生死希望

 殺してくれ、と兄が願った。


「え……」


 お兄ちゃん、嘘でしょう。そう笑い飛ばそうとしたけれど、できなかった。


 兄はその頬をずいぶん前から枯らしているのに、私を見つめるその眼差しは、熟れた果実のようにしっかりとしていて、声さえ輝きを纏っているように感じた。枯れ木と並んで生えていた若葉が、大きさや積み重ねてきた年月の違いを知り、小柄な自分の方が惨めに思えてしまう、そんな感覚に似ているのではないか。この人は本気でそう願い、その行為に大いなる希望を抱いているのだと知らされる。

 だからと言って、はいそうですか幸せにします、などといった返事が出来る訳がない。喉は乾いて動かしにくく、身体の震えがより思考を邪魔する上に、眩し過ぎるからか、私の方が目を逸らしたくなってしまう。この指が必死に掴んだ刃物が、兄の肉を裂く感覚を双方に伝え、次の瞬間にはあっけなく床を赤く染めるのだと想像してしまえば、息をするのも耐え耐えになってしまいそう。もし濡らさなければいけないとすれば、どうか私の涙であってほしい。

 目の前の兄は、行方をくらましていた人であった。金を欲し、溺れ、付き合っている女性を脅迫してまで手に入れたかと思えば、全てをパチンコで消し去ってしまい、身近な人に八つ当たりをする。より詳しいことを述べなくとも、誰もが駄目な人間だと思うだろう。

 思い返せば、私は兄の背中ばかり見ていた。兄が自分を追い詰めることも、今に始まった話ではない。学勉で時間を削り続ける時もあれば、荒れ果て、独り行き場もなく部屋に篭もっていた日々もあった。兄妹だというのに、私にとって兄はどこか遠い人でしかなかったのだ。

 それでも、私は兄を嫌ったり、見捨てたりすることはできなかった。生まれてきたときからずっと、私にとっては大事な兄だ。理由なんて、ずっと一緒にいた、血の繋がった人だからという他にいるだろうか。


 その遠かった兄が、今私に死を乞うている。


「お願いだ、殺してくれ」


 そう言って、弱々しく、縋るように手を握りしめてきた。振り払うこともできるのに、それができないと思ってしまうのは、漸く兄の真正面を見つめることができたからだろうか。

 嫌だと、否定することすら難しく、重い使命のように感じられた。


 何が幸せなんだと、言い張れるのだろうか。 



 了

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