火葬屋ジッポ

楠々 蛙

プロローグ

 雨音が、しとしと──と染み渡る。


 そこは経営が破綻して、とうに打ち捨てられた病院の廃墟、その一室だった。

放置されたシングルサイズのパイプベッドを見る限り、どうやら元は入院患者用の病室だったとみえる

 本来ならば、廃れてゆくばかりの病院と共に朽ちてゆくはずだった寝台は、まっさらなシーツを掛けられて、在りし日の姿を取り戻している。


 ベッドに横たわっているのは、一人の少女。純白のシーツに黒く長い髪を流し、仰向けになって眼を閉ざしている。

 その表情は、ただ眠っているようだった。

 だが、胸許むなもとは動いていない──安らかな寝息など、望むべくもなくして。


 ただ、雨音が染み入るばかりの病室に、シュッ──という摩擦音が鳴った。ベッドのかたわらに立つ女が、下肢に履いたジーンズの生地に、マッチの頭薬を擦り付ける音だ。


 妙齢よりも年かさを重ねた、壮年の女。少女と同じ黒髪を後頭で結い、色素の薄い蒼い瞳をしたその女は、唇にんだ細い葉巻──シガリロの先端に、マッチの火を移す。

 役目を終えたマッチを、リノリウムの床に放り捨てた女が、シガリロを喫した。芳醇ほうじゅんな薫りを舌先で転がして、煙を吐く。

 湿り気を帯びた病室の空気を、じっとりとした重い動きで、紫煙が昇ってゆく。


 女は昇煙を眼で追うでもなしに、その蒼い眼差しをただ、廊下へ続くスライド式の戸口へと向けていた。戸は開け放たれ、廊下と病室を隔てるものは、何もない。


 女が二口目の煙を吐いたその時、廊下から靴音が聞こえた。かつり──という、硬くこわい、革靴の音。

 それが聞こえていないというわけでもあるまいに、女は変わらない調子で、三口、四口とシガリロの吸い味を喫する。


 そうしている間にも、靴音の歩みは近付いて来る。

 やがて病室の前を革靴が踏んだ時、ようやくシガリロを口許から離した。まだ長い吸い差しを、さして惜しむ様子もなく足許に落とすや、ブーツの爪先で踏み躙る。


 吸い殻から、うっすらと薄煙が立ち昇る。

「よく、来てくれた──ジッポ」

 女は、病室正面の廊下に立つ男へと、口を開いた。

 身に付けた米軍払い下げのジャケットが良く似合う、粗にして野という言葉を体現したような男である。


「人を呼び付けといて、なに言ってやがる」

 男は、噛み合わせの悪い犬のような顔で、女を睨み付けた。女は、その視線を余裕のある微笑で受け止める。

「呼べば必ず来るわけでもないだろう、お前という奴は」

 だからまあ、礼ぐらいは言っておくさ──と女が応えると、男はますます歯を深く噛み締めた。


「俺はここへ、あんたに礼を言われるために来たんじゃねえ」

 男はそう言うと、ジャケットからオイルライターを取り出した。煙草を咥えるでもなしに、男は執り出したそのライターを、右手に握り締める。


「だろうともさ」

 さもあらんという風に、女が口端を緩める。

「こうなるとわかって、俺を呼んだのか」

 その表情に、男がさらに睨みを効かせると、女は最早言葉にするまでもないだろうと言わんばかりに、肩をすくめてみせた。


「……どうしてだ」

 しばし沈黙を挟んで、男は問う。

「用件なら伝えたはずだ。お前には、この子を──」

「ちげえよ」

 かたわらの少女を視線で撫でながら言い差した女を、男は遮った。

「あんたの勝手な注文なんざ聞く耳持たねえ。俺が言ってんのは、どうしてこんなことする気になったのかって話だ」

 男が一歩、革靴を前に踏み出す。


「たとえこの街でも死んだ人間は生き返らねえ、決してだ。それがわからない、あんたじゃねえだろう」

「それまた、高く買われた──いや、ずいぶんと薄情にみられたもんだねえ」

