第9話 月闘
天上の銀盤は、夜の世界を仄白く浮き上がらせていた。
白州の砂利は輝き、流れる川の水音は涼しげで、新緑の匂いを含んだ風も心地良い。
京都は嵐山の渡月橋。
普段は人で賑わう有数の観光名所も、治安警察からの外出制限により、人影はたったの二つしかない。
一人は大きな鉛の箱に座っている男。
一人は番傘をさした、紫陽花柄の着物の少女。
偶然の邂逅ではない。
今まで一度も事件の起きていない地域が此処であり、だからこそ、男は待っていたし、少女は来たのだった。
「良い月夜だ。しかし、昨今、物騒だと聞いている。送ってあげようか、お嬢ちゃん?」
口元が明るくなったのは、煙草に火をつけたからである。紫煙を吐き出しながら、三船電蔵は、泰然自若として、探し続けた標的を見据えていた。
一方の着物の少女、空蝉は夜間でも関係なく相手を識別出来るその眼球で、今宵の獲物を見つめていた。ただし、そこには人形の無機質さも、捕食者の獰猛さもない。何とはなしに、心此処にあらずといった面持ち。憂いとすら呼べるものが表れていた。
「お前は……そうか、あの時、仕留め損なった男か」
空蝉の記憶に、電蔵の姿はしかと残っていた。最初の狩りの時に、唯一殺せなかった男。
「覚えて貰っていたとは光栄の至りだ。こっちもずっと探してたんだよ」
電蔵はゆっくりと立ち上がり、箱を軽軽と持ち上げた。
「借りはきっちりと返す主義でね。今までお前が殺した人間の分も含めてな」
のんびりと言い放つが、少しも油断はしていない。先手を取る、或いは躱(かわ)す為、神経を研ぎ澄ませている。自然体でありながら、微塵の隙も感じられなかった。
空蝉は、電蔵の分類を、「獲物」から「敵」へと変更した。箱の正体は解らないが、何かしらの兵器である可能性がある。あらゆる状況を想定する必要があった。彼の筋肉や骨格は、通常の人間の物ではない。
空蝉は静かに番傘を閉じると、何気ない調子で、
「死よりも恐ろしいものが……お前にはあるか?」
電蔵が「獲物」ではなく「敵」だからだろうか。空蝉にもそれは解らなかった。ただ単純に、人間に訊いてみたくなったのだ。
電蔵は訝しげに眉根を寄せたが、自嘲気味に笑い、
「生憎と死とは無縁な人間でね。死は怖いどころか歓迎したいくらいだよ」
ジリジリと空蝉との間合いを慎重に計っている。彼女の様子が何となくおかしいことは察していた。だが、それが有利に働くか不利に働くかの判断はまだ下せない。
咥え煙草のまま、張り詰めた空気を乱さぬようにしながら、電蔵は言った。
「しかし、そうだな……友人が死ぬのは怖いかもしれん」
それ故に、彼女を破壊しなければならない。これ以上の犠牲者を出さない為に。
空蝉は無言のまま眼を細め、番傘を肩に担いだ。
「破綻した論理を理論的に理解出来るはずもない。ただ、人間には出来るのだろうな」
風に流され雲が満月にかかり、月光に照らされていた白貌にすっと影が出来た。
刹那、空蝉の足下が爆発した。否、彼女の跳躍に耐えきれず、橋の木材が爆散したのだ。
疾風と化した空蝉にとって二十メートルの距離は無いに等しい。ただし、不用意に、接近戦へと持ち込むのは危険である。
空蝉は白い腕を振った。木屋町で数多の首を切り落とした、あの時のように。
電蔵はそれを予測していた。すかさず、鉛の箱を盾の如く自分の前に押し出した。
耳を劈つんざく激しい金属音。
箱には透明な刃のような物が突き刺さっていた。あまりに薄く、それでいて強靭なそれは、刃渡り五メートルに及んでいた。
