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「ねえ、いまからどこいくの?」

 狭苦しい青空の下、閑散とした盛り場をゆくセダンの車内、後部座席を占有するリュィが、ひょいと助手席と運転席の間から顔を覗かせて問う。


「おめえさん、きちんと説明してなかったのか」

「いらないだろ。教えたところで、ろくに覚えやしねえんだから」

 窓の縁に頬杖を突き、ジッポがすげなく言うと、リュィがべぇっと、小さく赤い、初春頃の苺のような舌を出す。

「ねえ、おじさま。どこいくの?」

 運転席の方へ顔を向けると、一転して愛想の良い笑みを浮かべて、かくりと木尚に小首を傾げてみせた。


「斧柄の事務所さ」

 苦笑を浮かべた木尚は、ジャケットのポケットから棒付きキャンディを取り出して、リュィに差し出しながら応える。

「オノガラ?」

 かくん──とまた首を傾がせながら、ロリポップキャンディの包み紙を剥がすリュィ。“オノガラ”の発音は、ほとんど鶏ガラと同じだった。

「斧から出汁はとれねえぞ」

 揶揄するジッポの声を無視して、リュィはマスカット風味の飴を口に含む。ころころと幸せそうに飴玉を転がす少女の様子に釣られて口許が寂しく感じるも、 “車内禁煙”のプレートが、パーカッションのパッケージを取り出そうとした手を思い留まらせた。


「前にも説明したろ。ヤクザだ、日本の」

「ふうん。それでそのヤクザやさんがどうしたの?」

「抗争だよ」と、木尚が応える。

「こーそー?」かくりとリュィ。

「と言ってもまあ、どうやら斧柄の連中は、ほとんど一方的に襲われたらしいがね。現場の状況を聞く限り、襲撃だろうな」

「しゅーげき」ふむふむとリュィ。どうせ何もわかっていない。


「いいや抗争さ。日本のヤクザ者が、今頃北口辺りに支店をおっ建てるなんざ、それだけで宣戦布告には十分だろうぜ」

 自殺行為には変わりないだろうがと締め括る。

「この辺りはもう、日本じゃねえんだ」

 走る車窓から見える街並み──立ち並ぶ雑居ビルから道路の上へと我が物顔で突き出している看板の多くに書かれているのは、中国語だ。中華料理屋は当然の事、日本人が経営する飲食店や風俗店舗の看板にも、中国語翻訳が記されている。英語よりも、まず先にだ。

「今や池袋は、チャイナタウンだからな」

 “チャイナタウン”と聞いて木尚が何とも言えない、苦味の強い顔をした。

 池袋が日本で初めて“チャイナタウン化”して、はや六年。その起点となったとされている駅北口周辺はもう、華僑の縄張り、いやさ巣窟だ。まともな日本人は寄り付かないし、寄らばそれは訳アリと公言しているのと代わりない。お陰で、半ば治外法権がまかり通っている節さえある。警察にとっては鬼門だろう。とはいえ、この老刑事の表情をこうさせる最大の原因は、もっと別にある。


「今回の件も、ヤクザの仕業じゃないさ。北口辺りに手出そうなんて、元々の縄張り追い出された斧柄を置いて、他にゃいないだろうかんな。となりゃ──」

幇会チャイニーズマフィアか……」

「目星はもう付いてるんじゃないか? 蛇咬会じゃこうかいか、44Kツゥフォゥケイか」

幽幻幇ゆうげんふじゃないことだけは確かだ」

 幇会の名を連ねるジッポに、木尚がそう続けた。

「その心は」

「おめえさん、ここいらの住民が、まっさきに警察に通報すると思うのか? ウチに連絡が回って来たんなら、幽幻幇が許可出したってことだ。連中がやらかしたんなら、その後始末くらい自前でやって、それで終いだったろうよ」

