2-6

 比良坂ビル、三階。

 五谷堂から一階降ったジッポとリュィは、樹苗を伴って“猫聞堂”へ通じるドアの前に立った。


 パインの無垢材、ドアノブやドアノッカー、果てはステンドガラスまで猫をモチーフにしてある扉。

 憚りを知らぬ男の事、ノックというマナーも当然知らないジッポは、輪っかを咥える猫を象った真鍮製のドアノッカーに触れもせずに、猫の手の形をしたドアノブを捻った。


 途端に、インクと埃のにおいが鼻を撫でる。

 扉の奥を埋め尽くすのは、本。

 天井近くまで届く書棚が幾つも設置され、ぎっしりと本が詰め込んである。足許を見れば、棚に納まり切らなかった本が、床にうず高く積まれていた。


 猫聞堂は古書店だ。この池袋北口辺りの事、扱うのは当然中国書に限られている。

 書棚と古書が埋め尽くし、古いインクの匂いが濃くにおう空間をジッポ達は歩いてゆく。そうして古書の森へ分け入って行けば、この場所を支配するのが必ずしも書物だけでない事に気付き、改めてこの店の名前を思い出す事になる。


 絵画、あるいは陶器、あるいは彫刻、他にも様々なオブジェ──猫をモチーフ―にしているという一点を除いて、統一性のない品々が古書の森に紛れるように、いや、むしろ我が物顔でこの場を支配していた。

 時計だけでも異なるデザインの物が、眼に着くだけで五つは壁に掛けられており、置物だけなら既に十数匹の猫とすれ違っている。 


 ゆらりと挑発するように書棚の上から尻尾を垂らしている陶器製の猫が居るかと思えば、床に積まれた本の上に木彫りの猫が腰を落ち着け、客の足休め用に置かれた藤編みの椅子を丸まって占領しているのまで居る。

 いや──、藤椅子に寝そべるその金色みがかった白い毛並みの猫が、ぱちりとその眼を開いた。生身の猫だ。

 金色の瞳。縦に長い瞳孔が細くなり、通りがかったジッポを睨むようにして見上げた。


「あ、キンカ」

 ジッポの背後から、リュィがひょいと顔を出して金色の猫に呼び掛ける。

 金華きんか。それがこの猫の名だ。名の由来は、その毛並みと瞳の色だけでなく、出身にある。最もこの猫の出身地の言葉で発音すれば“ヂンファ”となるが、大抵は日本語読みで通っていた。


 金華は名を呼んだリュィに一瞥をくれたが、ふいと視線を逸らしてまた眼を閉じるや、素っ気なくゆらりと尻尾を振った切り動かなくなった。

 袖に振られたリュィが「つれないの」と唇を尖らせる。


「悪いな」とリュィに苦笑を向ける者があった。受付カウンターに居座る空見である。

「勘弁しては貰えまいか。ちょいと前に帰ってきたばかりでね」

「また、あさがえり?」

「ああ。月が顔を出した頃に何処かへ姿をくらましたかと思えば、日の出と共には顔を見せる。いつもの事だ」

 そう言いながら空見は、まずリュィが手を引いている樹苗を一瞥し、そしてジッポが手に提げた包みを見遣る。


「どれ、まずはそいつを貰おうか」

 掌を向けて差し出す空見に、ジッポは無言を返した。無言のまま空見の前に立ち、カウンターの奥で椅子に腰掛ける彼を見下ろす。

 無言で睨むジッポに、空見は訝しむ様子もなく泰然とした微笑を返すのみだ。

 そうしてお互いに沈黙を交わしたのは、僅かの間の事だった。やがて、口を開いたのは緩やかに口端で孤を描く空見だ。


「聞いたか」

「ああ。聞いた」

 問いの形を取りながら、応えずと答えを知っている断定的な口調に、ジッポは頷いた。

「そういうわけだ。まあ、そう性急な話でもない」

「自分の身体の事は、自分が一番わかってるってか」

 いいやと、空見がかぶりを振る。

「老の御墨付きだよ。今日明日どうこうなるというわけじゃないらしい。だが、お前さんには知らせておく必要があると思ってね」

「要らねえ世話だ。今日明日、あんたがどうこうなろうと、俺の仕事は焼くだけさ」

 そう言って、空見の手に薬の包みを置く。

「それはなによりだ」

 助かるよと、空見が包みを受け取るや、ジッポは鼻を鳴らして踵を返した。


「おい待て、どこへゆく」

 呼び止められたジッポが、怪訝な顔で振り返る。

「なんだよ、用向きは済んだろ」

「いいや、まだ半分だ」

 樹苗を目線で示す空見に、ジッポは舌を一つ打って、どかり──と山積みになった本の上、置き猫に支配されていない山を選んで腰を下ろす。

「なら、とっとと済ませろよ」とパーカッションを咥えるジッポに、「損気なやつめ」空見はガラス製の灰皿を投げて寄越した。


「リュィ。樹苗をここへ」

「はぁい」とリュィは、カウンターを回って、空見の前へと樹苗の手を引いた。

「ありがとう」

 礼を告げて樹苗を引き取った空見は、「失礼」と少年の下顎に指を宛がって、口を開かせる。抵抗はないに等しい。樹苗はただ、その濃い緑色の瞳の中に、空見を切り取るばかりである。

