに、空見は栞も挟まずに本を閉じると、病室据え置きのナイトテーブルへ置いた。

 テーブルには、古書の他にも、見舞い品と思しき品々が置かれてある。


「見舞い客は、私だけではないよ」

 パーカッションのカートンに始まり、ライターオイルやミリタリーブランドの腕時計、白檀などの香料としても使われる生薬で作った匂い袋と、いずれも見舞い品としては風変わりだ。

「煙草は五十嵐さんか。オイルはさしずめ、サロメかな」

 言外に、共に蓬莱仙へ乗り込んだ二人が無事だという事を告げる空見。

「時計は確か、あの刑事さんだったか。匂い袋は老だろう。あの人も洒落た真似をする」

 空見はその口許に、役者のような笑みを忍ばせて続ける。


「そういえば」と、空見が病室の壁に設置されたコート掛けを指し示す。

「あの白水洗衣社も遣いを寄越したようだ。お前も中々どうして、顔が広いな」

 そこには、クリーニング済みを示す防塵ビニールに包まれたM51フィールドジャケットが掛けてあった。血の染みはすっかり落ちて、刀傷によるほつれも綺麗につくろわれているようだ。


「ああ、それと」と、声こそ何気ない風を装いつつ、空見は羽織の袖口から厳かな手付きで、一枚の茶封筒を取り出した。

「李飯店から、これを預かっている」

 ベッドに伏せる身体の上へ置いた拍子に、封筒から小銭の音がする。

「釣り銭、だそうだ」

 いつぞやに、そう語るほど遠い日の話でもあるまいが、置き去りにして来た縁。巡り回って我が身に帰って来たその縁に、ジッポは、ようやく実感を得た。


「……どうして、俺は生きてる」

 ぽつりと、つぶやきがこぼれる。

 それを耳にした空見は「まったく……」と息を吐く。

「とんだ貧乏くじを引いたものだな、私も」

 その言葉、その声音に含むところを察して、ジッポは痛みを押してでも、身を起こした。


「おい、あまり無茶をするな。二週間も眼を覚さなかったんだ。それもつい二日前まで、集中治療室に居たんだぞ」

「なにか……、知ってんだろ。なにが、あった」

 額に汗を浮かべつつ詰問するジッポに、また空見が深く息をつく。

「……よかろう。シェンファに語らせるよりは、マシというものだ」

 言外に凶兆を含ませて「ただし」と空見は前置いた。

「先にことわっておくが、伝聞だぞ。池袋の香主から五十嵐さんが聞き出した内容の、又聞きだ。それでも構わんな」

「ああ」

 首肯するジッポに頷き返すでもなく、空見は語り口を開く。


「ならば、心して聞け」

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