「情けない話しだな。天下御免の警察が」

「……ああ。まったくだ」

 木尚の顔が苦り切る。


「まあ、そこら辺はウチの管轄外だ。マル暴にでも任せるさ」

「管轄ねえ。外注に頼らなけりゃ、ろくに仕事も回せない部署が、よく言うぜ」

「仕方ねえだろうよ。ウチは万年人出が足らねえんだ。せめてコリブリが出払ってなけりゃ、おめえさんの皮肉聞かされることもなかったろうがな」

「あの新米は、まだ横浜か」

「それこそ仕方のねえ話さ。横浜がチャイナタウン化したのは、つい一月前だってんだからな。近々こっちに戻って来れるとは聞かされちゃいるが」

 それも怪しいもんだよと言って、木尚はアクセルを緩め、ギアを低速に切り替えながら車を路肩に寄せて停める。

「俺らは俺らで、仕事こなすとしようや」


 路肩の先には、制服を身に付けた警官と、木尚と同じ私服警官とが屯していた。彼らが囲んでいるのは、比良坂ビルよりもこじんまりとした、二階建て。一階部分の多くを占有している車庫スペースには、クラウンのセダンが停まっている。しかしそちらは、こちらの車を裏返したかのような黒だ。


「よお」と木尚が屯す警官達の方へ声を掛けて話し込んでいる間に、ジッポはくだんの事務所を観察した。

 一階正面玄関のガラス戸が無残に砕かれ、玄関前のアスファルトに、ガラス片が散らばっている。さらによく見遣れば、ガラス片の中に真鍮の輝きが紛れているようだ。自動拳銃の空薬莢。骨董品のトカレフ拳銃か、それとも近頃主流になってきたというマカロフ拳銃か。いや、薬莢の数が多すぎる。ウージーなどの短機関銃あたりだろうか。さして規模が大きいとも言えないケチな拠点を襲うのにピストル以上の銃火器まで持ち出すとは、少し前の日本では考えられなかった事だ。

「派手なこって」と誰にともなく呟いたところで、木尚がこちらに近寄って来た。


「どうだった、とっつぁん。中の様子はわかりそうか」

「いいや」と済まなさそうに、木尚はかぶりを振った。

「誰も中の様子までは確認できてねえよ。悪いがな。まあ、勘弁してくれや」

「いいさ、別に。下手にかき回されるよりかは、なんぼかマシだ」

「その代わりと言っちゃなんだが。マル暴から使えそうな情報がある」

「どんな」

「まがりなりにも斧柄の事務所だ、色々と探りは入れてたらしくてな。マル暴が調べた限りじゃあ、ここには四人の組員が常駐してたんだと」

「なるほどねえ」首の骨を鳴らして、肩を回す。

「ちと、骨が折れるかな」

 そう呟くジッポの発する声に気負いはなく、ジャケットから取り出したオイルライターを握る右手には、ゆとりさえあった。


「それじゃあ、あとは頼まあな。援護が要り用なら言ってくれ」

「要らねえよ」

 分厚い右手を左胸に置く木尚に、ジッポはひらひらと左手を振って、事務所の方へ足を向ける。革靴の踏み音に並ぶ、軽やかな布靴のステップ。未だに飴玉を転がしながら、リュィがジッポの隣で並び歩く。

 しかし、その道すがらで彼らは歩みを止めた。


 いや、二人のみならず、その場に居合わせた全ての者が、思わずその身を固くした。

 じゃり──と、ガラスの砕ける踏み音を響かせながら、一人の男が、正面玄関から表へ姿を現したからだ。皆一様に、その男へ視線を釘付けにする。


 その男は、途方に暮れているようだった。派手な彩色のジャケットに、襟元を緩めた柄物のシャツ。ネクタイの代わりにギラギラ光るシルバーアクセ。真っ当な勤め人とも思えないその男は途方に暮れていた。喩えば、電車を終着駅まで寝過ごした者が、見知らぬ景色を前にしてそうするように。

 そしてその男は死んでいた。少なくとも、死んでいなければならないはずだった。

 ジャケットとシャツに、紅いまだら模様が浮かび、額に銃痕穿たれて、後頭部が形容し難い具合に爆ぜている人間が、どうして生きていられようか。あまつさえ、二本の足で立ち、空を所在なさげに見上げているのだ、その死体は。


