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 かつん、かつん──と、強いプレーントゥの踏み音が、コンクリ打ち放しの階段を降ってゆく。

 とん、たん──と硬質な革靴の音に続くのは、柔らかな布靴が奏でる音だ。踊り場を照らす蛍光灯だけが頼りの、薄暗い階段に、二つの足音が響き渡る。


 比良坂ビルに、エレベーターなどと気の利いた物はない。

 ジッポとリュィが、自らの足でひたすら階段を降ってゆくに連れて、踊り場の壁にペンキで書かれた“五楼”という階数表示が、減じてゆく。

 数字が変わるのと共に、二人の前へそれぞれ趣の異なる扉が現れた。


 四楼──赤漆で塗装された樫製の扉。

 扉には、中国的な印象のある格子模様の木枠が嵌め込まれている。ガラス窓はなく、室内が透かして見える扉の上には、無骨な削りの木製看板が掲げられており、“药屋 五谷堂”と荒い字体が彫刻されている。药屋は、中国語で薬屋を意味する言葉だ。


 三楼──パインの無垢材を使った扉。

 扉の脇に置かれた立て看板には、シンプルな筆払いで“猫聞堂”と記されている。名にしおい、ドアノブやドアノッカー、扉に嵌め込まれたステンドガラスに至るまで、猫がモチーフになっていた。看板隣の棚には、古い本が数冊並べてある。ここは、中国書を専門に扱う古本屋だ。


 二楼──赤と黄を主体にした、派手な彩色の扉。

 隣の壁に立て掛けられたアルミ看板には、赤地に墨筆を模した黄色の字体で“広東料理 李飯店”とある。何の商いをしているのか、一々言うまでもあるまい。この前を通る時だけ、布靴の歩みが速度を落とした。


 さらに階段を降ってゆけば、やがて扉のない、ぽっかりと開けた口から淡い光が差し込む出口が現れた。

 出口を潜り、外へ踏み出す。

「きょうもあおいね、そら」

 外へ出るや、リュィが、誰にともなく、独り言というような調子でつぶやいた。

 なんとはなしに、ジッポは空を見上げる。

 雲一つない、霹靂の空。にも関わらず、四方を囲む灰色のビルに四角く切り取られた空は、どこか煤けて見える。

 取り立てて見る物もない空から視線を切って、正面に拡がる街並みを見回す。


 池袋といえば、東京でも指折りの歓楽街だ。特にこの駅北口辺りは、他の駅口と比べて、よりディープな場所である。

 中華料理やラーメン、ホルモン焼きなどのやけに濃ゆいラインナップの飲食店が並ぶ中、ピンク色の看板を表に出しているのは風俗店舗だ。

 陽の高い内こそまだ大人しいモノだが、これが夜ともなれば、ネオンサインが踊り、より妖しく、あるいはより毒々しく映る。

 情操教育には甚だよろしくない光景だが、リュィはそちらには目もくれず、ただ飽きもしないで空を見上げ続けている。

 翠玉の瞳に、紺碧の空が映り込む。


「なんだい、あんたたち。二人揃って、待ち惚けて」

 ふと、アスファルトの上に立ち並ぶ二人の背に、比良坂ビル一階に店を構える煙草屋から声を掛ける者があった。声に反応し、リュィは空を見上げるのを止めて、振り返った。

「こんにちは。イガラシのおばさま」

 古い店構えの手狭なカウンターに居座っているのは、初老の女。後ろで纏めて縛った髪に白が混じっているのを見ても相応の齢だろうに、やけに鋭い眼光をした老婆だ。いつも妙に垢抜けたジャージを身に纏っている。 

 名は五十嵐いがらしイム子と言い、この比良坂ビルを所有する大家だ。


「よお、婆さん。煙草一箱売ってくれ」

「金はあるんだろうね。これ以上、ツケは利かないよ」

 渡りに船、ニコチン不足に煙草屋と近付くと、じろりと鷹のような眼光がこちらを定めた。

 ぴたりと歩みを止めて、ジャケットのポケットを探る。右を探り左を探り、そして胸元のポケットをまさぐって、ようやく紙屑なのかどうか区別の付かない千円札を取り出してみせる。しわをなるべく伸ばして差し出すと、五十嵐は、けったいな視線を向けて来た。


