第8話 札遊び

 

 障子越しに射し込む陽光が、離れの中を照らしていた。

 畳の上には五十二枚のトランプの札が、絵柄が見えないよう伏せられた状態で、ばらまかれている。

 空蝉と花織は札を間に挟んで対座していた。空蝉は背筋を伸ばし正座をしているが、花織は足を崩している。最初は正座をしていたが、痺れには勝てなかったらしい。

 二人がやっているのは神経衰弱だった。伏せられた札から同じ数字の札を見つける単純なトランプ遊戯。その遊戯をかれこれ二時間近くもやっている。

 空蝉は遊戯に興じるふりをしながら、花織という興味深い少女を観察していた。

 花織は不思議な人間だった。幼女のように無邪気で、老婆のように諦観している。人間が矛盾した知性体であることは理解していたが、花織の精神は単純に見えて、実に複雑なのだ。喜怒哀楽が顔に出やすいが、それが本当であるという確信が持てない。自覚があるのかは不明だが、本心を悟らせない術に長けている。

「これと……これ、ほら、当たりですね」

 札を捲った花織は、嬉しそうに二枚の札を自分の手元に迎え入れる。

 初めて空蝉と出逢った日から、もう一週間が経とうとしているが、彼女は傍目にも解る程、変化していた。

 会話力、精神調整、記憶力、場の空気を読む力……空蝉が瞠目する程に、彼女は急速に人間としての能力を伸ばしている。空蝉との邂逅がその切欠であることは明白だった。

 あの日から、毎日、昼頃になると花織は空蝉のいる離れにやって来ていた。体調の良い日だけという条件だったのだが、彼女曰く、毎日調子が良いとのことである。それが嘘でないことは空蝉にも解っているが、それ故に腑に落ちないものがあった。感情の力で体の調子が調整出来る程、人間の肉体は単純ではない。

「あ、駄目。はい、空蝉さんの番ですよ」

 空蝉は無言で札を二枚捲る。ハートの6とクラブの6。続けて捲り、ハートの3とジャックの3。しかし、三度目は違う数の札を引いてしまった。手番は花織へと移る。

 神経衰弱は記憶力の遊戯でもある。ヒトガタである空蝉にとってこれ程楽な遊戯はない。開けられた札は完全に覚えているので、終盤になればなるほど失敗はなくなっていく。

 だが、それでは勝負にならないので、空蝉は態と違う札を選んでいた。そのおかげで、花織との勝負はほぼ互角といっていい。ここまでやって、三勝二敗で花織が勝ち越している。片方が大勝ちすることはなく、全て僅差で勝負がついている。

 今回の勝負は、空蝉の勝ちだった。これで三勝三敗の五分である。

「あたしの負けかあ。空蝉さん、記憶力良いですよね」

 負けたはずの花織だが、何故か嬉しそうだった。勝敗など気にしていないように見えた。ただ、この瞬間、この時間そのものを楽しんでいるかのようである。

 だとすれば気を利かせて態と負けている自分が馬鹿らしく思えてくるが、空蝉は特に彼女を疎ましいとは思わなかった。むしろ、空蝉も彼女と過ごす時間に、ある種の意義があることを感じていた。空蝉はそれを特殊な人間のサンプリングだと解釈していた。少なくとも本人はそう認識していたのである。

「うーん、三勝三敗の引き分けですね」

「丁度良い。今日はここまでにしよう。集中力を使う遊技だ、やり過ぎは体に毒だぞ」

 空蝉は何気ない調子で言ったが、花織はハッとして、にわかに表情を曇らせた。それは仮面ではなく、彼女の本心が直接表れたものだった。

 不味い言葉は言っていないはずだが、と空蝉は訝しげに花織の顔を見つめる。

 花織は俯き、膝を強く握っていたが、次に顔を上げた時には、もう不安の色は消えていた。

「最後に後一回だけやりましょう。しかも特別ルールで」

 空蝉の返答も待たず、札を掻き集めると、全て伏せてから混ぜ合わせた。五十二枚の札が、二人の間で、捲られるその瞬間を待っている。

「ルールは簡単です。札を取った人は、相手に一つ質問が出来る。相手はそれに嘘を吐かずに答えなければならない。札が取れる限り質問は何度しても良い。札を取れなかったら、自分の番は終わりです。そして、最終的に勝った人は、相手に一つだけお願いを出来る。相手はそのお願いを叶えなければならない」