 少年の口腔を開いた空見は、次いで、その口の中へと指を入れ、奥歯に結わえ付けてある糸を摘まんだ。


 そして、ずるりと喉の奥へ伸びるそれを引っ張り上げる。引き抜いた糸は、まだ何の起伏もない喉仏を過ぎて、滑らかな鎖骨の辺りにまで届く長さだ。にも関わらず、樹苗にはえづく様子はなかった。

 少年のさらりとした涎に濡れて、てらてらと光る糸の先には、小指程の大きさの油紙が括り付けてある。油を塗布し、中に包んだ物が濡れるのを防ぐ特殊な紙だ。

 糸を解き、油紙を開いてみると、中には折り畳まれた紙が入っている。折り目を開くと、それは一般に流通している物と比べて、やや厚みのある頑丈な造りの半紙であり、紙面には、図形と漢字を複雑に組み合わせた墨筆が記されてあった。


 これは、札だ。

 ハクシー──人間の生き肝を喰らい、死後辛うじてこびり付いていた自我の全てを喪失したキョンシーを律するための。

 彼らは、自律的には動かない。彼らが自発的に行うのは、睡眠と呼吸くらいのもので、自ら食事を摂取する事すらしないのだ。


 この札──その紙面に書かれた墨筆は、そんな彼らに行動を強いる。

 墨筆は、その図柄と漢字の組み合わせだけでなく、図形の大小、字の払い、かすれ、字と字の間にある間隔に至るまで、そのパターンによって、与える命令の種類を変える。


 無論、誰にもできる事ではない。札の制作、墨筆の筆運びは、特殊な技術を要する。

 その技術を有し、札を制作する者を、導師と呼ぶ。火葬屋とはまた別の形で、キョンシーに関わる事を生業とする者達だ。

 そして、空見は導師である。池袋北口辺りで数少ないフリーランスの導師であり、この辺り一帯のハクシーの多くは、彼の札で制御されている。

 樹苗もまた、その一人だ。彼の緑色の瞳、深く咽るような濃密な緑で濁った瞳の色は、生きた人間の肝を口にしたという証である。


「なんか、うなずいたりしなくなったって」、

 空見が矯めつ眇めつ眺める札を覗き込むリュィ。

「ああ、反応に関する部分が滲んでいるからな。油紙で覆ったところで劣化するのは避けられまいよ」

「いっそのことラップにでも包んじまえば安上がりだろうに」

 パーッカションを吹かしながら、感心薄そうにジッポが口を挟む。


「ビニールの類は、札の機能を阻害するんだ」

 札の紙面に走る墨には、導師の血が混じっている。血を媒体として墨にすり込まれた魂が、ハクシーを制御しているのだ。

 紙は言うまでもなく、墨も松煙墨──植物を由来としている。つまり、木の気を帯びた魂と相性が良い。

 反して、ビニール──石油製品は、鉱物に起源を持つ。金の属性を帯びるのだ。相克の関係上、木の気を帯びた魂の働きを阻害する。


「そうでなくとも、取り換えの依頼が来なければ、商売が繁盛しないだろう」

「そっちが本音かよ。てめえ、あのジジイまでかついでんじゃねえだろうな」

「馬鹿を言え。命の綱を握っている相手をかつぐ程、恩も恐れも知らないわけじゃない。それを置いておいても、老を相手に化かし合いをやるくらいなら、妖怪変化を相手にした方が、まだしも勝算があるというものさ」

 そう言いながら、空見は別の札を取り出した。先の札とほとんど同一の、しかし、滲んだ箇所のない墨筆の札である。新しい油紙に折り畳んだそれを包んで、糸を結い直すと、また樹苗の唇に指を掛けた。


「さあ、口を開くんだ」

 かぱりと開いた小さなおとがいに指を入れて、空見は札を包んだ油紙を、やはり小振りな舌の上に乗せた。その瞬間、細く尖った舌が蠕動して、舌の上に乗ったそれを受け入れるように拡がった。

「呑み込みなさい」

 下顎にそっと触れて、口を閉じさせながら命じると、樹苗は頷く素振りをみせた。


 未発達な少年の喉仏が、こくんと上下する。

「さて」用意しておいたハンカチで、指を濡らした樹苗の唾液を拭いながら、空見は言った。

「リュィ、老のところに連れて帰ってもらえるか?」

「はぁい」

 相変わらず快活に応えて、リュィが樹苗の手を引きながら猫聞堂を後にする。


「なにを見せられたんだ、俺は」 

 それを見送りながら、つい今しがた目の前で繰り広げられた年端のゆかない漂白の少年と、三十半ば過ぎの男との耽美とも言える光景に、ジッポは半眼でモクを吐いた。

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