 死体がふと、視線を落とす。垣間見えたその瞳は、緑に染まっていた。リュィと同じ、いやその色合いは、彼女の木漏れ日色の瞳とは大きく異なる。同じ葉の色でも、男のそれは鬱蒼と生い茂る樹々の色。陽射しなど望むべくもない樹海の梢に吹く濃葉の緑だ。

 あれが、キョンシー。この街で死んだ人間は、例外なくああなる。この池袋チャイナタウンでは、人間は死なず、あるいは死ねずに、キョンシーへと成り果てるのだ。

 そしてそれを葬るのが、火葬屋の生業である。


 ジッポは感触を確かめるように右手のオイルライターを弄び、息を吸う。深く、深く、深く取り込み、一歩前へ踏み出した。しかしまた歩みを止め、今度は舌を打つ羽目となった。

 死体──キョンシーが、最も手近に居た、若い制服警官を見定めた。それを察して舌を打ったのだ。当の制服警官はと言えば、動揺も露わにして、一歩後退る。


「オゥイゥヒュ」

 キョンシーが、声を発する。中国語──広東語で紡がれたそれは、先の喩えに則って表するなら、途方に暮れた挙句道行きを尋ねるかのような、そんな不安に満ちた響きのある問い掛けだった。広東語を解する者なら、その問い掛けの意味を察する事ができただろう。

我要血オゥイゥヒュ」キョンシーはまず、人の生き血を乞う。

 ひぅっ──と、制服警官が息を呑む。彼の右手は、腰のベルトに提げた革製のホルスターへ、ゆっくりと伸びていた。


「……やめろ。なにもするな、なにも喋るな。ただゆっくりと後ろに下がれ」

 声を抑えて、制服警官へと呼び掛ける。だが、彼の耳にジッポの声が届いている様子はない。震える彼の手は、既にホルスターの留め金を外していた。

「我要血」

 キョンシーが三度、血を乞うのと同時に、制服警官は悲鳴とも咆哮とも区別の付かない叫び声を上げながら、リボルバー拳銃をホルスターから引き抜いた。


 日本警察制式採用の純国産リボルバー、ニューナンブM60だ。二○○六年現在、工場生産が終了して久しいが、今なお各地で現役を務めているモデルである。

 制服警官は、銃把を強く両手で握り締めながらキョンシーへ銃口を向けると、危うい手付きで安全装置を外して撃鉄を起こし、銃爪を引いた。絶え間なく、シリンダーに装填された五発全てを。

 命中したのは、ただの一発。撃鉄を起こした直後に撃発した初弾のみである。

 全弾を撃発した後も、制服警官は銃爪を絞り続けた。銃声の余韻も消えて、カシン、カシンと、撃鉄が空の薬室を打つ音だけが響く。やがて、射手の叫び声が萎むと共に、空撃ちの音も途絶えると、土手っ腹に銃弾を受けたはずのキョンシーがゆらりと動いた。


 非銃社会国、日本の警察に採用されているだけあってニューナンブに使用されている.三八スペシャル弾は、あまり威力に秀でる弾種というわけではない。さりとて、非武装の民間人一人を殺傷するに不足はないはずだ。

 だが結果は、キョンシーの足許に転がる、潰れた鉛の弾頭が物語っていた。


點解ディムカァイ……」

 緑眼を制服警官に向けながら、キョンシーは首を傾げてみせた。點解どうしてと問うその緑色の瞳に怨嗟の色はなく、深い哀しみだけがあった。

 キョンシーが、怒りを露わにする事はない。血乞いを拒絶されたキョンシーにあるのは、悲哀の念だけだ。

 だが決して、憐れむ事なかれ。


「點解……點解……」しきりに同じ呟きを発しながらキョンシーは、警官の方へにじり寄る。「来るな、来るなあ……!」と叫び、また無意味に銃爪を引き続ける彼へ、一転して俊敏な動きで襲い掛かった。その動きは、それまでの緩慢な動きからは想像し得ない、いいや人とも思えない、獣染みた速さだった。


