そこにあるものは、そこにあるものとして、
そこで起こるものは、そこで起こるものとして、
そして素敵なものは素敵なものとして受け止めて描く……ということは、とても難しいことだと思います。
自分の話になってしまいますが、
私は往々にして、(物語の世界の中の)そこにあるはずのものをきちんと描き出す誠実な目線を持てなかったり、
逆に本来そこにはないはずのものを、あるのだと信じ込んで(ハッタリ的に言い張ってでも)書こうとしてしまったりすることがあります。
それは「その他大勢」ではいたくない、あまのじゃくな厨二心のせいでもあり、
京都三条高瀬川のごとき底浅な人生経験のせいで何が大事で何がそうでないのかを見極める審美眼的なものがまだまだ未熟なせいだったりします。
なので、自分で書いたものでも「うーんこれできちんとあるべき物語を捉えられているんだろうか」ともやもやしてしまうことがよくあります。
そういう青臭さとか我の強さみたいなものが、たまたまいい方向にトンガリとして出てくれるケースもあるのかも知れません
――が、天野様のご作品からは、幼い頃に感じた父親の眼差しのような包容力が描写の節々から滲み出ていて、
冒頭に記したような「何を書くべきなのか?」という点を、ブレも背伸びもせずごく自然にお書きになられている印象を受け、
拝読するたびに、ついわかったようなことを書いてしまいがちな自分のことが「ああ、幼稚だなぁ……」と思えて、自分を見つめ直したくなります。(大変勉強になります……)
さて、本作は秋の南紀白浜で、旧型の人型戦闘機のメンテナンスに勤しむという風景(この日常風景に溶け込んでいるSF描写がたまらないですね!)から開幕します。
すると、文字通り基地に突然飛んできた美少女が、基地のレールガンを悪用したテロ計画が進行していることをリークします。
そして主人公たちはテロを阻止するため奔走する――という物語です。
不精しておりまして、読了(2020年1月……)から時が経ってしまった中でのレビューになりますが、
ただ、これだけ日が経った中でも、透き通った読後感がずっと心に残っているんですね。
それはなぜだろうと考え、言語化やとりまとめに悩みながらも、僭越ながらこのレビューを書き起こしている次第です。
お話の中盤からはテロ計画にレールガンに銃撃に……とものものしい展開が繰り広げられるのですが、
舞台である和歌山の牧歌的な情景に、主人公含めて気取りがなくてのほほんとした(ああ関西の田舎町らしい、と感じます笑)基地の人々が描かれ、
どこか不思議な落ち着きに包まれたままで物語は進みます。
ともすればそれは、「緊迫のノンストップ・クライムサスペンス!」というアオリが似合うような迫真性ですとか、
紙面いっぱいにキャラクターの躍動や激情が迸り、ダイナミックな起承転結でぐいぐい盛り上げる、といった描き方とはまた趣の違った雰囲気なのですが、
ほんの少し『引き』で物事を眺め、淡々粛々と受け止めていくような絶妙な視点によって、
ラストシーンで描かれる情景の美しさと余韻がいっそう際立つ印象を受けました。
そのラストシーン、主人公は一連の事件を引き起こした人物の野望がよく理解できず、「それが一体何だというのだ?」と疑問を投げかけます。
ですが、その直後にこうも思うのです。
「しかし、あの●●がそこまでして目指したことなのだとしたら、もしかしたらそれは意味のあることなのかも知れない。」
この主人公の「それが何なんだ?」という冷静沈着な感想は、そこまで読み進めた読者の感覚ともぴったりシンクロするのではないでしょうか。
「え、●●はそんなことのために?」「何もそこまでしなくても」と。
ただ、そこで「じゃ、この話は一体何だったんだ?」とは決してならないのがこの物語の巧みで素敵なところで、
命を賭けるほどの行動に出た犯人の動機が、どこか空疎でちっぽけで理解不能なものとして描かれることによって、
「ああ、自分にもそれなりにこだわりや生き方があるけれど、他人から――というより、この世界からしたら、その程度のものなのかも」と、恐らく考えてしまうのではないかと思います。
最後に描かれる、南紀白浜の青い空と波打ち際、そして浜辺の白いワンピースの少女という印象的なアイコンたち。
ひとりの人間がどう生きてどうくたばろうが、その南紀白浜の光景は、明日もずっと続いていくのだと示唆されます。
でも、空疎でちっぽけで他人に理解されないからといって、私たちは果たして諦観や捨て鉢に染まってよいものでしょうか。
確かに、主人公の眺めていた基地の風景と、舞台の景色のことを思えば、
田舎に佇む巨大レールガンよりも、テロ計画の方がずっと場違いで無粋に思えるものです。
主人公にしてみれば、”そんなこと”に命をかける生き方は理解できませんし、前述の通り恐らく読者の方もそれには同感の思いを抱かれることでしょう。
でも、主人公はその生き方を、否定も断罪もしません。むしろ、もしかしたら何らかの意味だってあったのかもしれない、と受け止めるのです。
「この世は無常なのだよ、人生は所詮泡沫のように無意味なのだよ」と冷たく放り出されて物語が終わるのではなく、
「無常で無意味にも見えるけれど、誰のために悩むのか、何によって目を喜ばせるのかに精一杯向き合うしかないんだよ」という励まされるようなメッセージで〆られたところが、
このほろっと切ないけれども晴れやかな読後感を醸し出していたのかなぁと感じました。
そして、最後にこれだけは言いたいのですが、
「南紀白浜」、この地名は字面としても語感としても本当に反則ですね……笑
私の拙い文章と感想で「もっとこう……他も見所があっただろう!」と思われたらどうしようと思ってもいますが、
もっといろんな方にもぜひお読み頂き、何かを感じてみて頂きたい作品だと思います。