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 池袋の一丁目、池袋西口公園から二ブロック離れた池袋警察署にも、朝陽が注ぐ。


 四角張った、いかにも役所染みた建物の一室──池袋警察署刑事課、特殊死体遺棄係のオフィス。応接間とは名ばかりの、パーテーションで四角く区切られた空間に据えられたソファを、大柄な男が一人、くたびれたジャケットを布団代わりにして寝床にしていた。誰あろう、木尚是人である。


 ソファと共に据えられたガラステーブルの上でミリタリーブランドの腕時計が示すのは、七時過ぎ。

 オフィスの外、通りの方では雑踏が時間に追われるようにして行き来し、息切れのようなクラクションがけたたましく鳴いている。


 低いうめき声を上げると共に、木尚は浅い眠りからゆっくりと浮上した。

 ジャケットを払い除けながら、身を起こすと、身体のあちらこちらから骨身の軋む音がする。硬い合皮張りのソファは、やはり老骨にはキツイものがあるが、別階にある仮眠室まで行くのはどうにも億劫で、こうして職場で夜を明かす時は、応接用のソファを寝床にするのが常となっていた。

 腰に手を宛がい、老骨を自分で労わりながら慎重に体勢を起こしていると、うめく声に気付いてか、仕切りの向こうから仮設の応接間を覗き込む者があった。


「おはようございます、木尚さん」

「おう、二井見にいみか。おはようさん」

 二井見源春もとはる。今時分にしては古めかしい名前の男だが、本人の顔立ちは童顔だ。学生と間違われてもおかしくはない顔の造りをしているものの、実際の所は二十代の折り返しを過ぎており、木尚と同じ部署に所属する一警察官である。 


「当直、ご苦労様です。これどうぞ」

「おお、気ぃ利くじゃねえか。あんがとさん」

 手渡された缶コーヒーを受け取ろうと手を伸ばす木尚。咄嗟に腰を上げた弾みに、痛みが走る。

「あつつ」と呻きながら腰を押さえると「こんな所で寝るからですよ」と二井見が呆れた声を上げる。

「寝入りの前にいちいち階段降んのは億劫なんだよ」

 木尚は腰を擦りつつ応じる。


「身体は大事にしてくださいよ。もう年なんですから」

「余計な世話だよ、まったく。おめえさんも、他人事でいられんのは今の内だけだぞ。来るときゃ、あっという間に来るんだからな。ある時ふと気付きゃ、あちこちガタが来てる」

「俺まだ二十代ですよ。まだまだ先の話でしょ?」

「ああ。俺もそう思ってたよ」

 そう言って、熱を持った缶コーヒーに口を付ける。ブラックの苦味が寝起きの頭を覚醒させる。ただ腰の痛みだけは消えちゃくれない。


 特殊死体遺棄係。通称、特死係。木尚と二井見が所属するこの部署の名だ。

 二〇〇六年現在、今より六年前の二〇〇〇年に池袋がチャイナタウン化した折、キョンシーに対応するため設立された、新部署である。


 元々、一九九七年の世界各地でチャイナタウン化が始まった当時から、対キョンシーの為、こういう部署が内々に準備されているという噂は少なからず流れていた。ただし、横浜、神戸、長崎でだ。いずれも、日本で三大に数えられる中華街を有する土地である。だが、実際にチャイナタウン化が認められたのは、ここ池袋だった。九十年代から、駅北口周辺に華僑が集まり半ば中国人居留地と化していたのを覚えている。


 ともあれ、特殊死体遺棄。何とも的を外した名だ。キョンシーは、自らの足で徘徊するのだから。

 だがこの本質から外れたネーミングが、世間一般のキョンシーに対する認識を表しているとも言える。

 そも、何故死んだ人間がキョンシーへと転化するのか、その原因について、一切わかっていない。チャイナタウン化した地域で死んだ人間は、例外なくキョンシーへと転化するが、それが何に起因するのか、詳しい事は何一つとして解明されてはいないのだ。


 チャイナタウン化と呼ばれている現象にさえ、明確な原因はわかっていない。

 たとえば細菌、ウイルス、化学物質に寄生虫。おおよそ常識として捉えられる範疇の解釈では、説明する事のできない事象。一九九七年を境に、世界中で確認されているにも関わらず、言うなれば“科学的”には、認められていない。二十一世紀も到来したこの現代において、科学的な証明がないという事実は、正しく認識できないという事と同義であると言っても過言ではあるまい。


 それら背景を鑑みれば、この部署のネーミングも頷ける。

 異常な存在を前にして、自らの理解の範疇に納めようと苦慮した挙句の名が、“特殊死体遺棄”というわけだ。


 缶コーヒーを啜りながら腰を擦りつつ、木尚は自らのデスクへと腰掛ける。

 左手に巻いた腕時計を見遣れば、始業より少し前。

 机上に伏せておいた書類を手に取り、眉間を少し揉んでから、紙面に眼を走らせる。昨日の一件をまとめた報告書だ。


 当然、報告書等の公的記録にも、キョンシーという単語が出て来ることはなく、甲種、ないし乙種のどちらかで表記する。

 この報告書であれば、ジッポが火葬した四体の攻撃的な個体を甲種と称し、反して空を見上げた切り動きの一切を停めた自閉的な個体を乙種と呼称する。


 報告書の端々に眼を遣り、使用弾数の総数に誤りがないかを確認する。


 特死課所属の警察官は、甲種に対し、独自の判断下で発砲する許可を有する。それに伴い、制式採用の拳銃と比べて、強力な銃──木尚なら、コルトローマンの携帯が認められている。とはいえ、携帯できる銃器は拳銃に限られており、口径、銃身長も無制限ではない。そうでなくとも小火器類では、キョンシーに有効な打撃は与えられない。


 ジッポ──外部業者に依頼をした旨の報告に眼を戻す。


 外注──火葬屋に頼らなければ、業務を回せない部署。昨日ジッポが口にした皮肉は、概ね正しいというわけだ。

 特死課の主な業務は──雑多なモノを覗いて──二つ。一つは甲種に対処するため火葬屋を手配する事。


 報告書の終わりには、こう記してある。

 “乙種を一体、保護。収容所への護送を手配”


 そして、二つ。乙種の出現に際して、その保護と収容の手続きを取る事だ。

 乙種の火葬は認可されていない。手近な人間を見れば襲い掛かる甲種と違って、攻撃衝動はおろか自律的な動きの一切ない乙種には、原則発砲すら禁止されている。

 その為、乙種の出現を確認した場合、収容の手配が必要となる。


 手配先は池袋の郊外に位置する収容施設だが、刑務所ではない。名義の上では、監察医務院という事になっている施設だ。とはいえ、それはあくまで名義上の事であって、池袋監察医務院は、監察医務院として機能していない。尋常な死体が運び込まれる事はないのだから、当然だろう。メスの刃は通らず、心臓すら動いている。まず、検死のやりようがない。

 あの忌むべき二〇〇〇年。いいや、全ての元凶は、一九九七年七月一日──香港がイギリス領土から中国領地へ返還されたあの日、絶対不変と思われていた“死”という概念がひっくり返ったあの日に、少なくとも警察官、木尚是人の常識は変わった。

 昔は、死体は伏して布の下で眼を閉じているモノと決まって、銃を撃つ機会など試射場でしかなく、死体安置所で直立した死体を眼にする事などなかった。


 今更、ため息を零す気もない。そうするには、もうこの仕事に順応してしまっている。

 検め終えた報告書をデスクの上に放り、木尚は苦り切った顔で、冷めきった缶コーヒーに口を付けた。

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