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青い羽の蝶が舞う。ひらりひらり──と飛んでいるようで、はらりはらり──と落ちているようにも見える。
青い羽の蝶が舞う。緑色の空を背景にして、青い、青い羽の蝶が舞う。
その空は梢に茂る葉のような色をしていて、雲はない。
太陽もなく、ただ空から緑色の光だけが降り注ぐ。木漏れ日のような、淡い光。さりとて、薄暗いという印象はなく、暖かで柔らかな光だ。
光を掬おうとして、空に向かって手を伸ばしてみれば、羽を休める場所を求めてか、蝶が伸ばした指の先に、そっと触れた。
青い蝶の羽を透かして、緑色の空を覗いてみる。
──夢はいつも、そこで終わる。
ぱちり──と、リュィは瞳に
冴え切った瞳で、見慣れた天井を見る。
所は、比良坂ビルの五階、ジッポのオフィス兼ねぐら。寝床は常の事、応接用に置かれた合皮張りソファだ。
ここ五階には、大家である五十嵐が使っている物置があり、他の階のテナントよりも面積が圧迫されている。その分家賃も安くはなるが、オフィスが手狭になるのに加えて、居住スペースも削られている。あるのはシャワールームと、調理場として使っている給湯室ばかりで、寝室はない。
オフィスの最奥に置いてあるスチールデスクから見て手前のソファをジッポが、奥のソファをリュィが寝床として使っている。なお、このソファが本来の目的で使われるのは、ひどく稀だ。
ぎしり──とソファを軋ませて身を起こす。
木漏れ日色の瞳をオフィスに巡らせ──るまでもなく、正面のソファに人影を確かめる。
ジッポである。
俯き加減で、ソファに座している。何をしているかと言えば、濡れそぼった頭髪を、タオルで拭いていた。
下肢には、いつもの色褪せたジーンズを履いてはいるが、上半身は裸である。まあ、見慣れた光景だ。いまさらこの男にデリカシーを要求する程、ジッポとの関係は短くない。
頭から首筋を伝い、鎖骨にうっすらと溜まった水滴が零れ、胸と腹を流れ落ちてゆく。
筋骨隆々という身体付きではない。しなやかで粘りのある、身体を覆う、というよりは体の芯に纏わり付くような筋肉。
今でこそ、一見するに細く引き締まった身体──アスリートのような体型に見えるが、これは“
といって、さすがのこの男も上半身裸のまま大立ち回りを演じる趣味はないから、それを眼にする機会は、そうあるものではない。
「また、あさのたいそうしてたの?」
おおかた、いつもの朝の日課を終えて汗を流した後なのだろうと目星を付けてみると、髪を拭く手は止めず「まあな」と空返事が返って来た。
あらかた髪を拭き終え、タオルをソファに放りざまに立ち上がったジッポを見上げていると、くうと腹の虫がいじましく訴える。
「……おなかすいた」と実際に口に出してみるも、これには取り合わず、ジッポはオフィスの隅へゆき、クローゼット代わりのスチールロッカーから型崩れしたタンクトップを引っ張り出して、頭を通す。
布地が視界を遮ったその瞬間を見計らって、リュィはソファから弾むようにして立ち上がり、ジッポの正面に素早く回り込んだ。
「おなか、すいたの!」
そして、声を張って訴える。
「うるせえな。毎度毎度、朝の入りからピーチクパーチク、雛鳥じゃあるまいし。たまには、自分で朝飯用意しみたらどうだ」
タンクトップから、辟易した様子で顔を出すジッポ。リュィはむむ──と顔をしかめて、わざとらしく欠伸の振りをしてみせる。
「あたしはどこかのにわとりさんとちがって、いまおきたばかりなの」
「言ってろ。寝惚ける頭もねえくせに」
ジッポのこの台詞は、皮肉でもなければ、何かの暗喩でもない。
チャイナタウンで死んだ人間は、キョンシーに転化する。
ここでいう“死”とは、脳死を指す。
キョンシーに転化した肉体は、筋肉や血管、心臓その他の内蔵に至るまで──欠損していない限り──そのほとんどが、生前と変わりなく機能する。だが、脳だけがその機能を停止する。
脳がないのに、どうしてこうやって話しができるのか、どうして夢を視る事ができるのか、それはリュィにもわからない。おそらく誰にも。
「あ、それキョンシーさべつ」
「なあにが差別だ」
辟易の極みといった様子で零すと、ジッポはリュィを押し退けた。
そして、スチールデスクの上からパーカッションのソフトケースを取り、ジーンズのポケットからオイルライターを取り出し、口に咥えた紙巻に火を着けるや、一筋ばかり紫煙を吐きつつ、給湯室の方へ億劫そうな足取りで向かった。
冷蔵庫を開く音を聞いて、リュィは勝ち鬨代わりの鼻歌を漏らす。
「きょうはなに?」少し唇を尖らせて「またおにくなし?」
そうは言いつつ、リュィのお肉ゲージはそこそこ満たされていた。昨日の晩、火葬屋の仕事を終えて、警察署へ足を運び、火葬代を現金で受け取り比良坂ビルに戻った後で、約束通り二階の李飯店で食事を摂った。
注文は定食メニューから一品限りという約束だったが、ジッポを跳ね飛ばそうとした車を停めたのは、結果的に自分だったとしきりに訴えた挙句、単品を三品まで注文する権利を勝ち取ったリュィは、青椒肉絲と回鍋肉、炒飯を平らげた。当然、全てまっとうな食材で調理されたものである。
まともな青椒肉絲は一月振り、回鍋肉は三月と半月振り、海老をカニカマで誤魔化してない炒飯は半年振りだったろうか。
至福の晩餐を回想するにふけっていると、やがて冷蔵庫のドアを閉じる音。
「きまった?」
かくりと首をかしげると、ジッポはひょいと、こちらに何かを放ってきた。
「これなに」
「なんに見える」
質問に質問で返されて、掌に受け取ったそれを見遣る。
「ちょこれーと」それはどう見ても、ビニールに包まれた、一粒のチョコレートである。
「これだけ?」
「それだけ」
「なんで」
「なんでもなにも、それしかないからだ」
「なんでっ!」
「なんでもなにもあるか。昨日まで金欠、なら食料も空欠なのは当然だろ。今日は買い出しだな」
面倒だと、ヤニと共に吐き出しながら、掌の上のチョコレートを愕然と見下ろすリュィを押し退けるジッポ。
しばらくしてまた、くぅと腹の虫がいじましく鳴く。
仕方なしにビニールを開いて、チョコレートを取り出し、ぱくりと口に放り込む。
ころころ転がすと、ほろ苦い甘さが舌の上で溶けていく。溶けて溶けて、噛み締める間もなく、消えてしまったチョコレート。
後に残るのは、ほろ苦い甘さの余韻と、しわくちゃのビニール包装ばかり。
当然、猛抗議したのは言うまでもない。
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