 急に提案されたルールの真意を、空蝉は眼で花織に問うたが、彼女はニコニコと笑うだけである。ルールに不満がある訳ではないので、彼女の気紛れとして、空蝉は処理することにした。

「じゃあ、さっき勝った空蝉さんからどうぞ」

 花織に促されて、空蝉は適当に札を捲った。札はスペードの2とダイヤの4。外れで、花織の番である。

 花織が一枚目を捲ると、ハートの2が出た。すぐに先ほどのスペードの2を捲る。これで花織に質問の権利が与えられ、空蝉には正直に答える義務が生じた。

 花織は二枚の札を見つめながら、ぽつりと、最初の問いを発した。

「じゃあ質問です。空蝉さんは、今街で起きてる事件のことを知ってますか? 偶偶お手伝いさんが話してるのを聞いたんです」

「知っている。殺人事件のことだろう? 結構な人数が殺されているらしいな」

 空蝉は抑揚のない声で即答する。花織は何も言わず、次の札を捲った。一枚目はクラブの9、二枚目はハートの9。連続で当たりである。まだ計算や記憶力が関係してくる段階ではない。

「質問です。空蝉さん、いつも夜に出かけてますよね? それはお仕事と関係あるんですか? 事件は決まって夜に起きてて、夜間の外出を控えるように言われてるのに」

 空蝉は当惑した。夜の外出に気付かれているとは思いもしなかった。花織は一体何を知りたがっているのか。

「仕事の関係だ。夜間にしか出来ない作業があるのでね。危険でも仕事を休む訳にはいかない」

 嘘は言っていない。具体的な内容に対する質問ではないので、ルールは守っている。しかし、答えを聞いた花織の顔には翳が差していた。力なく指でカードを捲ると、ハートの1とスペードの4が出た。今度は空蝉の番である。すかさず、ダイヤの4とスペードの4を捲る。空蝉に質問権が移った。

 ただ、空蝉にはこれと言って、訊きたいことが思い浮かばなかった。花織の魂胆が解らない以上、下手なことは訊けない。なので、当たり障りのない質問にした。

「心臓の調子はどうだ? 医者は何と言っている?」

 花織は微苦笑を浮かべて答える。だが、その裏に彼女特有の諦観があることを、空蝉は見逃さなかった。

「悪くなってはいない……そうです」

 空蝉は小さく「そうか」と呟くと、札を捲った。花織の顔を見る限り、嘘の下手な医者なのだろう。札はハートの11とクラブの6である。自分の番になった花織はハートの11を捲ると、もう一枚をゆっくりと捲った。それはスペードの11だった。

 心臓と剣の札を引き当てた彼女は、少しだけ驚き、静かに呼吸を整えると、真っ直ぐに空蝉の玉蟲色の瞳を見つめながら、

「質問です。あたしは後、どれくらい生きられますか?」

 彼女の眼は今までにない真剣味を帯びていた。嘘を吐いてはいけないルール。彼女のご機嫌をとる為なら、平気で破ることは出来るが、空蝉はそうしなかった。彼女は嘘を見破るだろうし、それを聞きたいと望んでいないと思ったからだ。

「心臓の手術をしなければ、長くて一年が限度だろう」

 冷酷に、空蝉は事実を言った。病魔は確実に彼女の寿命を縮めている。一刻も早く手術をする必要があるのだ。

 花織は手を止めて、障子の外へと視線を向けていた。太陽の暖かい光りを受けるその表情は、言いようもない程に穏やかなものだった。一年以内に死ぬという死刑宣告にも似た言葉を聞いた人間の顔ではない。