 血の乞いを拒まれたキョンシーは次に、人の生き肝を奪う。

 直後響き渡ったのは、哀れな警官の悲鳴──ではなく、連なる三度の銃声。ニューナンブの乾いた炸裂音とは違う、力強く空気を震わす、銃火の轟きだ。


 うっすらとガンスモークを吐く銃の銃把に添うのは、木尚の無骨な右手。

 筋張った大きな手に納まるリボルバー拳銃は、小さい。小柄なニューナンブと比してもなお短い、二インチバレル──俗に獅子の鼻スナブノーズと呼ばれる短銃身モデル、コルトローマン。エジェクターロッドの露出した、クラシックモデルである。

 法執行人ローマンという名が示す通り、警察関係者が隠し持つ事コンシールドキャリーを想定して小振りに設計されていながら.三五八マグナム弾を撃発する事が可能な頑強さを誇る銃だ。


 火薬の装薬量が多いマグナム弾は、通常装薬量の実包に威力で大きく勝る。木尚が放った三発のマグナムを、三発全て受けたキョンシーは、そのストッピングパワーに、警官を襲おうとする挙動を押し留められた。

 だが、それまでだ。結局、地面に転がる鉛の欠片が三つ増えただけの事だった。


 キョンシーは頑強だ。その膚は硬く、その筋繊維は高密度ゴムのような、硬性と弾性を併せ持つ。小火器程度では、キョンシーへ有効な打撃は与えられまい。

 何故か。

 キョンシーは、ハクを膨大に有するからだ。

 魄とは、人体を構成する因子。魄を発すれば、膚は硬くなり、筋骨は屈強になる。魄を発し、運用する術を外功術と呼ぶが、キョンシーのそれは術とは呼べない、魄の暴走である。

 人の死は、それすなわちコンの喪失を意味する。魂とは魄から成り、同時に魄を制御し、人体の内奥を巡る思念エネルギーだ。魂を失くした人間は、人格のほとんどを喪って、怪物へと転ずる。少なくとも、このチャイナタウンにおいては。


 さほどの間も置かずして、キョンシーは再び、警官へと襲い掛かった。

 それを阻んだのは、コルトローマンの銃声ではなく、キン──というこわく残響のない金属音と、それに続く摩擦音。


 オイルライターの上蓋を開くと共に、フリントドラムを弾いたジッポの右手から、火花が飛び、中空を奔る。

 直後、キョンシーの頭を炎が包み込んだ。マズルフラッシュとは比べ物にならない火勢の焔が。マグナム弾の直撃を受けてもうめき声一つ上げなかったキョンシーが、炎に包まれる頭を両手で押さえながら、軋るような苦鳴を上げた


「リュィ」

 短くジッポが呼び掛けるが早いか、リュィは傍らから飛び出して、腰を抜かした警官の許へと駆け抜ける。その身捌きもまた、俊敏この上ない。足を飛ばすかのような勢いで駆け、瞬く間に尻餅を突く警官の許に辿り着くと、彼の襟首を掴んだ。そしてリュィは、ひょいと軽い仕草で、自分の身の丈を遥かに上回る成人男性を、片手で後ろへと放り投げた。

 放物線の軌跡を描いて木尚の傍へと飛んでゆく警官を後ろ目に、リュィはキョンシーと対峙する。


 最前の炎は既に鎮火しつつある。キョンシーの苦鳴は途絶え、顔を覆う指の隙間から覗く昏い緑眼が、リュィを見据えていた。

「ごきげんいかが?」

 愉し気に笑む木漏れ日色の瞳が、キョンシーを見返す。小粒になった飴玉が、リュィの口許でぱきり──と音を立てて割れた。

 その直後、キョンシーは顔から引き剥がした腕を大薙ぎにして、リュィの小さな頭を目掛けて振り下ろした。咆哮とも嗚咽とも区別の付かない叫び声を上げながら。


「おーにさん──」半身を切るようにして、大振りの拳から身を躱すリュィ。

「──こーちら」立て続けに襲い来る次の拳もまた、軽妙な身捌きで危なげなく躱しせしめた。尋常ならざる膂力によって生じる拳風だけが、左右二つに結った少女の黒髪を撫でて、翻弄する。