 女は少女へ眼差しを置いたまま、ゆっくり息をこぼすようにつぶやいた。


「そんな理屈で、あたしにこの子を見放せっていうのかい」

「あんたの娘は死んだんだ! どうやっても、もう戻ってきやしねえんだよ!」

 男が、激昂する。

 雨音がこもるばかりの病室に、じんじん──と残響を木霊こだませる。やがてその余韻が消えるのを待って、女はつぶやいた。


「……それでも、この子のカケラが少しでも残るのなら、あたしはなんだってするさ」

 そう言ったあとで「いいや」と彼女は、かぶりを振る。

「そいつはキレイが過ぎるかねえ。あたしは結局、この子の中のあたしのカケラが消えてしまうのが、ひどく、たまらないんだ」

「勝手だな」

「返す言葉もないよ。普段ロクに構ってもやれないで、親ってのはホント、身勝手なもんなんだねえ。お前を呼んだのも、そういうわけさ。この子にあたしの全てを伝えられるとすれば、それはお前だけだろうと思ったんだ」

「……。勝手が、過ぎるぜ」

 わずか閉口して、そう吐き捨てる男に、女はただ黙したまま、微笑を返す。


「ああ。あんた、そういう女だよ。──黄燐おうりん

 男は一つ、歯を軋ませてからキン──とオイルライターの上蓋を開いて、フリントドラムを弾いた。

 瞬く赤い火は尋常の火花とは違って、そのまま散る事はせずに、ベッドに横たわる少女を目掛けて、中空をはしる。


 残光を瞬かせつつ奔る火花が、少女のもとへと届くその道程で、女のかたわらを過ぎようとした刹那──女は人差し指と中指、二指の間に挟んだマッチを一閃。

 奔る火花を、マッチの頭薬が捉えるやいなや火薬が爆ぜ、赤い火線は薄蒼い焔へと変じて軌道を逸らし、虚空へと消え去った。


「やらせはしないよ。この子は、焼かせない」

 炭化したマッチを捨てた女は、最前の焔と同じ色の瞳で以って男を静かに見詰めながら、構えを取る。

 男は構わずに、再びライターのフリントドラムへ親指を掛けた。

 させじと、女が床を蹴る。

 間合いを切り取りに掛かるその歩幅は決して広いものではなく、にも関わらずその軽やかな足運びは、即座に彼女の身を男の正面へと移した。


 すかさずライターを右手から左手へと持ち替えた男は、左手を半身ごと後ろへ引くや、入れ替わりに前へと踏み出した右足で、迎撃の蹴りを突き出した。

 一呼吸の内に二度、足裏を叩き付けるような蹴り足を放ったのだ。

 女は身を屈めつつ一度目の蹴りを躱し、続く二度目の蹴りを手で捌いて、男の懐へと身を入れる。


 いなや、彼女は右の掌底を突き上げ、男の顎許を狙った。男が蹴り足を戻しつつ身を引いて掌底を躱すと、女は続けざまに追撃の裏拳を払った。

 それも避けられるや、彼女は左手を槍に似せた形に変えて、素早く射程の長い貫手を突き出した。

 何より速さをたっとぶ、クイックな突き。本来ならば間合いを図る牽制の一手が、むしろ彼女の本命だったとみえる。突き出された左手は、対角線状にある男の左手──その掌中にあるライターを狙っていた。


 男もそれを悟っていたか、さらに左手を遠ざけつつ、右手で貫手を払い除ける。なおも執拗に畳み掛ける女の手技を、身捌きと前手に構えた右手の一本で凌ぎ切る。

 さらにそのまま防戦一方に甘んじず、隙を見計らって女の腰を撃ち抜く前蹴りを繰り出した。女が足捌きで身を横に躱すと、彼は蹴り足を降ろすが早いか、しめたとばかりに左手を前へ突き出す。

しかし──フリントドラムを弾く直前、女が肘を跳ね上げて、男の左前腕を上方にかち上げた。


 直後、放たれた火のラインが蛍光灯の割れた天井へ伸びて弾け、無数の赤い花弁となって、二人の頭上へと降り注ぐ。降りしきる火花の雨を意にも介さずに、両者はなおも激しく拳を交わし合う。


