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 比良坂ビルの二階、李飯店に珍しい光景があった。


 店先に構えた“広東料理 李飯店”という看板の通り、主に広東かんとん料理を扱う中華料理屋だ。

 壁に打ち付けた釘に掛けてある赤い木札に料理名が記されている。日本でもポピュラーな品目もあれば、本場でしかお目に掛かれないようなモノまで、様々だ。“狗”や“蛇”など、文化圏の異なる者が見れば眼を剥く字まで散見できる。日本の飲食店ではまず見る事のない字だが、ここ池袋北口辺りでは、さして珍しいモノではない。


 食堂とカウンター越しに隣接した厨房には、一人の男が料理の仕込みか、大きな寸動鍋の中身を検めている。強い火力を必要とする中華料理の厨房で、重い鉄製の中華鍋を軽々と振る姿を彷彿とさせる屈強な腕をした、四十半ばを過ぎた男だ。

 いかにも偏屈そうな風貌をしており、別の仕込みのため、中華包丁を手に持つその立ち姿は、実際のところ、スジ者一歩手前の剣呑さが感じられた。


 彼の名はリィ石響セオハンといい、この李飯店の看板を負う男だ。香港出身の彼が作る広東料理は、偽りなく本格本場の味である。

 寡黙で剣呑な印象のある香港出身の男が営む広東料理専門店。先述の通り味は確かなのだが、はたして接客が成り立つのかどうかは怪しいところだ。


 しかし、そうした疑問は、カウンター席の隅の席を見遣れば解消される。

 そこでは、セーラー服の上にエプロンを羽織った一人の少女が腰掛け、電気ポットから急須へ湯を注いでいた。

 彼女は名を、霜月しもつきはなという。

 暖色系の頭巾を被ったロングの黒髪。柔らかで素朴な顔立ち。化粧気は薄く、ただ唇へ仄かに、淡い色が差してある。


 少女とも、女とも呼べない年頃の娘。

 そういう娘が、偏屈な男が営む油臭い中華料理屋で接客をしているというのも珍しい光景ではあるのだが、それは彼女のもう一つの名、その家名を思えば何の事はない。ただ家業を手伝っているだけの事だ。

 今は亡き彼女の母は日本人で、彼女自身も日本国籍の名前があるが、戸籍上の名前とは別に、李霜花という中国名を持っている。

 この比良坂ビルでは、中国名──そ広東語読みの“シェンファ”で通っている。

 霜月花改め、シェンファは李飯店の看板娘だ。

 湯を注いできっかり六分経ってから、急須を盆に乗せて、食堂に並べられたテーブルの一席へと運んで行く。


 珍しい光景というのは、そこにあった。

 四人掛けのテーブルに着く、ジッポとリュィである。

 ジッポは、ピータンと豚肉の粥をレンゲで口に運び、リュィは餡に叉焼を使った肉饅を頬張っている。どちらも香港では一般的な朝食だ。


 珍しいのはつまり、この二人がここで朝食を摂っている光景である。

 昨晩に夕食を摂りに来たのも珍しいと言えばそうだが、ジッポに依頼が入った時はままある事だった。それが、昨晩から立て続けに朝食を摂りに来るとなると、余程珍しい。


 李飯店の開店は十一時。正式な開店時間前に、店主の石響が客として迎えるのは比良坂ビルの住人だけと決まっているが、ジッポが日の出間もないこの時間に店へ足を踏み入れたのは、シェンファの記憶の限り片手の指で事足りる程度だろう。

 注文を取る際に「珍しいですね」と言ってみれば「実入りがよかったんでね」と仏頂面が返って来た。それはそれでレアケースである。

 ころころと微笑みながらそう指摘すると「ほっとけ」と応えがあった。これはこれで平常運転だ。

 ジッポの金運と愛想のなさは、比良坂ビルでは常識の範疇である。 


「お粗末さまでした」

 空になった粥の傍にある湯呑にとぽとぽと烏龍茶を注ぎながらそう言うと、ジッポは湯気を上げる湯呑みに手を伸ばした。

 香り立つ茶を一口啜ったジッポは「ごっそうさん」と返す。相当性根が曲がってはいるが、最低限人としての礼儀は持ち合わせのある男である。


 リュィの湯呑みにも茶を注いでやると、子リスのように頬に溜めた肉饅を呑み込んでから、「ありがと、シェンファ」と快活な笑みで礼を告げられた。

「どういたしまして、ごゆっくりどうぞ」

 シェンファは急須と盆をそのままテーブルの上に置いて、カウンター隅の席、店番をする時の、彼女の指定席へと戻ろうとする。その時、店内にりぃん──と、鈴の音が響き渡った。

 李飯店の玄関口、紅黄の彩色をした扉に取り付けてある真鍮製のドアベルが来客の報を報せる音色だ。

「いらっしゃいませ──」くるりと振り返って、接客の常套句を口にしたシェンファは、来訪者の姿を目にして、心音が一つ高く鳴るのを自覚した。


 役者のような、男だった。

 姿形がではない。

 浸透するようなドアベルの音と共に店内に足を踏み入れたその三十半ば程の男は、確かに目鼻立ちの凛々しい風貌で上背もあり、見栄えのする姿をしていたが、役者のようというのは、彼の立ち居振る舞いに対する比喩だ。


