2-5
李飯店を後にして、五階のオフィスへ帰る半ばで、ジッポは四階の扉正面に立っていた。
コンクリ打ち放しの階段にあって異彩を放つ、格子模様の木枠を嵌め込んだ古い、というより風化したという印象の木製扉。無骨な削りの看板には、荒い字体で“药铺 五谷堂”と記されている。
扉を開けるのに、ノックという礼儀を払うわけもなく、ジッポは不躾にドアを開いた。
比良坂ビルは、鉄筋コンクリート造りの雑居ビルだ。その一室にあって、辺り一面を木に囲まれた空間。足許で軋む床板のみならず、四方を囲う壁、頭上の天井ですら木目が覆う。比良坂ビルも築数十年の景観をしているが、木目の傷み具合、この空間に充満する空気からして、世紀単位の時間の巡りを感じさせる一室だった。いいや、時間というよりはいっそ時代と表した方が適切か。
そんな時代錯誤な──空間そのものがではなく、来訪者に時代を錯誤させるという意味で──空間には、所狭しと箪笥が置かれている。衣装箪笥でなく、小さな箪笥が幾つも付いた百味箪笥と呼ばれる、生薬を収納、保管するための箪笥だ。百味などとは言うものの、引き出しの総数は百を優に超えて、千に達するのではないだろうか。引き出しにそれぞれ記された生薬の名前には重複している物もあるが、それを差し引いても種類は多岐に渡る。
数百種類の生薬と、澱積もった時代のにおいとが入り混じった独特の空気が満ちる空間の中、箪笥と箪笥との間に挟まれた手狭な通路を、床板の軋みにも構わずジッポは闊歩してゆく。
「吵」
広東語発音の中国語を発する声が、ジッポの踏み足を諌める。
しわがれた声。
老齢を感じさせる声は、しかし、老いによる弱々しさは感じさせない。枝に葉を付けなくなって久しい老いた大木が、それでもなお存在感を喪わないように、その声には耳にした者に浸透する響きがあった。
「うるさい。歩くのにも憚りを知らんのか、ぬしは」
続く声もまた広東語で同じ響きを持っていた。
「知るか」
対するジッポの声もまた、広東語だ。訛りが少なからず含まれているが、会話に支障のある程ではない。
悪びれもせずジッポが応じた先にあるのは、この空間に溶け込むような古めかしい造りのカウンターがあり、奥に据えられた椅子に、一人の老人が座していた。長袍という、長衣でゆったりとした造りの漢服を身に付けている。
この老人は、
相当の老齢と見えて、禿頭には老人斑が浮かび上がっている。頭髪とは打って変わって豊かな山羊髭を生やしており、筋張った手でしごきながら「だろうて」と呆れも露わに言った。とかく呆れられる事の多い男である、ジッポというのは。
「早晨、大老」
ジッポの背中からひょっこりと顔を覗かせて、リュィが同じく広東語を発する。舌足らずの日本語とは違い、流暢で完璧な発音だった。“早晨”は一般的な朝の挨拶で、“大老”は目上の人間に向けられる敬称だ。英語の“ミスター”より改まった表現である。
二人が広東語を使うのは、老樹が日本語を解さないからだ。日本に居ながら言葉に不慣れで商売ができるのかと言われれば、そも、この界隈は華僑が住人の大半を占めるので障害はないだろう。むしろ、広東語のみならず、北京語、上海語、福建語、およそ中国語全ての方言――発音のみならず、文法も異なる言語の全てを巧みに使い分けるという老樹は、ここ池袋で商売に困るという事はないはずだ。
「早晨」
老樹は眼を細め、好々爺然とした表情でリュィに応じる。
「大老、あたし達、今日は空見先生のお使いで来たの」
日本語の時は呼び捨てにしていた空見に“先生”と敬称を付けている。中国語の“先生”はごくありふれた敬称で、これが“ミスター”に当たる言葉だ。
「知っておるよ」
「……なんだと」
「先日、奴を診てな。煎じた薬の受け取りは、ぬしを使いに寄越すと言うておった」
「あのヤロ、端からそのつもりだったんじゃねえか」
「なんだ、かつがれでもしおったか」
「ほっとけ」
「それもよい機だろうて。ぬしもたまには徳を積んでおけ」
からからと笑う老樹。笑みの余韻を忍ばせつつ、老人は自分の傍らに控える少年を振り返った。
「
それまで誰も目もくれず、気を留めすらしなかったが、そこには確かに一人の少年が、何をするでもなく、所在なさげな素振りすらもなく、ただ立っていた。
年頃は、その背丈や顔の造りからして、リュィより一つ、二つ下に見える。七つか八つという頃か。老樹と同じ長袍に身を包んでいるが、丈が合っていないようで、袖がいくらか余っている。
黒い髪は少年らしい張り艶があり、毛先が跳ねている。