 左右のフックで空を切るのみに終わったキョンシーは、さらに前蹴りを、リュィ目掛けて飛ばす。子供一人、受ければ原型を留めていられるかどうかわからぬ程、空気を唸らせる豪脚。

 しかしその豪脚をとん──という柔らかな布靴の音が踏む。

「はー」リュィは軽やかに宙を舞うや、空を穿った豪脚を柔らかく踏んだのだ。

「ず─」そしてさらにそれを足場として跳躍し、キョンシーの肩を踏み締める。

「れ!」いなや、彼女はその身を旋転させた。濡れ羽根色のツインテールが、薫風を纏って孤を描く。

 直後、火薬の爆ぜるような炸裂音を響かせて、リュィの旋脚がキョンシーの後頭部を打ち払った。

 細身の矮躯、中空からの蹴撃。にも関わらず、腰の捻転を利かせた旋脚は、キョンシーの体勢を大きく崩す。


 前へ倒れるキョンシー。しかし、寸での所で足を踏み出し、身を持ち直そうと試みる。が、その間を与えずして、再び奔った火花がその身を襲った。仰け反る、キョンシー。

 弾けた炎は、先のそれと比しても、なお早く散る。しかしその火勢は、反するように激しく、キョンシーの眼を眩ませた。

 次の瞬間、炎が散り、晴れたキョンシーの視界へ、眼晦ましを放つと共に間合いを詰めていたジッポが踏み込む。


 キョンシーの迎撃、大振りの左フック、先にリュィへ放たれた拳と軌跡は同じ。身は躱さず、ライターを握り込んだ裏拳を合わせてこれをつ。

 ワン、ツゥ──孤を描いて向かって来る拳を裏拳で弾くや、左の拳で肘関節を打ち抜く。

 スリー──左拳を振ると共に生じた腰の捻転を反動に生かして、外から内へ抉り上げるような右の肘撃を、キョンシーの肺へ叩き込む。

 三連打、三連打スリーカウント打撃パーカッション


 キョンシーの身は頑強なれど、その身体の造りは、おおよそのところ人体と変わりない。肺を強かに打たれたキョンシーは、衝撃に一歩後退しながら蓄えた空気を吐き出し、その身を硬直させた。


 さらにジッポの攻め手は三手に留まらない。攻勢のリズムを崩さず、さらなる打撃を叩き込む。

 肘撃と同時に前へ踏み出した右脚を踏み換えず、蹴り足を天へ突き上げた。槍のごとく突き上げたプレーントゥの踵が、キョンシーの顎を捉え、その身を宙へかち上げる。


 キン──という強い音、残響少ない金丁に続くフリントドラムの摩擦音。

 ジーンズの生地にオイルライターを摩り付けると、生じた火花がハイキックの体勢を保つ蹴り足へとぐろを巻くように絡み付き、爪先目掛けて昇ってゆく。

 瞬く間に蹴り足を昇り詰めた火花は、中空のキョンシーへ喰らい付く。

 次の瞬間、左腕、左肺、顎を起点にして、キョンシーの総身へ炎が燃え広がった。

 その火勢は、先の二度に渡る発火と比して、さらに苛烈極まりなく、キョンシーが中空からアスファルトへ落下するその僅かな間に、既に左腕は炭化しており、落下の衝撃で呆気なくへし折れた。あきらかに、尋常な燃焼速度を逸脱している。


 しばらくしてという程の間もなく、やがて炎が消えたかと思えば、あとには僅かな焼骨だけが残っているのみで、発火の起点になった箇所に関しては、遺骨さえ残さずに焼失している。それが先程まで人型を成していたとわかるのは、融解したアスファルトに残った輪郭だけだ。

