第5話 空蝉
もしヒトガタに意識というものがあるならば、空蝉は意識を取り戻していた。
電力消費を抑える為、人間で言えば仮眠に当たる状態にあった彼女は、部屋に近付く足音で意識を再起動した。
瞼を開けると少女の姿が眼に入った。
即座に捉えた映像を解析し、分類し、認識する。
少女の名は花笠花織。花笠家の人間。協力者の親族であり、許可無く危害を与えてはならない対象。敵対する人間ではなく、よって戦闘状態への移行は停止。この先は、自己判断に委ねられる。人工知能を持っているヒトガタにしか出来ないことだ。
花織は眼を見開き、口をパクパクとさせている。何かを言いたいのだろうが、上手く言葉が出てこないらしい。或いは思考が停止しているのか。
「はじめまして。私は空蝉という。何か御用でも?」
仕方なく空蝉の方から助け船を出した。恐らくは、会話をしたいのだろう。それが緊張で出来ない。人間とはつくづく不便なものだ、と空蝉は思った。自己の肉体も思考も、自由に制御出来ないのだから。
「あ、あ、あの、あたしは花笠花織です。貴女は、お、お父様の会社の方なんですか?」
胸を押さえながら、上ずった声で、花織は言った。
空蝉は、彼女の問いに、この家での自身の設定が正しく認識されていないことを知った。協力者が敢えて告げていないのかもしれない。
それにしても解らないのは、花織の反応である。頬は上気し、脈拍は速くなっている。これは興奮しているのだろう。何故、興奮或いは動揺しているのか。状況を把握、再度、思考する。
「正確に言えば会社の関係者だ。これでも科学者の端くれでね。飛び級で大学を出て、博士号も持っている。それと安心しろ、君の父の愛人じゃない」
花織が興奮や動揺する原因は二つ考えられる。一つは、父親の仕事の関係者が幼い少女だという事実による混乱。もう一つは、それは嘘で、本当は愛人ではないかとの疑惑。説明をすれば解決は容易なはずである。
「か、科学者なんですか、その歳で? 女の子で、大学も出てて、科学者で、それに……」
花織の心拍数は更に上昇した。眼が若干、潤んでいるようにさえ見える。
この反応は空蝉にとって予想外だった。明確な答えを出したはずだが、相手は納得するどころか、見当違いな方向に思考をしている。愛人に関しては、はなから考えてもいなかったらしい。
「驚く程のことじゃない。少し落ち着け。心臓に負担をかけない方がいい」
空蝉は花織の心臓に重大な疾患があることを知っていた。このまま興奮させ続けると、危害を加えてはならないという制約に背くことになる。制約を破った場合、強制的に全機能が停止させられる設定にされているのだ。
空蝉に宥められ、忘れていた痛みが急に意識され始めた彼女の顔は、苦悶に歪み、蒼白となっていく。
体を丸く縮こませ、額に脂汗を浮かべて、荒い呼吸をする花織の姿は、明らかに危険な兆候を示していた。
空蝉は直ぐさま椅子から降りると、彼女の背をゆっくり擦りながら、出来るだけ優しく声をかけた。
「大丈夫だ。体を楽にし、息を整えろ。今すぐどうこうはならない」
空蝉の応急処置が効いたのか、彼女の呼吸はやがて緩やかなものになっていった。ぐったりとしているが、肉体の緊張も解けている。心臓に悪影響を与えたかもしれないが、危ないところで制約には抵触せずに済みそうだ。
花織の介護をしながら、空蝉は皮肉を感じていた。元来、ただ人類を滅ぼす為に作られた自分が、制約の為とはいえ、人の命を助けている。これも再起時に連中に書き加えられた情報の影響だろうか。ならば、他にも電子脳髄が改竄されている可能性がある。
「……ありがとうございました」
申し訳なさそうに眉を下げる花織だったが、知らず知らずの内に、その手は空蝉の手を握っていた。空蝉は取り敢えず安心させる為に手を握り返し、
「気にする必要はない。それより、早くちゃんとした医者に診てもらうんだな」
花織はこくりと頷いたが、まだ暫くは自力で動くことは出来そうにない。緊急時に助けを呼べるよう非常用のベルが屋敷には備え付けられており、この離れも例外ではなかった。彼女は、空蝉にそのベルのボタンを押してくれるように、お願いをした。
空蝉がそれに応えてボタンを押すと、十秒と経たずに、遠くの方から慌てた足音が聞こえてくるのが解った。
「空蝉さん……どうして、あたしの心臓のことを知ってるんですか?」
花織はふと湧いた疑問を口にした。父は自分の娘の心臓病のことを滅多に他人に喋る人間ではない。初めはそうでもなかったが、詐欺師紛いの医者達に出逢ったせいで、警戒心が強くなっているのだ。
空蝉はそんな事情など知りはしない。心臓疾患の情報だけは、事前に得た物に加え、現在の脈拍の異常や肉体の衰弱等の外的情報で解りはするが。ただ、この場合は自分が万一にもヒトガタだと悟られないよう、無難に前者を選ぶのが得策だと判断し、
「君の父から話は聞いている。無茶をして、心配をかけさせるべきではない」
それは合理的な答えだった。故に、花織が何処か腑に落ちない顔をしていることも、さして気にはならなかった。人間の表情と内心が必ずしも一致するとは限らない。
離れにやってくる足音は三人分あった。現在、屋敷にいるのは花織を除けば、母親と家の手伝いの女性二人しかいないので、その三人で間違いはない。
安堵したせいか、霞んでゆく意識の中で、花織は空蝉を見つめながら、言った。
「また……此処に来ても……良いですか?」
空蝉は咄嗟にどう答えるべきか迷った。仕事の邪魔になるだろうが、下手に勘ぐられても困る。家人である彼女と良好な関係を結んでおいた方が拠点として使い易いし、出す情報を絞れば、正体に気付かれる心配もない。
「別に構わない。ただ、今日のようになっては困る。体の調子が良い時だけだ」
空蝉の言葉を聞くと、花織は小さく微笑して、すっと気を失った。
彼女の小さな手は、気絶した後も、空蝉の手を握ったままだった。
つづく
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