END-22

 かつり、かつり、かつり——と。

 気が付けば、ジッポはいつ間にか池袋の街並みを、ただひたすらに歩いていた。


 喧騒の抜け落ちた、静寂が滞る道。

 道端に停められた車体は、いずれも動かずに街の背景と同化している。


 景色の中で動くものといえば、人通りだけだ。雑踏と呼ぶに満たない、まばらな人影。

 それはまさしく、人影と呼ぶ他に形容しようがない姿をしていた。輪郭は薄く、男か女かも判別が付かない。はっきりとわかるのは足音ばかり。

 

 向かいの道を歩いていた人影が消えたかと思えば、次の瞬間には、忽然こつぜんと目の前に現れた別の人影とすれ違う。


 行き交うおぼろな人影にジッポは振り返る事もせず、ただ靴音を響かせる。

 ついさっき脱ぎ捨てたはずのフィールドジャケットに袖を通しながら、懐から紙巻煙草のソフトケースを取り出した。

 パッケージに印字されているのは、“PERCUSSION”。打撃パーカッションを意味する、アルフベット十文字。


 潰れたソフトパッケージから、癖の付いた紙巻を摘み出して、唇にむ。


 続けて紙巻に火を着けようと、これも最前取りこぼしたはずのオイルライターをポケットから探り当てて、キン——とこわく鳴らす。

 紙巻に火を灯し、悪辣な辛味のするヤニを喫する。

 

 吐き出した紫煙が、常のような薄い青みがかった色あいではなく、ほのかな緑色りょくしょくへ染められる。

 煙草を蒸しながら空を仰ぎ見てみれば、そこには目に慣れた青空はなく、緑陽に彩られた奇怪な空が拡がっていた。


 なぜ、空が青いのか。

 人の生肝を口にしたキョンシーが、ハクシーへと深化する折に発するあの問いは、この空に起因するものなのか。

 ジッポは、そんな事を考えながら、頭上に拡がる空の色、そしてその空に在るこの場所を、不可思議に感じる事もなく受け容れつつある自分を、半ば自覚していた。

 彼の鳶色をした瞳へ、じわりと緑陽の色が滲んでゆく。


「火、貸しておくれよ」

 ふいに、かたわらから発せられた声に、ジッポは空を仰ぐ視線を切った。


 ヤニに焼けたアルトボイス、蓮っ葉な口調。

 物を頼むセリフだというのに、相手の顔色を窺う気配が全くない。だというのに、何故だろうか。この女の頼みを無碍むげにする気になれないのは。

 結局のところ、ジッポは彼女の最期の頼みを聞き入れ、まっとうしたのだから。


「なにしに来やがった」

 声の源へ振り返る。

 停車する車のボンネットへ腰掛ける女が一人。靡く黒髪を後頭で一つに結い、薄青い燐炎のような瞳でこちらを見遣る。他の影と違って、はっきりと輪郭のあるその女の姿形は、見間違えようはずもない。


 黄燐。

 その登場に、ジッポは面食らうでもなく火を貸した。差し出した火が、その瞬間だけオイルライターではなくマッチのそれに変わっていても、今さら不思議がる程のものでもあるまい。


