第4話
その日の朝は4月にしたら肌寒い気温だった。
いわゆる桜冷えの日だった。
ほとんど散った桜の木の下に彼女はいた。
花が散って、花びらが消えた枝の先を見つめていた。
僕は自分でも思いもしなかった行動を起こした。
彼女のほうに歩いていったのである。
すると彼女は下に置いたバッグに手をかけて持ち上げ、それと同時に僕のほうに振り向いたのだった。
「おはようございます」
僕は自然に言葉を出した。
彼女の口元がふっと開いて
「おはようございます」
と答えた。
彼女の目をはっきりと認識できる距離に近づいていた。
瞳の色が濃い。
「桜、散っちゃったね」
「はい」
彼女はそう答えるとまた桜の木の方を見上げた。
「入沢中学でしょ」
僕の母校でもある。
「はい、2年生です」
「毎日ここで見ていたよね」
「この木、好きなんです」
「どうして?」
僕はこの質問をして後悔をした。
答えにくい質問だと思った。
少女の繊細な心はこうした心の内面に触れる質問を嫌うことは分かっていたからだ。
「好きっていうか、どうなんでしょうか」
やはり質問への直接な答えから外れた答えをした。
「この木って、寂しそうだよね。向こうの仲間のところにあったら淋しくなかっただろうに」
「そうですか。私はこの木がひとりでここにいることがいいと思ったから」
「ひとりが好き?」
またやってしまった。
答えにくい質問ばかりしている自分に気が付いた。
「そうでもないです。それでは」
彼女は去っていった。
もしかして僕は取り返しのつかないことを話してしまったのではないかと後悔した。心の機微に触れるようなことを多感な少女に言ってしまうことでこれまでにも痛い目にあってきたのではないか。
仲良くなれた女子にそんな言葉を投げて離れられたことがこれまでも何回もあったのに。
僕は反省していたのに。
彼女たちの心の動きが分かる人だったのに、また失敗をしてしまったのだろうか。僕はまたその日一日中そのことばかりに気を取られた。
そして次の朝、公園に入るとまた彼女が桜の木を見上げていた。
僕はただ嬉しかった。
もしかして僕を待っていてくれたのだろうか。
「おはよう」
「おはようございます」
「もう桜の花びらはほとんどなくなったね」
彼女は僕の言葉に答えなかった。
ただ桜の木を見上げていた。
「部活は何をしているの」
彼女は僕に振り向いた。
「バスケットです」
「僕もだよ」
「そうなんですね。先輩ですね」
「そうだよ。でも女子は県大会にも出たことがあるけど、男子は弱いんだ」
「今はそうでもないですよ」
僕たちは2~3分は話した。
バスケ部のことだけしか話さなかった。
「じゃあ、またね」
「はい」
それだけの言葉を交わして別れた。
その日の僕は有頂天だった。
彼女は僕の不躾の言葉を受け入れてくれた。
拒否反応をして去っていかなかった。
また会える気がした。
次の日が楽しみだった。
そして次の日になった。
小雨が降る日だった。
公園に入るとき少し嫌な予感がした。
丘の上の桜の木の下に彼女はいなかった。
ついにそうなったか、僕の運命はそういうことかと思った。
こうなることは目に見えていたのだ。
やはり彼女の心に立ち入ったことで彼女は僕を避けたのだと思った。
もう会えないのか。
僕はまた一日中そのことばかりを考えて過ごした。
そして次の日が来た。
小雨模様は1日前と同じだった。
冬に戻ったかのような朝だった。
桜の木の下には彼女の姿はなかった。
もう諦めよう。
そう思った。
その日は彼女のことを吹っ切る思いで1日を過ごした。
翌日は快晴だった。
朝から強い日差しが照り付けていた。
初夏のような天気だった。
公園に入るときにはもう彼女のことは考えてはいなかった。
丘の上を見た。
そこに彼女は立っていた。
夢のようだった。
「おはよう」
「おはようございます」
「新芽が出てきているね」
「そうですね」
僕は彼女の顔を正面から見た。
彼女もまっすぐに僕に顔を向けた。
「風邪をひいてしまったんです」
「そうか、それでここに来なかったんだね」
「熱が出たんです」
「大変だったんだね。学校は休んだの?」
「一昨日は休んで、昨日は午後から行きました」
また2~3分話をした。
今度は学校の先生の話が主だった。
そしてまた僕たちは反対の方向に向かって歩き出した。
だがその日の別れの言葉は違っていた。
「また明日」
と彼女から言ったのだ。
また明日。
なんという響きの良い言葉だったろうか。
希望の塊のような言葉だった。
友人たちから、また明日、なんて言葉をかけられたことは山ほどある。
でも、彼女のからそう言われたことは友人たちからのとは100万倍も違う。
有頂天とはまさにこのことだった。
僕はその日絶えず口元が緩んでいたように思う。
「お前今日は明るいな」
と友人がしみじみと言ってよこしたほどだった。
#5に続く。
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