 知らぬ念仏の代わりとばかりに、ジッポはその焼け跡に向けて言った。

「ご愁傷さま」






「どれ、掴まりな」

 未だ足許で腰を抜かしている制服警官に、木尚が手を差し出す。

「す、すいません」

 申し訳なさそうにしながら、木尚の腕を支えに立ち上がる制服警官。

「キョンシーと火葬屋を見るのは初めてか、若いの」

「は、はい。自分は、東北の生まれで」

「ならよおく見ておきな、この街で警官やる以上は、長え付き合いになるからな」






「ご愁傷さま」と焼け跡に一瞥を寄越したジッポは、すぐに視線を切って、二階の事務所を見上げた。木尚から伝え聞いた情報が正しければ、都合、三体のキョンシーを相手取らなければならない。

 溜息を漏らす──程に暢気している状況でもない。そして実際に、息を吐くいとまは与えられなかった。


 高らかなエンジン音──車庫に停められていた黒いセダンが、唐突にエンジンを稼働させたのだ。

 生存者が車内に居た──馬鹿な。そうであったなら、それこそこれまで暢気しているはずもない。こうして警察が現場を囲うよりも以前に逃亡を企てているのが道理である。であれば──残る可能性は、ただ一つ。


「ジッポ!」木尚とリュィ。高低入り混じる警告の声にやや遅れて、フロンドを奥にして車庫に駐車していたセダンが、そのリアボディをジッポに向け、バッグで突進して来た。


 瞠目する間もあればこそ、ジッポはアスファルトを蹴って身を躱した。左か右か──否、横に回避して間に合う距離ではない。足を引っ掛け、弾き飛ばされるだけだ。そう判じて、ジッポは向かって来る車のリアボディに向けて跳んだ。

 角張ったバンパーを飛び越えて、リアガラスに身を投げ出すと、腕で腹を庇いつつ、受け身を取って衝撃を殺しながら屋根を転がり、フロントのボンネットからアスファルトへと転がり落ちる。

 アスファルトを二転三転し、膝立ちになったジッポは、身体に負傷がないか意識を向けて、打ち身の一つもないと判断する。セダン型で助かった。これが車高のあるワゴン型であれば、身を躱せたかどうか。


「無茶しやがる」

 やたら威圧的な印象の黒いセダンに改めて眼を向けると、運転席に着いてハンドルを握る男と眼が合った。

 やはり、キョンシーだ。片方の眼窩には銃創が穿たれ、覗く緑眼は一つ切りだが、何よりそれが証である。


 點解──声こそ聞こえずとも、フロントガラス越しに見える口許が、そう呟くのが見えた。

 キョンシーは、その膂力、頑強さ、そしてその性質からして怪物だ。だが、知性無き猛獣ではない。彼らには生前の記憶と経験とが残っている。僅かながらに、人間性を宿しているのだ。だから最前のキョンシーのように暴力の技術を持ち合わせている事もあれば、こうして道具を扱う事もできる。


 無論、今ハンドルを握っているあのキョンシーの生前は、この状況であんな眼をするような人種ではなかっただろう。キョンシーは、どんな暴威を振るう時であっても、一様に悲哀に満ちた眼をする。


 哀し気な目付きをした暴走セダンの運転手がアクセルを踏み抜くよりも早く、ジッポは立ち上がり駆け出した。

 セダンのフロント目掛けてではなく、むしろ遠ざかるように、背後の事務所に向けて足を飛ばす。

 遅れて、エンジン音が追って来た。セダンが迫り来るのを背中に感じつつ跳躍し、右手を背後に向けて振るのと同時に、ライターを弾く。


 火花が奔り、セダンのフロントに命中するや炎が膨らんで、ガラスの表面を覆い尽くした。火勢が凄まじいのは一瞬のみで炎はすぐに鎮まったが、運転席のキョンシーの眼を眩ませるのに不足はない。