 火花が一頻しきり、リノリウムの床へ雨跡めいた焦げ跡を作る中、飛び交う拳脚は十を超えて、二十へ届いた。だがその内の一手として、双方共に有効打をなし得ない。

 余人の眼には数える暇とてない速さでせめぎ合いながら、互いにまともな一撃を受けず、また与えられない状況など起こり得るだろうか。

 たしかに二人は、互いに相手を打ち倒す事に主眼を置いてはいなかった。どちらの思惑も、攻め手を相手に浴びせる事とは別にあるようだった。

 だが果たしてそれのみで、この状況が成立するのだろうか。彼らは、互いに互いを打倒する事を目的にこそしていないものの、打ち出す一撃一撃に、加減している様子もない。隙あらば、相手を打ちのめしてでも目的を果たす。そういう意志が、飛び交う拳脚に込められていた。


 また、格闘の心得がある者なら、二人がお互いに相手の次の手を読む素振りがない事に気が付いただろう。攻めるにしても守るにしても、その所作に全く淀みがない。相手の呼吸を量るような、そういう気配が全く見受けられないのだ。

 推し量るまでもなく、相手の手の内を全て把握しているかのように。


 事実、二人の格闘スタイルには似通ったところがあった。

 繰り出す拳脚、足捌き、特に守勢から攻勢へ移る時のタイムラグの少なさ。何か共通したものを核にしているようなのだ。というよりは、男の動きが、女のスタイルをルーツにしているような印象だった。


 二人の格闘はなおも続き、やがて男の方が守勢へ追いやられ始める。

 攻勢に回った女の拳を捌く右手の奥で、男が歯噛みする。彼は焦燥もあらわに態勢を立て直さんと、女の前足を狙い澄ましたローキックを繰り出した

 起死回生の蹴り足は、しかし、女が先んじて踏み出したブーツの靴裏に封殺される。それを契機に、女がフットワークに傾倒していた足を蹴り技に多用し始めた。

 

 最早、守り一辺倒に回る以外、男になすすべなどなく、合間合間に差し込む攻めの一手すらも、危うい場面を凌ぐための苦し紛れでしかない。

 精細を欠くその場凌ぎの手がそう続くはずもなく、次々と矢継ぎ早に叩き込まれる女の拳によって守勢を崩された。

 さらに畳み込まれるローとミドルの蹴り足に、膝を折られる。腿に力を込めて倒れるのを防ぎこそすれ、その一瞬、男は完全に無防備を晒した。 

 外周から巻き込むような上段の踵回し蹴りに、右手のオイルライターを弾き飛ばされる。


「ぐ……!」

 呻く男に、手許から離れたライターを眼で追う余裕はなかった。

「そこまでだ」

 眼前に、女の薄い碧眼があったからだ。


 女は男の懐に身入りして、彼の胸許に触れるか触れないかという位置で手を添えていた。

「でかくなったじゃないか」

 そうしてみれば、女の背が男の上背よりも低いのが見て取れた。


 次の瞬間に、女は男の鳩尾へ拳を突き入れる。五指を伸ばしていた手を、インパクトの瞬間にこわく握り締めて。

 腕のストロークは、本来拳へ充分な威力を乗せるには短く、女は拳を打つ直前に腕を引く事すらしなかった。にも関わらず、男の身体を強烈な衝撃が貫いた。


 男の身体が、くの字に折れる。

 震える膝が屈しようとするのをこらえて、彼は雨に濡れた犬のような眼で、女を見上げる。

「どうして、だ……」

「悪いね。悪いとは、思ってるんだ」

 謝りゃしないけどねと、女はつぶやく。


 ああ。あんた、そういう女だった。男はそう、うわ言めいた声で言って、とうとう膝を崩して、リノリウムの床へくずおれた


 ひやりと冷たいリノリウムへこめかみを着けながら、視界から外れてゆくブーツを眼で追う。最早体は、首とて言う事を聞かずに、意識に従うのは霞みがかった視界ばかり。


 やがて男は、視界の及ぶ外で、パイプベッドの軋む音を聞く。

媽咪マァミィ──」

 そして続けて耳にしたのは、どこか虚ろに響くソプラノの声。

「──我要血オゥイゥヒュ

「ああ。ほら、こっちにおいでな」


 やめろ──と男の唇がわななくも、声を発する余力すらなく。しとしと──と哭く雨音に、その意識を溶かしていった。

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