第3話
桜が開花して5日目だった。
少女はその日も同じ姿勢で桜の木を見上げていた。
公園の東側にある桜の木の一群のなかには花びらが落ち始めている木もあって、地面には桜色が散らばったのを見ると後何日桜は散らないのだろうかと考えた。
できればなるべく遅くまで散らないで欲しい。
強い風は吹かないで欲しい。
雨も降らないで欲しい。
私は心のなかで思った。
少女のためだった。
それは彼女を見られるからだ。
一日でも多く見ていられるようにしてもらいたい。
祈るような気持ちだった。
彼女は、見上げていたが、一瞬僕に振り向いた。
視線を感じたからだろうか。
はっきりと目が合った。
その間は1秒もなかったのではないか。
本当に一瞬のことだった。
僕はときめいた。
黒目の大きいきりっとした瞳だった。
私は不安になった。
彼女が振り向いたのはなぜなのかということを考えたら、もしかして僕のことを不審者と思ったのではないか、ものごとをネガティブに考えがちな性格がより思いを加速した。
明日は来なくなるかも知れない。
そう考えると学校に行ってももう彼女が見れなくなるという思いが授業中であれ、休み時間でさえ去来してきてその一日は朦朧としたなかで過ぎていった。
次の日はもう半分の気持ちでは諦めていた。
彼女の姿が見れなくなっても落胆の度合いを浅くするために、前の夜に自己防衛本能が働いて、彼女のことを忘れるための心の操作をしてきたのである。
「どうせ、見ているだけなんでどうってことない」
「自分には縁のない人だった」
などと妄想して自分の気持ちを下げることをしてきた。
公園の東側の桜の木たちは4割ほどの花びらを失っていた。地面には徐々にピンク色の欠片で埋まってきている。
丘の上の桜の木も次第に花びらが落ちてきているようだった。
彼女はいつもの姿勢で見上げていた。
「わっ」
と声を上げそうになった。
「僕のことを用心していたんじゃなかったんだ」
心のなかで呟いた。
そもそも振り向いたのは偶然だったのだろう。
1秒にも満たない時間しか僕を見なかったので、僕のことが果たしてちゃんと見れていたのかどうかも怪しいものだ。
今日は振り向いてはくれなかった。
少し歩いて私が振り向くと彼女は下を向いて歩き始めていた。
僕が振り向いたのは今日が初めてだった。
今まで振り向かなかった理由は分からない。
彼女の後姿の余韻が振り向かせない何らかの力を出していたのだろうか。
とにかく、振り向いたのは初めてだった。次の日も彼女はいた。
公園の桜はもうほとんどが花が散っていて、丘の上の桜の木だけがまだ辛うじて2分くらいの花が残っていた。
前の日に激しい雨が降り、花を落とさせたのだった。
僕は雨が恨めしかった。
もう彼女はあの木の下にいないかも知れない。
そう思うと悲しくなった。だが、彼女はいた。
いつもの姿勢で桜の木を見上げていた。
うれしかった。
ただそれだけだった。
僕はゆっくりと歩いた。
彼女が振り向いた。
彼女の頭が下がった。
僕に挨拶するように。
いや、たしかに僕に頭を下げて挨拶していたのだ。
私も思わず頭を下げた。
彼女の顔がこちらを向いていた。
口元が緩んで微笑んでいるようだった。
僕はどんな表情をしてよいのか分からずにもう一度頭を下げた。
歩みの速度を上げた。
その場を早く離れたかった。
恥ずかったのだろうか。
私は駆け出すように公園の出口に急いだ。
動悸が穏やかにならなかった。
電車に乗って窓越しの景色を見ていたのだが、僕の瞳の上には彼女の微笑みが浮かんでいた。
その状態が一日中続いた。
心は朝の光景の繰り返しだった。
公園の入り口で桜の木たちを見て、悲しい気持ちになり、丘の上の桜の木をみて、彼女の姿が見えたときは安心した。
通り過ぎたとき彼女が振り返って僕に挨拶した。
彼女の微笑み。
初めてまともに彼女の顔を見たような気がした。
後ろに引っ張って結んだ髪。
眉の下の目は大きく、目が優しい光を放っていた。
彼女の口元が緩んで微笑んだ。
そこまでの映像が繰り返された。
家に帰ってからも同じだった。
心のなかにその日の朝の時間にすると数分の出来事がその日の16時間のすべてを占領していた。
次の日の朝が来た。
公園の東の入り口付近の桜の木には花がほんの申し訳程度にあった。
丘の上の桜の木にもほとんど花はなかった。
彼女がいた。
同じ姿勢で木を眺めている。
僕は彼女に近づいた。
何も考えていなかった。
前の晩もそんなことは考えていなかった。
だが、体が自然に動いたのだ。
彼女に近づくと、私の気配を感じたのか、彼女の体が少し動いた。
半歩後ずさりしたのだ。
私は動揺した。
「しまった」
彼女は用心したのだろうか。
私は何ということをしてしまったのか。
彼女はゆっくりと下においてあるカバンに手をかけた。
そして私の方に体を向けた。
#3に続く。
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