 ジッポは目論見を果たしたのを察すると、事務所の壁面を蹴ってさらに跳躍し、目前まで迫るセダンから、寸前の所で右へと身を躱しせしめた。

 アスファルトに一転しながら着地するより一瞬早く、大きな破壊音を響かせてセダンのフロントが車庫入口付近の壁へ激突する。


 身を立て起こしたジッポは、粘り強くエンジンを轟かせて、ひしゃげたバンパーを壁面から引き剥がすセダンに舌を打った。さすがは日本製。運転手と同じで、死に体になってもまだ動く。

「つーかまえた」

 右手を構えるジッポだったが、その時、リュィが車体の上に降り立った。とん──と柔らかい踏み音が、半壊したボンネットを踏む。

 そして鋭い吸気と共に、彼女は肩と肘を結ぶ上腕が地面と水平になるまで腕を上げて、解き放った。

 振り下ろした拳が衝撃と共にボンネットを大きく陥没させると、エンジンが断末魔を上げたのち、セダンが停まる。


 完全に沈黙したセダンを前に、さてどうやって中のキョンシーを焙り出すかと思案している所に「さがってな」と木尚がローマンを構えた。

「大判振舞いだな。そいつだって税金だろ」

「弾薬に埃被せてるとな、税金の無駄だってんで来期の予算減らされちまうのよ。生命線削られちゃ、敵わねえからな!」

 世知辛い気を吐きながら、木尚はローマンを撃発した。

 立て続けに三度、マグナムを鳴らす。防弾仕様でもない窓ガラスへ、三つの銃痕が穿たれる。


「でかしたぜ、とっつぁん」

 口端をにやりと上げて、ライターを弾く。奔る火花は狙い過たず.三五四口径──直径一センチにも満たない銃痕を潜り抜け、車内へと侵入した。

 直後、セダンの車内を爆炎が埋め尽くす。銃痕から噴き出る、赤い三条のライン。間もなく車のドアが開き、炎を振り解きながら、キョンシーが躍り出る。片目には緑眼、そしてもう片方の眼窩には、炎の残り火がこびり付くように燃えている。


「點解!」

 車から飛び出した勢いそのままに、腕を振り上げ、こちらへ襲い掛かって来た。

 唸りを上げる左右のフック──先のキョンシーと比べて、いくらかマシな拳。ストリートの作法に則った、実戦向きのボクシング、いやフルコン空手崩れの喧嘩殺法か。


 右、左と連続で襲い来るフックから、腕の外周へ身を捌くように逃れる。そして次の三手目に、ジッポは仕掛けた。

 三手目の右フックを、上半身を沈み込ませて潜り抜け、キョンシーの懐中へ入り身する。と同時に、相手の腕が描く孤の外側から、蹴りを浴びせた。

 沈身した上身と入れ替わりに跳ね上げた左くるぶしを、腕の外周から巻き込むように足をしならせて、キョンシーの鼻面に立叩き付けたのだ。


 エキセントリックなキックモーション。視覚かつ意識の外から放たれた蹴りに、キョンシーが怯み、後退る。キョンシーは知性なき怪物でなく、経験と記憶を宿し、そこには人間性の残滓がある。だから、こういう手も通ずるわけだ。

 身を起こすと共に、足を踏み換える。

 蹴り足を、左から右へとスイッチ。まず脛を刈るロゥの足払い、鳩尾を踏み抜くミドルの前蹴りを入れ、そのまま右脚を振り上げて、肩に踵を落とす。


 下、中、上段のコンビネーション。体勢を崩したキョンシーが、頽れようとする。さらに、踵をお見舞いした右脚を振り下ろしながら、ジッポは右手を突き出した。


 胸郭を穿つ、ストレートリード。


 緩くゆったりとライターを持つ掌を、インパクトの瞬間、硬く強く拳に握る。さらに次の刹那、右足でアスファルトを踏み抜き、生じた位置エネルギーを全て拳に乗せる。

 打ってなお引かぬ、むしろさらに前へと突き出す拳。藁クズもかくやと舞うキョンシーが、廃車同然のセダンの方へ飛ぶ。開かれた運転席のドアを潜り、助手席側のドアへ激突し、窓に無数のヒビが入る


