第10話 夢

 痛覚を完全に切ることは危険だった。本人が意識せずとも、衝撃で気絶してしまう可能性があるからだ。そうなっては、次に眼が覚めるまで無防備になってしまう。

 三船電蔵は、ゴッソリと削られた心臓が痙攣に似た収縮をしながら、細胞の活性化により治っていくのを、鈍痛に耐え待っていた。心臓をここまで破壊されたのは、彼にとっても初めての経験だった。

 空蝉がこちらの死を確認せずに引き下がったのは、幸運としか言いようがない。

 十五分程で、電蔵の心臓は元通りに回復した。胸に空いた穴では、筋肉や皮膚の細胞がザワザワと不気味に蠢き、元の形に戻ろうとしている。

 腕に力を込めて体を起こした電蔵の口から、大量の血反吐が橋の上にぶち撒けられた。内臓に溜まったそれを全部出し尽くすまで、吐血は何度も何度も繰り返された。

 電蔵は荒い息をしながら、刀を杖代わりにして立ち上がった。失った血液の分だけ顔色が悪いが、感覚の方は大分戻ってきている。

「相打ち……の上に、仕留め損ねか。クソったれが」

 欄干に寄りかかり、悔しげに呻いた。刀が完璧に機能しないことは予想済みだったにしても、あまりにも間が悪すぎた。踏み込みも足らず、首を落とすところまではいっていない。トドメを刺せなかった。

「深傷は負わせたが、これでまた振り出しか……」

 今度は相手もかなり用心してくるだろう。今日のように丁度よく見つけることが出来る可能性は低い。このまま回収されてしまう恐れもある。

 電蔵は無性に煙草が吸いたくなって、胸の内ポケットに手を伸ばした。しかし、そこには見事な穴が開いているだけで、肝心の煙草の箱は消えてしまっている。

 苛立ちまぎれに欄干を蹴りつけ木っ端微塵にした時、いきなり電話のベルの音が聞こえた。

 電蔵は刀を握り直すと、警戒しながら、音の源を探した。彼の鋭敏な聴覚はすぐに目的の物を見つけ出した。

 それは橋のたもとにある電話ボックスだった。戦前、携帯電話の登場により絶滅しかけたが、戦後に携帯電話が使えなくなると再び需要が生まれ、今では珍しい物ではなくなっている。

 罠の可能性は充分にあった。だが、殺す、或いは拘束することが目的なら、既にそうしているはずだ。ならば、別の目的があるとも考えられる。

 電蔵は電話ボックスの中に入ると、周囲に眼を配りながら、受話器を耳に押し当てた。

 聞こえて来たのは聞き覚えの無い老人の声である。掠れた、だがはっきりとした発音で鼓膜を震わすその声は、何事かを電蔵に伝えていた。

 みるみる内に電蔵の顔が強張り、目つきは剣呑さを増していく。

 電蔵は話を聞き終わると、受話器を叩きつけて電話を破壊した。電話ボックスから飛びだして、シャッターの閉まった商店の屋根へと跳躍する。

 そして、屋根から屋根へと飛び移り、明かりが見える近くのホテルの窓を目指した。

 辿りついた電蔵が中を覗き込むと、そこにスーツ姿の若い男がいた。書類をそこら中に散乱させ、爪を噛みながら、部屋の中を犬のように歩き回っている。時折、手元にある機械らしきものを見ては、頭を掻き毟っていた。

 電蔵は凶悪な人相になると、いきなり窓硝子を蹴り割り、部屋に躍り込んだ。

 乱入してきた電蔵に、男は呆気に取られていたが、それが誰だか理解した瞬間、廊下につながるドアへと逃げようとした。

 その首根っこを無造作に掴むと、人形でも振り回すように、電蔵は男を壁に叩きつけた。

「手前に訊きたいことがある」

 低い声で言うと、胸座を掴んで男を宙づりにする。

「あのヒトガタは何処にいる? 今、この瞬間、何処にいるのかって意味だ。手前は知っているんだろう? 手前が調整したヒトガタなんだからな」

 電蔵の言葉に、男は愕然とした。何故彼がそれを知っているのか。どこで情報が漏れたというのか。

 しかし、それを考える暇を電蔵は与えてくれない。振り上げられた拳に、男は慌てて床に落ちているメモ帳程の大きさの機械を指した。

「あ、あれで、空蝉の……ヒトガタの現在地が解る……」

 電蔵はそれを聞くと、ゴミでも捨てるように男を放り投げ、その機械を拾った。

 機械の液晶画面には、京都市の地図が表示されており、赤い点滅がその上を移動していた。これが、空蝉と呼ばれるヒトガタの位置を示しているらしい。

 赤い点滅は京都市の南の方へと移動をしていた。地図の縮尺を考えると、かなりの速度である。

 電蔵は機械を睨み付けていたが、すぐに気を取り直して、入ってきた窓から外に出て行こうとした。

 だが、途中で止まり振り返ると、忘れていたとばかりに、男の体を死なない程度の力で、蹴り飛ばした。

 男が破壊されたドアごと廊下に転がって悶絶している時には、もう部屋の中から電蔵の姿は消えていた。


                  ※


 夢を見ていた。

 頭がぼうっとして、周りのことがよく解らない。

 離れから帰ろうとしたところまでは覚えているけれど、そこから先は何も覚えていない。

 トランプやあの人の綺麗な貌や自分の心臓のことなんかが、ぐちゃぐちゃにぐるぐる頭の中で廻っている。

 だからこれはきっと夢を見ているのだ。

 多分、自分は鳥になっているのだろう。

 強い風を受けながら、体が宙に浮いている感覚。

 きっと大空を自由に羽ばたく鳥になっているのだ。

 嬉しい。凄く嬉しい。

 ずっと憧れていた。籠の鳥ではなく、空を舞う鳥に。

 それに、とても矛盾した言葉だけれど、温もりのない人の温もりが、何故か体に感じられた。

 冷たくもなく、熱くもない、あの人の温もり。

 とても頭が良くて、怖いほど綺麗で、まだあたしの名前を呼んでもくれない、残酷なまでに優しい人の温もり。

 それを感じられることが、何よりも嬉しい。

 この鳥の夢のことは、きっと眼が覚めたら、忘れてしまうのだろう。

 でも、そんなのどうだって構わない。

 あの人のことさえ、覚えていられれば、それだけで、それだけで――。


                                  つづく

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