一話 池袋チャイナタウン

1-1

 比良坂ひらさかビル。

 池袋駅北口からいくらか歩いた場所に、その雑居ビルはある。五階建て、寸足らずのビルだ。


 その最上階に位置する窓には、“火葬屋”とウインドウサインが施してある。白いカッティングシールは所々が剥げおり、広告効果は、いささか頼りない。

 看板を掲げてからこっち、ろくに拭き掃除もしていない窓の奥には薄暗いオフィスがあった。埃を被ったブラインド越しに差し込む陽光は、ひどくか細い。四方八方を背の高いビルに囲まれた比良坂ビルは、日がな一日、日当たりには恵まれない。


 加減を間違えて叩き、画面に罅の入った二十インチのブラウン管テレビ。

 キャビネット代わりのロッカー。

 応接用に置いた、合皮張りのソファ。

 “滞納”“督促”を訴える書類の山を築いた、四足のテーブル。

 吸殻をうず高く積んだ真鍮製の灰皿、黒電話、潰れてしわくちゃになった紙巻き煙草のソフトパッケージ、そして点検、洗浄のために分解したオイルライターを乗せたスチールデスク。

 これが、薄暗く手狭なオフィスにある物の全てだ。そのほとんどにヤニとオイルの臭いが染み付いている。


 唯一汚染を免れているのは、壁に掛けてあるまっさらなカレンダーばかりだ。二○○六年十月の暦を示し、十六日の所には赤丸が付けてある。

 

 ぎしり──と、ジッポは安物デスクチェアの背凭れを軋ませた。

 アイロンなど生まれてこのかた触れた事もないと言わんばかりにしわの寄ったミリタリー風のシャツの袖を捲り上げ、下肢には色の褪せたジーンズを履いている。思慮もなく何度も乾燥機に放り込んだ影響だ。

 ぎしぎしと大きく不満を訴える背凭れには、オリーブグリーンのミリタリージャケット──米軍払い下げのM51フィールドジャケットが、辛うじて左肩を引っ掛けてずり落ちるのを防いでいた。

 身の周りを見るだけで物ぐさとわかる男。これがジッポという男だ。


 そんな男が何をしているかといえば、オイルライターの内部パーツ──着火機能の全てが詰まったインサイドユニットを、綿棒片手に矯めつ眇めつ眺めている。やがて、インサイドユニットをデスクに置くや、入れ替わりにボトムケースを手に取った。綿棒と同様、オイルを染み込ませた布きれで、丹念にそれを拭き始める。


 無精な身なりに反した丁寧な手付き、口の達者な彼の知り合いは、それを指して、さながら西部劇のガンマンのようだと言った。なるほど、それは言い得て妙だと思ったものだ。

 名うてのガンマンが、髭を伸ばすに任せておきながら、毎夜整備を欠かさない愛用の銃、ジッポにとってこのライターは、まさにそういう物である。


 ボトムケースは、インサイドユニットを納める外装だ。クロームメッキの金属ケースは、塗装が所々剥げており、地金の真鍮を晒している。

 ボトムケースを十分に拭き上げると、またインサイドユニットと持ち替えて、底敷きのフェルトパッドを捲り、中に詰められた綿に、ライターオイルを染み込ませて補充する。

 続いて、火が灯る芯を十徳ナイフのピンセットで摘まみ、中からずるりと引き出して、十徳の鋏ですっかり焼け焦げた部分を切り取った。

 最後に、インサイドユニットをボトムケースに納めて、整備は終いである。


 ボトムケースの上蓋を開閉し、スプリングの具合を確かめて、ジッポはフリントドラムを弾いた。

 片面八つ、両面合わせて計十六の風穴が開いた煙突チムニーの中で、火花が咲く。


 揮発するオイルに引火した火がほんのひと時、瞬くように煌めき、やがて落ち着いて揺らめく底火に青を滲ませた赤い火柱が、鳶色の瞳を照らし上げた。


 精悍な顔立ち。

 くだんの口達者な知り合い曰く、身なりを気遣い女心を解するに長けさえすれば、三流ジゴロもやれるくらいには精悍な顔の作りをしているらしいが、言うまでもなく皮肉だ。そこまで条件を揃えれば、どんなはんちくでも構わないだろう。