 外にある苔むした庭からは、小鳥の囀りが聞こえてくる。生命を謳歌する物達の喜びの声が。

 空蝉には理解出来なかった。何故、彼女は平気な様子をしているのか。恐れもせず、納得したようでさえある。

 花織は何事もなかったかのように、遊戯に戻ると、札を二枚捲った。クラブの3とダイヤの1。空蝉はハートの1とダイヤの1を引き、疑問を率直にぶつけた。

「君は死が怖くないのか?」

 死は人間にとって絶対の終焉だ。ヒトガタのように脳髄の情報を外部に移すことが出来ない以上、人生に置いて死は一度しか起こらず、それで全てが終わってしまう。

 花織は空蝉の問いに、僅かの間考え込んだ後、やはり落ち着いた様子で答えた。

「上手く説明出来ないですけど、夜眠りますよね? そして、次の日の朝には眼を覚ましますよね? でも、眠ったまま、眼が覚めないままの時が来るとしたら……それが死ぬってことなんだと思います」

 永遠の眠り。言葉にするのは簡単だが、そのうそ寒いものを受け入れられる人間がどれだけいるだろうか。

「五歳まで生きられないと言われて、次は十歳、それで十五歳になって……多分、最初は怖かったと思います。でも、もう忘れてしまいました」

 花笠花織にとって、死は常に身近なものだった。達観していると言えば聞こえは良い。だが、そこに達するまでにどれだけの恐怖と絶望を味わってきたのかは、本人にしか解らないのだ。

 空蝉は初めて、人間という生き物に、矛盾や不条理を越えた、何かを感じ取った。

 札を捲り、ダイヤの6とクラブの6。空蝉は問う。

「死を恐れない君にも、怖い物はあるのか?」

「怖い物、ですか……?」

 花織は小首を傾げ、考え込んだ。やがて、彼女の唇が震えだした。目の端に涙が溜まって、今にも零れ落ちそうになっている。そんな顔を見られたくないのか、花織は俯き、小さな手で空蝉の着物の袖を掴んだ。指が白くなるほどに強く、強く。そして、消え去りそうな声で、

「空蝉さんが……貴女がいなくなってしまうことが、あたしは、あたしは一番怖い」

 堰を切ったように、嗚咽が漏れた。花織の心の中に溜まっていた物が、一気に溢れだした。

 卵の時から籠の中の鳥だった少女。知人もなく、友人もなく、恋人もなく、紋切り型の同情を寄せる他人が精精で、それすら殆どいなかった。彼女の人生は籠の中で始まり、籠の中で終わるはずだった。

 空蝉という存在が現れるまでは。

「……危ないことはしないで、ください。夜に、外に、出たりしないでください」

 空蝉は何も言わなかった。否、言えなかった。偉人と呼ばれた人間の言葉なら、幾らでも頭の中に詰まっている。人を慰める言葉も知っている。だが、どれが適切なのか、彼女の電子脳髄は選択することが出来なかった。

 出来ることと言えば、早くこの遊戯を終わらせることだけだった。空蝉は立て続けに、一度のミスもすることなく、残りの全ての札を取り、強引に勝利を収めた。

「勝利者は願い事をすることが出来るんだったな。私の願望は、二度とこのルールで遊戯をしないことだ」

 札を綺麗に纏めると、空蝉はそれを返しながら言った。

 花織は小さく頷くと、頭を下げて、離れを出て行こうとした。その背中に向かって、

「もし、君が勝っていたら、何を願うつもりだったんだ?」

 唐突に投げつけられた質問に、花織は振り向き、無理矢理に笑顔を造った。

「伏見稲荷の千本鳥居に連れて行ってもらいたかったんです。写真でしか……見たことがなかったから」

 言い終わるが早いか、花織はぺこりと頭を下げて、離れから出て行った。

 小さな足音が遠退いていく――と、いきなりそれが途絶え、何かが床板に倒れる音がしたのを、空蝉の集音器官は正確に捉えていた。

 

                                  つづく

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