日常に紛れる幽霊
ある程度、離れたところまで走って僕は足を止めた。──どうやら、追ってきてはいないようだ。
「……ハァ……ハァハァ…………」
全力疾走をしたので、ひかりは膝に手をついて息を荒げている。
「なによ、あれ……」
額の汗を袖口で拭いながら、ひかりが吐き捨てる。
「五十嵐のおじさんだよ。近所でも有名な偏屈おじさんでね。喧嘩っ早くて、厄介事を起こすので有名さ。痛い目にあいたくなけりゃ、関わり合いになるなって昔から言われているような人だよ」
「こっちは何もしていないのに、あの態度は酷いわ」
ひかりは腹の虫がおさまらないらしく、地団駄を踏んでいる。
「昔から、誰にでもあんな態度を取るような人だから気にしない方がいいよ。僕も小さい頃、刃物を持って追い掛けられたこともあるし」
「さらっと言ったけど、それは事件じゃない」
ひかりが呆れたような顔になる。
「何度も補導されているような人だし、そもそも気にしたところで仕方がないのさ」
「それは、厄介な幽霊ね……」
「へっ?」
ひかりが眉間に皺を寄せながらそんなことを口にしたので、僕は目を丸くする。
「幽霊?」
「ええ、そうよ。あの五十嵐っていう人は霊体よ。だって、私らのことを見えていたじゃない」
あっけらかんとひかりが言い放った。
──思い返してみれば、確かにそうだ。
五十嵐は僕らのことを『お前ら』と呼称していた。複数形で表すということは、生者であるひかり以外にも僕の姿が見えていたということになる。周りには他に誰もいなかったので、あれは僕らに対して投げ掛けられた言葉に違いない。
「あの人も……死者なの?」
「ええ、そうでしょうね」
僕はひかりの言葉に衝撃を覚えたものだ。
ひかりはクスクスと、僕の反応を見て笑い声を漏らした。
「思いもよらないって顔をしているわね。……でもね、死者っていうのは、何もあなた達みたいに事故に巻き込まれた人ばかりじゃないのよ。それ以外の人間だって、幽霊としてそこらを彷徨っているわ」
「それはまぁ……。確かに、そうだね……」
これまで、たまたまバス事故の被害者たちの幽霊とだけ顔を合わせてきたから思いもしなかったが、考えてみれば当たり前のことである。
毎日のように人の命を奪うような事件や事故は起きているし、病気や老衰でも人は死んでいる。
粗暴な五十嵐のことであるから、かなり多くの人に恨みを買っているはずである。事故死や病死に限らず、彼の知らぬ間に誰かに命を奪われた可能性だってある。
「まぁ、夜ごとに死神が狩りをするから、生きている霊体の母数が、そもそもそう多くないのかもしれないけどね。死神の手から逃れるのも、相当に苦労がいるもの」
僕は頭の中で、これまで出会ってきた恐ろしい死神たちの姿を思い返していた。
──嘶き集団で襲ってくる
──電化製品に取り憑き職種を伸ばす仮面の
──悲鳴を上げながら壁を透過してくる
──回避不能の体当たりを繰り出す
──順番付けしたターゲットを狙っていく
どれも一筋縄ではいかなかった。むしろ、此処まで生き延びられたことが奇跡と思えるくらいだ。
これまで、たまたま運良く死神の追跡から逃れることが出来てきたが、実際のところ退治できたわけでも撃退できたわけでもない。
一つ何かを間違えていれば、僕も存在を消されていただろう。
「五十嵐さんも、死神たちから逃れてきたんだね」
「さぁ? それはどうかしらね」
ところが、ひかりがこれまでの問答を無にして肩を竦めた。
「追われ続ける者が居れば、そのまた逆も然りよ。あの人は、自分が死んでしまって幽霊になっているとは気が付いていない感じだったわ。もしかしたら、まだ死神とすら出会っていないのかもしれないわね」
「えっ? そんなことがあるの……?」
毎晩のように死神から追われ続けている僕からすれば、羨ましい限りである。
「例えばまだ幽霊になってから日が浅い、とか。或いは、たまたま死神がいない地域に住んでいるとか。理由なんて、色々と考えられると思うけどね」
「なるほどね」
「まぁ、悪さをせずに、日常に溶け込んでいるのならばそのままにしていても問題はないでしょうけど……。彼の場合は、何とも言えないわね」
「そうだね……」
素行が悪い五十嵐が、霊体になったからといって慎ましく生活をするとは考え難い。
千枝や両親は真向かいに住んでいるので尚の事、心配になってしまう。
ふと、ひかりは腕に嵌めた時計の時刻盤を、僕に見せてきた。
「これ以上、考えていても仕方ないわ。……それよりも時間は大丈夫なのかしら?」
「ああ。ちょうど良いくらいの時間潰しにはなったみたいだ。今から公園に向かえば、約束の時間までには着くと思うよ」
「それじゃあ、彼女さんとの待ち合わせの場所へと参りましょうか!」
僕が歩き出すと、ひかりもその後について歩き始めた。
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