終日
亜久斗と千枝
気が付けば、いつの間にか昼近くになっていた。
「うぅーん……」と、ベンチの背凭れに寄り掛かりながら寝息を立てていた女の人が唸る。
女の人は眠りに付いていた。余程疲れていたようで、呼び掛けても体を揺さぶっても何の反応も示さない。
だからここまで、私は女の人が自然と目を覚ますのを待っていた。
日の出と共に、あの蜘蛛の死神や蜥蜴の死神の気配は消えた。どうやら本当に、あの死神たちは夜の間にしか活動ができない存在のようだ。
女の人は目を覚ますと、大きな欠伸をした。まだまだ寝足りない様子であったが、自分の大役を思い出したらしい。眠い目を擦りながら、私の体が搬送されているという生田総合病院まで案内してくれた。
生田総合病院——そこの病室の五丸三号室。
女の人に案内され、病室に足を踏み入れた私は異様な光景を目にする。
酸素マスクや体に機器を繋げられた私の体が、ベッドの上に横たわっていた。
そんな私の亡き骸を、側で見守る人物が居た──。
──亜久斗君だ。
彼の後ろ姿を見て、思わず私の目から涙が溢れた。
亜久斗君が参加していたバスツアーで起こった事故の報道を見て、心配していた私の耳に飛び込んで来たのは亜久斗君の訃報──。
事故直後にも亜久斗君から連絡は来ていたし、やり取りができていたので信じられなかった。でも、警察関係者である父に取り計らってもらって、警察で安置している亜久斗君の遺体と対面して実感した。
──彼は本当に死んでしまった。
──もう彼と言葉を交わすことはできない。
私は酷く悲しみに暮れ、夜な夜な瞼を泣き腫らしたものだ。尚も亜久斗君から連絡が来ても、それは誰かの悪戯だろうと相手にしていなかった。
——それなのに、目の前には本当に生きた亜久斗君が居る。
「必ず彼は貴方の前に姿を現すから……」
女の人が言っていたその言葉が実現していた——。
亜久斗君は、私がここに居ることには気付いていないようだ。ただ真っ直ぐに、ベッドの上で横たわる私の体を見詰めていた。
「彼女さんとご対面できてどうかしら?」
女の人が亜久斗君に声を掛けた。
私の声には反応がなかった亜久斗君は、女の人の一声で振り返った。
「あぁ……。ひかりか……」
病室の入り口に立っている私の方に、亜久斗君は視線を向けてきた。でも、恐らく彼の瞳に写っているのは私ではなく、このひかりという女の人だけなのだろう。
亜久斗君はまたすぐに視線をベッドに戻すと、深く溜め息を吐いた。
「どうやら無事に生き返れたようね。その点に関しては、おめでとうと、お祝いの言葉を贈っておきましょう」
「無事、ね……。いや、あの後、色々とあったんだけれどね。……まぁ、ありがとう」
亜久斗君が苦笑を返した。
「こうして生き返って戻ったのに。まさか、千枝の方がこんなことになっているなんてね。想像もしてなかったよ……」
亜久斗久が顔を伏せた。
泣いてくれたのだろうか。目が赤く腫れて、充血している。
「でも、よくここが分かったわね」
「警察署に居たからね。川に身投げしたっていう女の子の情報が耳に入ってきてさ。刑事さんに場所を教えてもらったんだ」
──正確には男の子を助けるために飛び込んだのだが——どうやら、人伝の情報で事実が湾曲されてしまったらしい。
「千枝さんの容態はどうなの?」
そう尋ねるひかりに、私は視線を送った。
実際に私がどのような状況にあるかは、このひかりという女の人が一番に理解しているはずである。
人が悪い質問に思えた。事情を知らない亜久斗君は、悲しみで目を伏せてしまう。
「駄目だよ。目が、覚めないんだ……」
——亜久斗君の声は震えていた。目から一粒の涙が零れた。
──ん?
今更ながらに私は、亜久斗君が何故にそんなに嘆いているのか不思議に思った。私はここに居るのだから悲しむ必要はないだろうに──。
病室のベッドに横たわっている亡き骸の私は、様々な医療機器に繋がれていた。ふと機器のモニター画面に視線を向けた。
表示されていた私の脈拍や心拍数は──表示されていない?
ゼロ——。
つまり私の体は、生命維持活動を終えていたのだ。
——ここへきて、ようやく事態の深刻さに気が付いた。
「そんな……私……」
愕然としながら亜久斗君の体に手を伸ばすが、彼に触れることはできない。まるで、その空間には何もないかのように私の手は空を切ってしまう。
──何もないのではない。私自身がこの世界に存在していないのだ。
何度か試してみたが、亜久斗君に触れることはできなかった。
「亜久斗君、亜久斗君、亜久斗君……。私は、ここに居るよ……」
ブツブツと呟きながら私は無意味な行動を繰り返した。
一瞬、亜久斗君の目がこちらを向いたので、私の存在に気が付いてくれたのだと昂ぶった。
でも、相変わらず亜久斗君の視線は、私の後方に居るひかりに向けられたものらしい。
「千枝は今、どこに居るのかな? 怖い思いをしていなければいいけれど……」
亜久斗君の口から出た優しさ溢れる言葉に、私の目から思わず涙が零れた。
「私は此処に居るよ!」
叫んだ。——けれど、その声は亜久斗君の耳には届かない。
「はぁ〜っ!」
不意にひかりが、わざとらしく大きな声で溜め息を吐いた。
「見ていられないわね、あなた達……」
呆れたように私と亜久斗君の顔を交互に見る。
「お互いに側に居るってことを、感じられないのかしら?」
ひかりからの指摘に、亜久斗君の顔がハッとなる。
「まさか、千枝が此処に居るっていうのか!?」
「さぁ? それは、どうかしらね」
今更ながらに、ひかりははぐらかすように笑ってみせた。
亜久斗君が手を伸ばした。何もない空間──でも、そこには私が居た。
その手が、私の頬に触れる——。
──いや、触れたというには語弊があるかもしれない。
私が居るその空間に、ただ亜久斗君が手を伸ばしてきたに過ぎないのだ。
その光景を見て、ひかりは思わずクスリと笑う。次に、私に視線を向けてきた。
「体に戻るといいわ。そうすれば、きっと貴方も生き返ることができるでしょうから。彼に、もう一度元気な姿を見せてあげて」
ひかりに言われて私は頷いた。
死んだはずの亜久斗君がこうして生き返ったのだ。ひかりの言う通り、私だってきっと生き返ることができるに違いない。
もう一度、亜久斗君と言葉を交わすことができる──。
私は自身の体に近付き、そしてその肌に触れた。
──すると、視界が暗転した。
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