攻撃を受け止められた空蝉は即座に、二の腕から伸びた刃を引き抜き、飛び退った。
刃は水が逆流するように、彼女の腕の中へと戻っていく。固体だった刃が、一瞬にして液体へと変化していた。
電気に反応し自在に変化する特殊な液体金属。それが空蝉の不可視の得物なのである。
「情報通りだな。間違いない、お前はあの時代の産物だ。そして忌忌しい亡霊だよ」
電蔵は鉛の箱を素早く下ろすと、錠のかかってないそれを開き、彼の得物を取りだした。
それは奇妙な形をした刀だった。一番近いのは、工具の糸鋸だろうか。ただ、大きさは一メートル半を越えており、金属製のそれの背にはコイルが幾つも生えていた。
電蔵は柄の根本のボタンを押すと、箱を蹴り飛ばし、糸鋸のような刀を下段に構えた。
「お前は俺と同じだ。この時代に在ってはならない物だ」
糸鋸の糸の部分が電気の火花を散らし、目映いばかりに白く輝き始める。電気と熱で、刀に近い橋の床は焦げ出し、異臭が漂い出していた。
「だから俺が始末する。いないはずのお前を、いないはずの俺が」
咥えた煙草を吐き出すと同時に、電蔵は疾駆した。
空蝉との間合いは一瞬にして消失する。人間の脚力では到底不可能な速さ。
プラズマと化した刀身を、電蔵は袈裟に切り上げる。
空蝉は流体金属の刃で迎え撃つ。
旧時代の二つの兵器がぶつかり合い、渡月橋は目映いばかりの光に包まれた。
押されているのは空蝉の方だった。流体金属は異様な音を立てながら、ジリジリと蒸発しかけている。電蔵の刀の熱量に耐えるだけの強度はない。
電蔵は相手が守りに入ったのを見逃さなかった。ゼロコンマ数秒だけの脱力。僅差で拮抗していた双方の力のバランスが崩れる。
一合、二合、三合、四合、電蔵は間断なくひたすらに刀を打ち続ける。
空蝉は防戦一方になりながらも、焦ることなく、その時を待っていた。人間は機械とは違い、正確に同じことを続けることは出来ない。
一撃、ただ一撃さえ入れば、それで決着はつく。
一秒が無限にも思える空間の中で、刃を合わせ、ただ、好機を待つ。
そして、それは唐突に訪れた。電磁波の乱れという不確定要素によって。
電蔵の刀からほんの一瞬、プラズマが途絶えた。同時に、空蝉の刃も硬度を失った。
双方にとって致命的な隙であり、絶対的な好機。
空蝉は刃を諦め、低い姿勢から抜き手を電蔵の心臓目掛けて突き出した。
電蔵も、空蝉の首を落とすべく刀を振り下ろす。
――音がした。
肉の壊れる音と、機械が焼ける音。
全身を痙攣させ、胸から鮮血を噴き出させながら、電蔵は前のめりに倒れた。
左腕と胸、そして頭の左半分を僅かに焼き切られた空蝉はヨロヨロと後退した。
先ほどまでの戦いが嘘のように、皐月の夜の空気が、残り火の燃える渡月橋を包んでいた。
川のせせらぎは優しく、蟲の音は挽歌めいている。
空蝉は電蔵に背を向けると、切り落とされた腕にもまるで頓着せず、元来た道を戻り始めた。
最初はノロノロと、やがて、早足に、そしてついには飛ぶような速さで。
空蝉の認識能力は欠落しかけていた。電蔵から受けた頭部への熱と衝撃によって。
現状の判断も出来ず、自己の状態も気にとめていない。何故、自分が此処にいるのかも判然とせず、ただ忘れものをしている気がして、その漠然とした動機を、最優先事項と無理矢理に意味づけ、その為に行動していた。
だから、電蔵の首を刎ねなかった。
だから、花織のいる鞍馬山の屋敷へと向かった。
つづく
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