奇妙なショートショートを読む本
伯爵
1.かくれんぼ
そっと、玄関の扉を開ける。
私は心の中で自分に喝を入れた。
「ただいま」
仕事に行く前の様に、元気に振る舞う。
嫁から「おかえり」は無い。
今では、口も聞いてくれなくなった。
綺麗好きだった嫁のために、今では私が毎日、家を綺麗に掃除する。
廊下は、私の輪郭が映るほど磨き上げられている。
私の嫁が鬱病を患ったのは、結婚してから二年経ってからだった。
私が向き合っていなかっただけで、本当はもっと前から何か抱えていたのかも知れない。
病院にも通わせていたが、症状の悪化は止まらなかった。今では、通院する気力まで無くなってしまった。
「どこにいるんだい?出ておいで」
一通り、リビングや寝室を覗いて、優しく呼びかける。
彼女は私を他人の様に警戒する様になった。私に見つからない様に、気配を消す。
小柄だからか、近くにいるのに気付かない事もザラだ。
今日の彼女はリビングの角に、身を縮めて座っていた。
私はそっと彼女の前に立って、頭を撫でた。
「見つけたぞ。お好み焼き買ったから、食べよう」
我が家では、「ただいま」から彼女を見つけるこの日々のやりとりが、一種の儀式になっていた。
一年経つ頃には、彼女は
「いつか、彼女の事を二度と見つけられなくなってしまうのでは無いか」そういう恐怖に駆られて、私は一生懸命嫁を探した。
テレビと壁のわずかな隙間で見つける事もあれば、その軟体を生かしてバッグに収まっていた事もあった。
いつしか、私には家事をする余裕まで無くなってしまった。
毎日の食器洗いが間に合わないので、飯はコンビニで買った物で済ませた。
掃除も、やらなくなった。
ある日、私は仕事が終わると、嫁の好きだった食べ物を買ってやった。
そっと鍵を回す。
ゆっくり、時間をかけて扉を開ける。慎重になるあまり、手が震えてくる。
開いていく扉の隙間からは、目を離さない。
約一分間、それが玄関を開けるのにかける時間だ。
「ただいま。今日はたこ焼きを買ってきたぞ」
優しく、甘い声で話しかける。
薄暗い廊下に、
ビニール袋やジュース缶、濡れた布。
「出ておいで。一緒に食べよう。このたこ焼きは美味いぞ」
少し点滅してから、リビングの電気が付いた。
足の踏み場も無いほど、弁当やカップ麺の殻などが散らかっている。
いない。
それでも、もう一度目を凝らす。テレビの裏の隙間。カーテンの中。部屋の角。ソファと壁の間。
つぶさに観察して、次の部屋に移っる。台所、トイレ、風呂場、子供部屋。
いない。
汗で身体が濡れていた。私は上着を脱ぎ、ネクタイを外した。
家の中で一番清潔な風呂場で、ひとまず干そう。
そう思った矢先に、私は彼女を見つけた。
廊下の天井に、張り付いていた。
脂ぎった黒い髪を垂らしている。
気付いていない風を装って、ゆっくりと廊下を歩いた。後頭部に、彼女の視線を感じる。
私はそっと、たこ焼きの袋を置いた。
扉の取っ手に手をかけると、彼女はようやく気付いて、奇声をあげた。
黒板を爪で引っ掻くような、背中におぞけの走るような叫びだ。
引っ掻く様な音で、彼女が勢いよく天井を這ってくるのを感じた。
しかしその時には、私は玄関の扉を閉める所だった。
鍵を締めて、外付けのかんぬきも落とした。
どうも最近、彼女はかくれんぼが上手くなってきている。
私が捕まった場合、何が起こるのかは、考えないようにしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます