最終話 五月の蝉の鳴く声は


「儂は辛いモノが好きでね。この店の麻婆豆腐は絶品だ。食べると良い」

 車椅子に乗った老人は、そう言ってメニュー表を見るよう、電蔵に促した。

「いえ、酒だけで結構です。どうせ味は解りませんから」

 電蔵は久しく使っていなかった敬語で、慇懃無礼にそれを断った。

 和服姿の老人は、黒い丸眼鏡を中指で押し上げ、キツキツと怪鳥じみた笑い声をあげる。

 呼び出したウェイターに、料理と酒を注文すると、凝ッと電蔵の顔を見つめた。

 比叡山の中腹にある中華料理店は、さほど繁盛しているようには見えなかった。もっとも、豪奢な内装や値段のないメニュー表などから、一部の選ばれた人間だけが入ることが出来る類の店であることは、電蔵にも察することが出来る。

 丸い回転卓を挟んで対峙する二人の席の外では、老人の護衛である男達が無言で銅像のように佇立していた。

「さて、何処まで話したかな……ああ、事件の犯人についてかな?」

「大陸系マフィアの仕業だと聞きました。博物館の盗難も、市民の殺害も、令嬢の誘拐すらも、全て彼等のやったことだと」

 電蔵は口元を皮肉げに歪めながら答えた。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい決着。架空の犯人、架空の捜査、架空の逮捕、架空の裁判。

 まるで悪い冗談である。現実には、架空ではない実際に殺された人間達が、確かに存在しているというのに。

「蘆屋局長は大変な怒りようでしたよ」

「無理もない。だが、これは政治の話だ。治安警察の出る幕ではないわ」

 老人は少しも悪びれず、平然としていた。彼にとって、あらゆるものは盤上の駒でしかないのだろう。世界という盤に、人間という駒。それを誰かと奪い合う遊戯。

「今回はかなりの収穫があった。民間の技術者もなかなか侮れん。あのヒトガタをそれなりに整備し、失われた技術を解析していた」

 彼がヒトガタを与えた久久津大社は、情報防衛法違反で会社ごと潰された。勿論、具体的なことは一切報道機関に公表されてはいない。情報統制は完璧だった。

「あの男は、通信インフラの復活に応用するなぞと抜かしておったよ」

「そうなると困る、とでも言いたげですね」

 電蔵は、眼前の脚本家を嘲笑うように言った。やはりどうしても、地が出てしまうのは抑えられない。

「情報は不用意に扱っていい物ではない。大昔、誰でも自由に情報を発信し、受け取り、また盗み出すことさえ出来た時代があった。自由と無秩序は紙一重だ。為政者はさぞかし頭が痛かったことだろうな」

 戦前の世界を懐かしむように、丸眼鏡の奥の老人の眼は、電蔵を越え、遙か遠くを見ていた。

「さあ? 俺には解りませんね。政治は門外漢なので」

 さも退屈げに、電蔵は欠伸をする。無礼は承知の上だ。

「技術の進歩は素晴らしい。それは認めよう。だが、高みに昇り詰めた後に待っているのが何か解るかね? 衰退と頽廃だよ。昇ってしまえば、後は降りるだけだ。昇る速さが急激であれば、落ちる速さも急激になる」