 ドアノブに添えた手、開いた扉の隙間から踏み入る足運び。その一挙手一投足に、筋が通っているのだ。役者とは言っても、映画やドラマに出演する俳優というよりは、舞台役者、それも京劇や歌舞伎の演者のような印象だ。

 それは、男が血色の薄い肌の色をしており、なおかつ洋装に身を包んでおきながら、肩に和服の羽織を引っ掛けている影響でもあるだろう。

 パリッと良く糊の利いたカッターシャツに、ベルトは巻かずにサスペンダーでスラックスを吊っている男は、肩に青鈍色の羽織を掛けている。拵えは至って簡素なもので、生地も厚く、正装というよりは防寒向きの羽織だった。

 何故上着だけ和装なのかと、シェンファは尋ねた事があったが、彼は苦笑と共に洋装の外套は自分には重く感じられるからだと、そう応えた。


「……古本屋か」

 同じく音に釣られて扉の方を一瞥したジッポが、つまらなさそうに呟く。同時に、厨房の方から聞こえていた包丁の音が、一瞬だけざくり──と大きく鳴った。

「おはよう、ございます。……空見そらみさん」

 やや遅れて、シェンファはそっと言った。声が上擦ったりしないよう、慎重にそっと。身体の前で組んだ手がそわそわと落ち付きなく、指先を絡めては解き、また絡めては解いてを繰り返している事に、本人は気付いていない。


 この男──李飯店の看板娘から熱い視線を送られているその男は、名を空見海遥うみはるという。先程ジッポが口にした通り、比良坂ビル三階の古書店“猫聞堂”の店番をしている男だ。

「おはよう、シェンファ」

 空見は、シェンファのその様子に気付いているのか判然としない泰然とした態度で応える。

「はい、……おはようございます」

 シェンファは、自身に向けられた空見の言葉をそっと胸に仕舞うかのように、またもう一度同じ言葉を繰り返した。ざくり──とまた、厨房から包丁の音が木霊す。


「あの、お食事、ですか?」

「ああ。いつものを頼めるか」

 いつもの──それを聞く前から、シェンファは空見が何を頼むのかわかっていた。

「はい、薬膳粥、ですね」

「ああ。よろしく頼むよ」

 微笑と共に、空見が頷く。李飯店の看板娘にとって、このひとときが、一日の中で一番幸せな時間だった。

「爸爸、药膳粥一个」

 カウンターに近付いて手を付き、厨房に向かって流暢な広東語で注文を伝える。日本暮らしの長い石響は日本語も解するが、父娘間の会話は広東語でやり取りするのが習慣となっていた。

 石響は持ち前のいかつい顔で、シェンファの向こうに見える空見を一瞥したが「爸爸」と娘から嗜めるような声で言われると、すごすごと仕込みを中断して粥の準備に取り掛かった。


「失礼するよ」

 李家が、その力関係の窺えるやり取りをしている間に、空見はジッポ達の座るテーブルの席へ断りを入れてから腰を下ろす。リュィの隣、ジッポの正面の席だ。

「おはよう、ソラミ」

 んぐ──と最後の肉饅を呑み込んだリュィが、陽気に声を発する。

「おはよう、リュィ。お前もな、火葬屋」

 リュィに応じた空見は、続けてジッポを見遣った。屋号でジッポを呼んだのは、当てつけというわけでもなく、彼らは日頃からこうして“古本屋”“火葬屋”と互いを呼び合っている。


「……なんか用か、古本屋」

「御挨拶だな、火葬屋。朝の挨拶くらい素直にできないのか、お前さんは」

「わざわざ面向かって座りやがって、俺の愛想がご所望ってわけじゃないだろ」

「それは勿論。ないものねだりはせんさ」

「そうですね。お父さんにも負けない無愛想な人なんて、ジッポさん以外に知りませんから」

 皮肉で返す空見に同調するように暖かいお絞りと、烏龍茶を淹れた急須と湯呑を乗せた盆を持って来たシェンファが割って入る。空見と一人対面向かって落ち着きのなかった先程とは打って変わって、淀みのない調子だった。