 ジッポはフリントドラムを弾いて、セダン改め鉄の棺桶に納まったキョンシーに、火花を飛ばした。

 その現象は着火と言わず、発火と呼ぶ方が相応しい。奔る火花に捉えられたキョンシーを焼くその炎は、内側から生じたモノだからだ。

「ご愁傷さま」

 轟々と燃え盛る車内へ背を向けながら、決まり文句のように繰り返す。放って置いて問題はあるまい。あの炎は、ジッポが律すれば、余計に物を燃やす事はない。シートが焦げ付くくらいは避けられまいが、炎上爆発とまではゆかぬだろう。

 そう思って一、二歩セダンから遠ざかったところで、ふと思い直して振り返る。


「──おい、そんなに見るもんじゃねえよ」

 未だボンネットに立ち、フロントガラス越しに原型を崩して焼失してゆくキョンシーを、その緑眼に映すリュィへ呼び掛けた。

「はぁい」

 素直に頷いたリュィは、既に炎の消えつつあるキョンシーの燃え殻から視線を切って、ひょいと車上から飛び降りる。


 それとほぼ同時だっただろう。事務所二階の窓が、内側から爆ぜ割れたのは。

 何事かと上を見上げると、青空を背景に人間大の影が舞い、今しがたリュィが飛び降りたセダンの上へ落下した。衝撃に、フレームが歪み、フロントガラスが砕ける。


「おいおいおい、なにがどうした!?」

 さしもの木尚も動揺という程ではないにしろ、驚きを露わにする。

「あ~あ、たべちゃった」

 最も間近に車上へ落下したモノの正体を眼にしたリュィが呟く。それはキョンシーだった。先の二つとそう変わりない風体──堅気とも思えぬ服装と、生きているとも思えない銃創を負った男だ。ただ一つ違うのは、その腹に銃によって負ったとも思えない傷があるという事だ。それはさながら、何者かにはらわたを荒らされたかのような無残な傷だった。


「ああ、だな」

 リュィに同調するジッポ。しかしその視線は、セダン車上ではなく、事務所二階の爆ぜ割れた窓の奥へと向けられている。そこに立っている一体のキョシーへと。それもまた再三そうであったように同じような姿形をしていたが、大きく異なる点が二つある。

 一つは口許を赤く、自らの物でなく他者の血と肉で汚している事。

 そしてもう一つが、その瞳の色だ。緑色には違いない。だがその色は、他の三体のキョンシーと比べても、さらに濃く昏い。噎せ返るような樹海の色を通り越して、息も許さないような濃密な緑。陽の光の一片も届かない沼の底に生す苔のような、そんな緑だ。


「點解……、天係藍色嘅」

 どうして、空が青いのか。二階のキョンシーはそう呟いた切り、青い空を見つめ続けた。窓際から一歩も動かず、誰を襲う事もなく。

「とっつぁん、アレの始末は頼んだぜ」

 ぐらりとあまり安定していない様子で身を起こす車上のキョンシーの方へ足を向けながら、二階のキョンシーを指差す。

「ああ、そっちの残りは任せたぞ。──おおい、誰か護送車手配しといてくれや──ああそうだ、上のアレは霊案所送りだよ」

 周りの警官達に指示を飛ばす木尚を後ろ目に歩きながら、パーカッションを一本咥える。


「點解」

 ゆらりと車上から降り立つキョンシーが、まったく聞き飽きた呟きを発した。まあそれは今に始まった事ではないが。

「知るか。相談窓口なんか開いてねえよ」

 ライターを弾いて、煙草に火を灯す。

「俺は火葬屋。俺のやる事は、焼くだけさ」

 これが池袋チャイナタウンで火葬屋を営む、ジッポという男の一日──ごくありふれた日常の一幕だった。

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