 蓋を閉じて火を消すや、ジッポはデスクの上に置いた紙巻煙草のソフトパッケージへと手を伸ばした。

 潰れたソフトパッケージに印字されているのはアルファベット十文字“PERCUSSION”。打撃パーカッションを意味するその英単語を彷彿とさせるように、パッケージ中央には、ギザギザで縁取られた赤い円形のシンボルがプリントされてある。

 ジッポ愛飲のこのパーカッションは、悪辣な苦味の利いた紙巻だ。フィルター付きが主流のこのご時世に、両切りである。そのキツさは生半なまなかなモノじゃなく、生半可なまはんかな覚悟で口にした者は、肺を直接殴られたかのように咳込む羽目になる。


 パッケージの中身を探ってみたが、指に当たる物がない。逆さにして振ってみるも、タバコ葉のクズがぱらぱらこぼれるばかりである。

 品切れだ。買い置きがあったかどうか思案するも、あるはずがないと溜息をこぼして、空っぽのパッーケージを握り潰す。とその時だった。


 ジリリリ──と、黒電話がけたたましく鳴ったのは。ニコチン不足の神経に、ベルの音が障る。とはいえ、取らぬわけにもいくまい。煙草もロクに買えない現状、苛立ち紛れに依頼を蹴るわけにもいかないだろう。