「まあ、いいさね」と頷くともなしに言ってようやく受け取ると、店の奥から煙草を一箱取り出し、投げて寄越す。受け取ってみると、注文を告げるまでもなく、パーッカションだ。

「まったく、そんなモノ頼むのは、あんたくらいだよ」ぶつくさこぼしつつ、しわくちゃの千円札をレジスターに仕舞う。

「っておい、釣りは」

「あるもんかい。これっぽっちじゃ、ツケの足しにもなりゃしないけどね」

 そう言われると、ジッポに返す言葉はない。閑古鳥を飼っているジッポが、まがりなりにもオフィスを構えてヤニで汚していられるのは、五十嵐の眼零しに与っているからに他ならないのだ。


「今日の稼ぎで──」

 と言いつつソフトパッケージの包装を破いて、中から一本、パーッカションを取り出し、唇に食む。

「ツケに滞納した家賃、耳揃えて払ってやるさ。釣りで、来月分まで払ってもいいぜ」

 折しもその時、ジッポが煙草に火を点けるのを見計らったようなタイミングで、白いボディの車が、煙草屋の前に停車した。

 クラウンのセダン。屋根に赤い回転灯を付けるまでもなく、その素性は明らかだ。

 おもむろにパワーウインドウが開く。

「よう、ジッポ」と運転席から顔を覗かせたのは、五十嵐と同じく、壮年を過ぎて老年に差し掛かった頃合いの男。

 くたびれたブラウンのスーツは、コロンボかダーティ・ハリーを思わせる。ハンドルを握る分厚い掌や、スーツ越しにもわかる大きく張った肩からして、この刑事は、丸っきりの後者──根っからの肉体派だ。

 名は、木尚きしょう是人これひと。池袋署に務める警察官である。


「やけに吹くと思ったら、こういうわけかい」

「そ、これからおしごとなの」

「遅えよ、とっつぁん」

 木尚を見て察したらしい五十嵐と、愛想よく頷くリュィを他所に、セダンの屋根に腕を置いて、運転席を覗き込む。


「随分な態度じゃねえか。懐の寂しいおめえさんに、仕事持って来てやった福の神に向かって」

「なにが神サマだ。人の足許見て、厄介事持ち込んで来てるだけじゃねえか」

「持ちつ凭れつじゃあねえか。今日日、食い扶持があるだけマシだろうよ。ましてやおめえさんは、コブ付きだ」

 木尚が、五十嵐と何やら話し込んでいるリュィをちらりと見遣る。

「余計な世話だ」


 ヤニを吐きつつ後部ドアに手を掛けようとすると「おい待ちねえ」と木尚が制止しする。「なんだよ?」運転席に視線を戻すと、無骨な指が“車内禁煙”と記されたプレートを小突いてみせた。

「煙草呑みにゃ、住み辛え世の中になったもんだなあ? 俺なんざ、禁煙三日目だ」

「おんなじセリフを、おんなじ口から百っぺんは聞いたぜ」

 ぺっと吸い差しを吐き捨て、靴裏で踏み消しながら、苛立ち紛れに皮肉を垂れるも、木尚はニヤリと笑うだけで受け流してみせ、左腕に巻いたミリタリーブランドの腕時計に眼を遣った。

「とまれ、時間が惜しいのには違いねえ。乗ってくれ」

 促され、改めて後部ドアを開き、乗り込む前に声を張る。

「おいリュィ、置いてくぞ」

「まってまっていくったら! それじゃあいってきます、おばさま」

 五十嵐に手を振ってリュィが勢い駆け出し、ジッポが開けたドアから後部座席に乗り込んだ。そしてそのまま、中央に居座って座席を占有する。


「おい。どけよ」

「やあよ。ここはあたしのせきだもの。ジッポはおじさまのとなりにすわればいいでしょ」

 奥に詰めろと睨むも、手足を広げて根を張るリュィ。「ったく」と、思わず力を込めてドアを閉じ、車体を回って助手席のドアに手を掛ける。

「あんまり雑に扱ってくれるなよ。こいつは税金で走ってんだぞ」

「俺も払ってる」

 木尚の小言に言い返してやると、鼻で哂って来た。

「吹きやがるよ、この空欠が」

 そして、シフトレバーを小気味良く操作し、ギアをニュートラルから一速に入れ、滑らかに車を発進させた。

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