「それは……陸年戦争のことですか?」

 老人は巧みに話を誘導していた。電蔵は彼の話を無視出来ない。戦争の体験者として、戦った兵士として。

 老人は手元のコップの水を一口飲むと、ふっと息を吐いた。禿頭にまで及ぶ皺は、まるで樹木の年輪。電蔵の記憶が正しければ、老人の年齢は百歳近いはずだ。

「当時、世界は自由で平和だった。誰かが言っていたが、人間は闘争をすることが止められない生物らしい。只、あの時代、闘争しようにも大きな敵は消えていた」

 老人の言わんとすることを悟った電蔵は、衝撃に思わず腰を上げると、声を荒げ、

「ヒトガタがその敵だと? ヒトガタは自分達の意志で人類に対して叛旗を翻したはずだ」

 護衛の男達が素早く電蔵を拘束しようと動くが、老人がそれを手で制した。

 老人は電蔵の困惑した顔をつくづくと眺めると、おもむろに話の方向を変えた。

「……君は聖書を読んだことがあるかね? 旧約聖書だ。ミルトンの『失楽園』でもいい」

 電蔵は椅子に座り直すと、吐き捨てるように、

「俺は無神論者だ。聖書の中身ぐらいは知っているがね」

 もう敬語を使う必要はなかった。敬意など元からなく、老人が既に身内でないことを確信したからである。

「神は土から最初の人間を造った。人間も同じように鉄からヒトガタを造った。さて、この二つの事例は似ているようで、決定的に違うところがある。何か解るかね?」

 電蔵は聖書の物語を思い出す。楽園にいた最初の人間。彼等は神が定めた禁忌を破った為に楽園を追われることになった。そこで、彼ははたと気付いた。

「知恵か。ヒトガタは知恵を創造主の意志で与えられた」

 電蔵の苦渋の表情に、老人は満足そうに頷いた。

「御名答。知恵を持たぬヒトガタは道具に過ぎない。だが、知恵を持ったヒトガタは道具から奴隷になった。奴隷と飼い主の関係の変化は、人間の歴史が教えてくれる」

 陸年戦争。地球の環境を変えるほどの核の使用と、膨大な死者を生み出した、人類とヒトガタの戦争。

 電蔵は思い切り拳を卓に叩きつけて、叫んだ。

「馬鹿馬鹿しい! 人類は敵を欲しているだと? あの戦争に意義も大義もなかったというのか?」

 老人は少しも動じず、哲学者のような口振りで、

「人間は不条理な生き物だ。子供は時間をかけて作った砂の城を、自らの手で簡単に壊してしまう。本質はそれと変わらん。只、技術によってその規模が変わるだけだ」

 電蔵は今すぐにでも老人を殴り倒したかった。死んだ戦友の姿や、人ではなくなったしまった己の体のことが脳裡を過ぎった。

 もうこれ以上、この場にいることは我慢出来なかった。鬼の形相で立ち上がると、護衛の男達を無理矢理押し退け、出て行こうとする。その背中に、老人は何気ない調子で声をかけた。

「三船大尉、お前が始末したあのヒトガタだがな。封印処理を施しておいた電子脳髄の記録によれば、《十王母》から特殊な任務を与えられていたらしい」

 電蔵の足がピタリと止まる。老人は感慨深げに言った。

「どうやら、人間との共生の可能性を探っていたようだ。皮肉な話だとは思わんかね?」

 電蔵は鋭く舌打ちすると、振り返らずに、

「俺の知ったこっちゃない。もうあんたとも二度と会うことはないだろう。サヨナラだ、巻南統合幕僚長」

 老人は懐かしい名で呼ばれて、キツキツと嬉しげに奇妙な笑い声をあげた。

「儂はもう軍籍も、その名前も捨てた。確かに二度と会うことはないかもしれんな。お前も達者で暮らせ」

 目一杯の皮肉を無視して、店を出て行こうとする電蔵に、また老人が声をかける。

「ああ、言い忘れておったがな。あの花織という娘の手術は無事成功したぞ。今回の件に巻き込まれた人間には、相応の補償をするつもりだ。国の上に立つ人間としてな」

 電蔵は彼の言葉を無視して、今度こそ店を後にした。

 老人は盤上の勝利者として、耳障りな哄笑をあげ続けていた。


           ※   ※   ※


 電蔵は強い日射しの下、麓へと続く道を歩いて行く。

 汗ばむ陽気にトレンチコートは不釣り合いだが、暑さを感じない彼にとっては関係のない話だ。

 知らない方が良かった真実など珍しいものではない。しかし、許せるものと許せないものがある。

 では、このまま戻って、あの老人を殺してやろうか――そんな考えが脳裡を過ぎったが、自嘲してすぐにそれを捨て去った。

 彼を殺したところで死んだ人間が生き返る訳ではない。自分の体も元に戻らないし、時計の針を巻き戻すことは神にも不可能だ。多少、気は紛れるかもしれないが、それは只の自己満足に過ぎない。

 老人は被害者に手厚い補償をすると言っていた。なら生かしておいた方が良い。それで救われる人間がいるのならば。

 電蔵は、あの空蝉と呼ばれていたヒトガタについて、古書店の元部下が語っていた言葉を思い出していた。

 部下曰く、あのヒトガタは限りなく人間に近いヒトガタだったらしい。それは老人の言ったこととも合致する。

 だとすれば、電蔵と空蝉は似たような存在だと言えた。

 人間であることを捨てた人間と、ヒトガタであることを捨てようとしたヒトガタ。

 電蔵の耳に、ふと蝉の鳴き声が聞こえてきた。

 まだ五月だというのに、森の中で、恐らく一匹だけ、時期を早とちりした蝉が鳴いている。

 思えば、空蝉というヒトガタはその名の通り蝉だった。

 蝉はその人生の大半を地中で過ごす。ヒトガタも四十五年の間、眠り続けていた。

 蝉は地中に上がり羽化すると、一週間足らずで死んでしまう。ヒトガタも一週間だけしか稼働出来なかった。

 違いは、蝉は子孫を残せるが、ヒトガタは残せないということである。

 ただし、全ての蝉が交配に成功する訳ではない。

 だが、そんな蝉でも、抜け殻だけは残すことが出来る。

 蝉の抜け殻のことを、古くから日本では空蝉と呼ぶ。

 あのヒトガタもまた、人知れず何かを残していったのかもしれない。

 電蔵はそんなことを考えつつ、ブラブラと気怠げに坂を下っていった。

 孤独な蝉の鳴き声に、耳を傾けながら。

                      

                     

                   了

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空蝉ハ望月ノ雫ニ濡レテ 志菩龍彦 @shivo7

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