「よく舌が回るようになったじゃねえか。厨房から油借りてうがいでもしたか?」

「そんなのしませんよ」

 空見の前に湯呑みを置いて茶を注ぐシェンファをからかうように、ダシにされた感のあるジッポがその変化を指摘してやると、彼女はむっとした顔を向け返す。

「ありがとう、シェンファ」

 茶で満たされた湯呑みに手を伸ばしながら、礼を言う空見。吹いて冷ましてから一口啜ると、何か言いたげなシェンファに皆まで言わさず「うん、今日もうまい」と頷いた。


「それより、時間はいいのか?」

 口許をほころばせるシェンファだったが、壁に掛けられた時計を示しながら空見がそう問い掛けると、「そうでした!」と一転して慌て始める。

 急いでエプロンと頭巾を取り、慣れた手付きで折り畳んでからカウンター隅の指定席に置くと、入れ替わりに用意しておいた学生鞄を手に取った。

「……走好」

 調理の傍らに厨房から石響が声を掛けると「走了」とシェンファが応じる。

「それじゃあわたしは学校行ってきますけど、皆さんはごゆっくりどうぞ!」

「ああ。気を付けて」「いってらっしゃあい」

 急ぎ足で食堂を出ようとするシェンファに、空見とリュィがそれぞれ送り出す言葉を向けると「行ってきます」と言って、李飯店を後にした。

 登校前の準備を済ませたシェンファが、制服の上にエプロンと頭巾を被って、空見が朝食を食べに店を訪れるまで粘った後で、急いで登校するというのが、比良坂ビル、平日の朝の日常風景である。


「で、なんか用か、色男」

 ローファーが階段を駆け下りてゆく音──シェンファの足音が遠ざかってゆくと、ジッポが、また同じ台詞を繰り返した。含むところを、隠すつもりもなく。

 シェンファの思慕に関して知らない者は、この比良坂ビルには居ない。女心を解する甲斐性など皆目なさそうなジッポでさえだ。そもそも本人自身、隠し切れているとは思っていないだろう。その辺りは、若さの為せる業だろうか。


 対する空見はと言えば、ジッポの揶揄にも動じる事なく「ああ」と頷いてみせた。

「そろそろ、一年になるだろう」

「……」「なにが?」

 沈黙と疑問。空見の問いに沈黙で応えたのがジッポで、問いを返したのがリュィである。


「……、本気か?」

 首を傾げるリュィへ、空見は眼を向けた。目を剥くと言う程ではないにしろ、視線を向けてから声を発するまでにかかった一拍の間は、彼の瞠目を如実に語っていた。


「お前の──」言葉の間に挟んだ間は、呆れるというには長く、憐れむというには短かい。「──命日だよ。まさか、忘れたというわけでもあるまい」

「ああ、うん。もちろんわすれたりしないよ」

 朗らかに頷く、リュィ。

「わたしの、しんだひでしょ。わすれたりするわけないじゃない」

「それなら、いいが」

 つぶやく、空見。何が良いのか、語る言葉もなく。


「それで」とジッポ。「それがどうかしたか。一回忌しようにも、こいつにゃ参る墓もないぜ」

「だが、あの女には、きちんと参る墓があるだろう」

「それが」とまたジッポ。次の間は、先のそれよりも長い。「なんだってんだ」

「いやなに、俺は当日、外せない用事があるのでね。代わりにこいつを墓前に供えておいてはくれないか」と空見がテーブルの上に差し出したのは、一箱の煙草パッケージだ。


 青を基色とした、ハードパッケージ。印字された商品名は“BLUE NOTE”。憂鬱な音階(ブルーノート)という名前の由来に反して、軽快でキレのある味わいのシガリロだ。


「俺は行くなんて言ってないぜ」

 それを一瞥して、ジッポは言った。

「ああ。だが行くんだろう」

 それを受けて、空見が微笑む。

 その微笑を、忌々しそうに睨んで、結局ジッポはブルーノートのパッケージを手に取り、ジャケットのポケットに仕舞い込んだ。


「じゃ、用向きは済んだな」

 そうするや否や、ジッポはテーブルから立ち上がる。

「ああ、待て」そのまま店を後にしようとするのを、空見は呼び止めた。

「用件はもう一つある」

「……なんだよ」

「少し使いを頼みたい」

「使い?」

「ああ。そう嫌そうな顔をしてくれるな。老(ろう)に薬を注文しているんだが、それを受け取って来て貰いたいんだ」

 これにジッポは怪訝な顔をした。それも当然の事。空見の言う“老”、その人物の居所は、この比良坂ビルの四階だ。わざわざ人に使いを頼む程の労苦でもあるまい。


「自分で行きゃあいいだろう」

「そう言ってくれるなよ。俺には、階段を昇る脚が重いんだ」

「どうせ帰りは昇りだろ。一階上がるのも、二階上がるのも変わらねえよ」

「いいじゃあないか。お前さんにしてみれば、帰る足の道すがらだろう」

「いやにこだわるな」

「どうせ暇なんだろう」

「暇してられるかよ。貧乏暇なしだ」

「暇だから、貧乏をしているんだろうに」

「そもそも今日は、買い出しに行かなけりゃなんねえんだよ」

 リュィがうんうんと頷く。


「そう手間は掛からんさ。なんなら、貸しにしてくれてもいい」

 ジッポの怪訝さが、さらに色を増す。

「なに企んでんだ?」

「人聞きが悪いな。なに、些末なことさ。少なくとも、お前さんにとってはな」

 言外に、何かしら思惑があると認めた上で、畳み掛ける空見。

 その執拗な態度に、さしものジッポも折れる。

 舌打ち、一つ。

「行きゃあいいんだろ、行きゃあ。どうせ暇だからな」

「助かるよ」

 舌打ちに応える微笑は、憎らしい程涼やかなモノだった。

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