だが彼の表情には、年相応の活発さや、逞しさ、小生意気な様子や、あるいはおどおどとした様子さえもない。何も、少年の顔には、情と呼べるモノがなかった。
老樹が少年を呼んだ時──樹苗と呼び付けた時でさえもだ。やや俯き加減だった、その漂白なかんばせを上げた他には、反応らしい反応は何もなかった。
少年──樹苗の瞳が、正面を向く。
緑色。むせるように濃密な緑。
「樹苗。人参、黄耆、蒺藜子。それと、地黄、阿膠、芍薬、何首烏、当帰。昨日煎じた物だ」
老樹がいくつか生薬の名を告げると、樹苗は頷いたり首を傾げたりするでもなく、余った袖をぶらぶらと揺らしながら、百味箪笥の並ぶ方へと歩いていった。
老樹の言った生薬の内、最初の三つは気の巡りを良くし、あるいは昂ぶりを抑える効能を持ち、次の五つは、血を補い、または血流を助ける効能を持っている。効能に関わらず、いずれの生薬も、肝臓か肺のどちらか、あるいはその両方に機能する種類だ。
「随分多いんだな」
ジッポに生薬の知識はない。それでも一度に処方するにしては数が多過ぎると察したようだ。実際のところ、漢方薬で数種類の生薬を一度に処方する事は珍しい事ではない。たとえ同じ効能の生薬でも、種類によって作用する場所が違うからだ。だが、前述したように相反する効能を持つ複数の生薬を処方する事など、そうあるものではない。
「薬だって過ぎりゃあ毒だろうよ。それともなんだ、あの青瓢箪に引導でも渡す気か?」
ここに来て、今さらに説く必要もなかろうが、空見は病身だ。
一見して、肌色が蒼白い他にそうとは見えないだろう。あの一挙手一投足に筋の通った舞台役者のような立ち居振る舞いからは、病身だと察するのは難しい。
だが視方を変えれば、あの振舞いは、張り詰めた糸と変わりない。ああして、一々所作に気をやらなければ、ただ歩く事もままならない。おそらくあの男、張り詰めた気を一度緩めれば、その場に頽れる事だろう。
「たわけ。釈迦に説法だ。老い先もないこの老骨よりも早く枯れそうな男を手折る程、損気な性分はしておらん」
再びジッポが口を開くのには、一拍程の間があった。
「そんなにヒドいのか」
「酷い」と老樹は、また白髭をしごきながら言った。
「それこそ、並であれば毒にしかならんような過ぎた薬を服さねばならん程にはのう」
淡々と老樹は続ける。
「あれの身体が抱えておるモノは並の病じゃあない。それを思えば、寧ろ安い買い物だろうて」
そこで老樹は一度、リュィへ視線を移した。
「あれは失敗したんだ。ヌシの師と
「……俺は、あの女が成功したとは思ってねえよ」とジッポが呟いたのと時を同じくして、百味箪笥の向こうから樹苗が姿を現した。胸の前に抱えた両手に布包みを掲げたまま、彼は老樹の隣──先刻と全く同じ位置に、同じ漂白の表情を浮かべて立ち止まった。
「ほれ、持ってゆけ。飲む日付、時間は薬包紙に書いてあると伝えておけ」
樹苗の手から布包みを取った老樹は、そのままジッポにそれを手渡す。
「へいへ」
先程の張り詰めた空気は何処へやら、気の抜けた空返事と共に、ジッポはそれを受け取った。
「待て」
使いの品を受け取るや否や、早々に踵を返すジッポを老樹が呼び止める。
「……なんだよ、どいつもこいつも」
「猫聞堂に向かうのであれば、これを供にしてゆけ」
老人は、傍らに立つ少年を指す。
「近頃、なにを言うても、頷きも首を傾げもせんでな。言い付けたことは違えずやりはするのだが、言われたことを解しておるのかどうかわからんのでは、不便でしようがない」
「だから札を検めさせようってか」
「検めは済んでおるよ。後は取り換えるだけでな」
「話しは付いてるってか。よってたかって人の頭跨いで決めんなよ。子守りは請け負ってねえぜ」
「聞き分けはよい。手間は掛からんよ。手を引いてやれば、後は大人しく付いてゆく」
「犬か」
「そう言われて、否定するだけの謂れはない」
泰然と応えながら、三度髭をしごく老樹。
「……リュィ」
仕方なしとリュィへ眼を向ければ、意を汲み取った彼女は「
リュィが樹苗の手を取ったのを見て取るや、今度こそ踵を返す
「ゆめゆめ、忘れるな」
木に囲われた空間から、コンクリ打ち放しの階段へ続く扉に手を掛けたジッポの背中に、しわがれた声が届く。
「わしの役回りが終えた時、やつに引導を渡してやるのは、ヌシの役だぞ」
…………。
沈黙で応じて、ジッポは五谷堂を後にした。
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