「なにって、見りゃわかるだろう? ヤニをやりに来たのさ」

 黄燐は、火の着いたシガリロ——ブルーノートを喫しながら、そううそぶく。


「お前のせいだぞ。煙草だけ供えられても、火がなくて、どうしろというんだ」

「死人に、ヤニが必要なのかよ」

「健康に伺い立ててやる義理がなくなったんだ、吸わなくてどうする」

 どうするも何も、この女が生前、身体を気遣って禁煙した試しなどない。

「よく言うぜ」とつぶやいて、不貞腐れたようにジッポは煙を吐き出した。

 常ならばビル風に攫われて散るはずが、無風の中、緑陽に染まる昇煙を見上げていると「呼んだのは、お前だろう」と黄燐もまた同じく、薄く緑色が滲む煙を吐きながら言った。


 それが先程の問いに対する応えだと察して、煙を追っていた視線を戻す。

 どういう意味だという疑問はなかった。事実、自分の歩いているのがどういう場所か見当が付いた時、この女の存在を思い描いたのは、他ならないジッポであった。


「……あんたは」

 この一年、ずっと腹の内に抱えていた疑念が、口を衝いて出る。

「どうして、俺なんだ。どうして俺に、リュィを預けた」

「リュィ、か」

 黄燐が、その音の響きを愛でるように、リュィの名を口にした。


「いい名前じゃないか。お前にしては、中々どうして洒落た名前を考えたもんだ」

「皮肉ではぐらかすんじゃねえよ」

「皮肉なもんか。お前がそういう奴だから、あの子を託したんだ」

 ボンネットに腰掛けたまま脚を組み替えて、黄燐は長くなったシガリロの灰を、ブーツの爪先に当てて削り落とす。


「あたしが残したかったのは、カケラだ」

 カタチじゃあない——と、黄燐はつぶやく。

「同じ名前で呼んでやっても、残るのは人形だけ。そこにはもう、あの子のカケラも、その中に在るあたしのカケラも、残っちゃいなかったろうさ」

「カケラ……カケラね」

 その意味、その価値はもう、問い質すまでもない。それを知り得たからこそ、ジッポは今ここに居る。

 それでも一つ、問いたい事があった。


「リュィは、あんたのことを母親だとは思っちゃいねえ。あいつの中に在るあんたは、ただのピンボケした想い出だけだ」

 そうなる事を、黄燐は知っていたはずだ。死者の命を繋ぎたいと願う者にとって、コンシーの本質は、ピントのずれたアルバムに過ぎないという事を。


「まあね」と、黄燐はため息と共に吐き出した紫煙が、散るでもなく昇るでもなく、じっとりとその場に漂うのを眺めながら、つぶやきを発する。

「あたしも人の親だ。自分の腹を痛めたわけでも、乳を飲ませてやったわけでもないけどねえ。それでもそいつについちゃ、しんどく想う気持ちもあったよ」

 けどまあ——と、黄燐はふと笑ってジッポを見遣る。

「お前が、居たからねえ」

 途端に、ジッポは咳き込んだ。

 ヤニの入れ方を間違えて咽せるなど、このパーカッションに初めて火を着けた時以来の事だ。


「なにやってんだい」

「……そいつを、どういう顏して聞けってんだ」

 呆れ顔の黄燐を、咳から立ち直ったジッポが睨み返す。

「可愛い気のないところは変わらずか。まったく誰に似たんだか」

 その言葉とは裏腹に、黄燐の口許には微笑みがあった。


「あの子とお前に、私のカケラが生きているのなら、それで良しとしておくさ」

「………勝手な女だよ、あんたって奴は」

 紫煙が、眼に染みる。

「勝手なのは、お互いさまさ。師弟そろって、こんな他愛ないものに命を張るなんてねえ」

 他愛ないと語る黄燐の声には、慈愛の響きがあった。まるで、自らの眼にしか映らない宝石を慈しむように。


「まあ、あたしはただの残響さ。お前達がどんな勝手働いたところで、そいつに文句をつけられやしないよ」

「お前、達……?」

 その言葉の含むところを訝しんだジッポの視界に、青い燐光が瞬いた。

「蝶、か?」

 それは一羽の蝶だった。青いはねをひらりひらり——と羽ばたかせて、はらりはらり——と舞う蝶。

 羽ばたきに合わせて舞う青い鱗粉が、ジッポの虹彩へ滲んだ緑光をさらう。


「な……!」

 緑陽の色が瞳から消え去ってゆくと共に、静寂に満ちた池袋の背景が遠ざかる。街並みが、車窓に覗く景色をビデオの逆再生に掛けたように、前へ前へと吸い込まれてゆく。


「おい……!」

 思わず前へ伸ばした指先へ、ひらりと蝶が止まる。ぱたぱた——と翅を休ませるでもなく悪戯気に羽ばたかせる蝶の仕草に、面影を視たジッポが瞠目した。

「リュィ……!」


「許してやりな」

 もはや姿形は視えなくなった黄燐の言葉が、耳許で囁かれるよりも鮮明に聞こえる。

「あの子だって、あたしやお前と同じなのさ」

 そんなところまで、似なくたって良いのにねえ——と消え入る痛切な声を最後に、ジッポの意識は再燃した。

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