「あいよ、こちら火葬屋」

 受話器を取り、紫煙に灼けたバリトン声で応じる。

『よお、ジッポ』

 返って来たのは、さらに低く渋い、年かさのある男の声。聞き覚えのある声だ。


「なんだ、とっつぁんか」

『なんだとは随分だな。それが客に対する口の利き方かあ?』

「お生憎サマ。愛想利かすのは、まともな客を相手にした時だけなのさ」

『俺は客じゃあねえってか』

「まともな客じゃないって言ったぜ。まともってのは、トーシロって意味さ。ヤクザにゃ愛想は売らねえよ」

『俺の商売はヤクザじゃあねえぞ。これでも歴とした』

 言い差す声を遮る。

「おんなじだろ。合法か無法かの違いがあるだけで、少なくとも、カタギとは言えねえよ」

『ったく……口の減らねえのは相変わらずだな』

 シニカルな笑みを忍ばせて言うと、受話器の向こうから苦笑が返る。


「それで? なにも俺の営業方針にケチ付けようって電話寄越して来たわけじゃないんだろ? 用向きは?」

『……ああ、そうだな』

 やや不服そうだが、受話器の向こうの声は、用向きを話し始める。


『つい先ごろ、池袋の北口辺りに斧柄おのがら組んとこの事務所が建ったのは知ってるな? そこが、つい今さっき、何処ぞの誰かに襲撃受けた』

「そらみろ。やっぱり、ヤクザ者の相手させれられんじゃねえか」

『まあそう邪険にしなさんな。前に振った仕事から随分間が空いたからな。そろそろ懐が寂しくなってきたんじゃあねえか?』

 お見通しというわけだ。懐事情を掴まれた相手というのは、まったくやり辛い。


「どうする? 請けるか。それとも蹴るか」

 端から応えはわかってるという響きの問いだ。そう、全く以って癪な事に、こちらの懐事情は、せっかくの稼ぎを蹴られる情勢ではない。

「請け負うさ。すぐ車を寄越してくれ」

『ああ。もう向かってるよ』

「……そりゃどうも御親切に」

 してやったりと言わんばかりのしたり声に、してやられたとは意地でも出さずに、それだけ告げて、受話器を置く。


 椅子から立ち上がり、背凭れからミリタリージャケットを取って、翻すようにして羽織る。

「ジッポ」

 きしり──と、オフィスの中央、デスクの正面に二つ、対面するようにして設置した合皮張りのソファの片割れが、軋む音を上げるの同時に、ジッポを呼ぶ声があった。


「起きたか、リュィ」

 そちらを見遣れば、そこには一人の少女の姿があった。

 ブラインドから差し込むか細い陽射しに浮かび上がるのは、未成熟な実りの乏しい肢体。年の頃は、十にも満たない。

 足をソファに横たえたまま身を起こした上体に、黒く長い髪がしな垂れ掛かる。絹糸の一糸一糸を丹念に漆塗りしたかのような、濡れ羽根色の髪だ。

 肢体に纏うのは、丈の短い、みどり色のチャイナ服で、スリットから覗く真珠色の肌をした脚を覆うのは、膝丈まで伸びるスパッツ。

 容姿から衣装まで、オリエンタルな印象のある少女だが、その瞳の色だけ、気色が違った。

 エメラルドグリーン。

 衣装に良く似た色合いの瞳。眼の奥から木漏れ日が差しているかのような、鮮やかな翠を、少女の瞳は宿していた。リュィというのは、中国語で“緑”を指す。語るに及ばずとも、その色合いから取った名だ。

 その鮮やかさは、およそ、遠因の血が出たというのでは説明が付かない。人間離れした、あるいは浮世離れした、そういう輝きを宿している。


 人間のモノではない。化生の類だ。

 その色、その輝きは、この少女──リュィが、キョンシーであるという証明だ。

 キョンシー。死してなお死なずに生を得る、条理の枠を外れてしまった、コンを持たぬヒトガタ。この街──池袋で命を懐から落としてしまった人間が陥る、末路の姿。それがキョンシーだ。もっともリュィは、その中では変わり種である。

 それでもこの少女は、まっとうな人間ではない。それは乏しい光量の中にありながら、自ずと光を発しているかのように輝く瞳が主張している。


 木漏れ日色の瞳が、ぱちぱちと瞬き、やがて林檎色の唇がまた開く。

「いまのでんわは、おしごと?」

 鈴を転がすソプラノが問う。舌の足りないその声は、寝起きとは思えない程はっきりとしている。


「ああ。飛び入りだ」

「やくざやさん?」

「いいや、警察だ」

 悪びれなく、かぶりを振る。

「じゃ、おんなじだ。むしろ、はらいがちょっとさみしいかも」

「口利きは、とっつぁんだけどな」

「キショウのおじさま? なら、ちょっとだけきたいできるかもね」

 リュィのその口調に、何やら含むモノを感じ「なんだよ」と、ジッポは渋々ながら水を向けた。


「こんやこそ、おにくがたべられるかしら」

「滞納した家賃と、煙草のツケ払って、ぜいたくできるだけの余裕があればな」

「ぜいたく!」

 リュィの声が、二つ三つトーンを上げる。

「おにくなしの青椒肉絲に、キャベツばっかりの回鍋肉、きゅうりのほそぎりだけで棒棒鶏っていったときにはしょうきをうたがったわ!」

 舌足らずの声は、料理名を口にする時だけ、流暢なモノに変わった。

「ひもじいおりょうりにまいにちたえて、たったいちにちだけちゃんとしたごはんをきたいしたわたしにいうことが、ぜいたく? この、かいしょうなし!」

 鈴の音が一転し、きんきんと響く金切り声。片耳を塞いで閉口し切りだったジッポは「わかったよ」と口を開いた。

「今日は、二階で食う。それなら文句はないんだろ」

「……なにたのんでも、もんくいわない?」

「定食にしてくれよ」

 ジャケットに、整備し終えたばかりのライターを突っ込みながら念を押すと、リュィは気のない風を装って頷いた。

「しかたないから、それでてをうってあげましょ」

 しかし、頬の緩みまでは隠し切れていない。

「そりゃどうも」とソファの隣を横切る。


「ほら、いくぞ」

 促しつつ扉の方へ向かう。リュィは弾みをつけてソファから離れると、請求書やら督促状やらを積み重ねた四足のテーブルから飾り紐を取り、手慣れた仕草で、長い黒髪を左右に一つずつ分けて結わった。

 後に遅れて、軽やかに歩を踏む。弾むようなステップに合わせて、二条の黒髪が軽やかに揺れた。

 やがてジッポとリュィは、摩りガラスのスチールドアを潜って、オフィスを後にする。

 がらんのオフィスに、ドアの閉じる音が響いて、そしてまた静まり返った。

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